Brute - 3/5

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 してやられた。
 舌打ちを一回。ドフラミンゴは苛立った感情を隠そうともせずに、口をへの字に曲げてぎりと歯噛みした。高身長の桃色のコートをまとった男ですら余裕で包み込むだけの高さを持つ回廊を行き交っている海兵たちは、不機嫌と不愉快を合わせたようなサングラスをかけた男、王下七武海の一人の気に障らぬようにと、あまりにも見事で美しい敬礼を通り過ぎる度に捧げていた。
 滑稽な光景にドフラミンゴはさらに不愉快になった。面白くない。どいつもこいつも右へ倣えで面白くないのである。一種の精密機械のように整然とした光景はドフラミンゴの心を一つも擽ることをしない。言葉では表現しがたいほどに面白くなかった。ミトは、あの自分の女は何処へ行ったろうかとドフラミンゴはきょろきょろと視線を彷徨わせる。クロコダイルが来ていたという話をふとそこでドフラミンゴは思い出し、そして部屋で待たせてあるという単語もようやく頭に浮かんだ。あの二人が揃った光景は気に食わないのだが、退屈を紛らわせてくれることは間違いがない。
 長い舌でドフラミンゴは吊り上げられた口角から形成されている不敵な笑みの唇を舐め上げた。クロコダイルとて忙しい男。そう長居はするまいとあてをつける。帰ってしまえば、愉しい時間の始まりである。
 つるにこっぴどく絞られたこともすっかり忘れて、ドフラミンゴはニタニタと先ほどの機嫌の悪さなどどこへやらといった態度で足取り軽く廊下を先へと進んだ。
 何が面白いかと言えば、あの女が面白いのである。海賊嫌い、七武海に気を許していない人間など確かに探せば星の数ほどいるだろうが(白猟のスモーカーなどその最たる例ではないか)、ああまで自分を嫌い尽くす海兵というのも珍しい。無論。無論それとて探せば海兵の中にもそういう人間はいるにはいる。
 それは言うまでもなく、ドフラミンゴも承知の上のことであった。だが、あの海での上の戦いぶり、最初にこちらを見てきたあの目。しかしドフラミンゴは思うのである。あの女は自分のことを海賊ではないというが、女自身もまた海兵ではないだろうと。海兵は、あんな顔はしたりはしない。海賊を捕える瞬間にひどくつらそうな背中など見せたりしない。
 海軍にとって海賊は敵である。絶対正義の名のもとにある存在がある限り、それに対応すべき絶対悪が存在しているのが常である。
 そしてドフラミンゴはまた思う。彼女はおそらく海兵としてあるよりも、海賊としてある方がずっと近いと。だから、奇妙な歪が生じている。それがあの女を興味をひかれる初めの対象にした。その歪から今にも壊れそうなのに、女は倒れることがない。壊れることがない。正義の二文字を美しくはためかせて、戦場で舞う。戦いぶりの凄まじきたるや、目を奪われずにはいられない。
 ケモノは人間ではない獣であれば、ケダモノは思うに、人間でも獣でもないそれである。
 戦い勝利すれば捕えなければならない矛盾を抱えて、それでも刀を振るう瞬間のあの表情は全く見ものであった。望遠鏡の向こうの躍動する筋肉、緊張する背中、振るわれる腕、それに研ぎ澄まされた刃。船長の頭を鷲掴み、甲板に叩きつけたあの瞬間の光景には心が高揚した。正義の文字が流れて正しい形を重みで取り戻す。歪み捻れて、女はそこに立っていた。てきぱきと指示を出し、海兵としてやるべきことをやっていた。
 歪みに歪んで亀裂が入っている人間の形をしたモノであった。
 駄目だと言われたことほどやりたくなる。世界を滅ぼすボタンがあれば、自分が間違いなくそのボタンを躊躇なく押すことをドラミンゴは知っている。何故と問われればそれが面白いことだと知っているからである。結末の見えている、筋書きが立っているものほどつまらないものはない。だからこそ、壊れそうで壊れない、倒れそうで倒れない、自分をどこまでも嫌いぬいている女をドフラミンゴは気に入っている。
 フッフと噛み合わせた歯から零れた特徴的な笑い声だったが、それはふと廊下のT字路に見えた男性将校の姿で止まった。顔に傷を持つ(傷を持っているものなど海兵であればいくらでもいるのだが)その憎たらしい顔をドフラミンゴはしっかりとその目で記憶していた。自分とは大層相性の悪い彼女の部下である。と、いうよりもそりが合わない。手にはプレスの終わった、先刻自分が女から奪おうとした海賊旗が持たれている。どうやらそれを女の下へと届ける様子である。
 おい、とドフラミンゴは将校に声をかけた。将校は当然のようにびっと美しい敬礼をした。海賊旗は敬礼の際に上げない方の手にさっと気づかないように持ち帰られ、まるでドフラミンゴの視界から隠すように移動させられる。にこやかな笑みを男はその顔に浮かべた。
「如何致しましたか、ドフラミンゴ様」
 白々しいことを聞く男である。ドフラミンゴは微かに口端を引き攣らせた。この男がつるを連れてさえ来なければ、思うようにできたというものを。そう考えれば考えるほど、ドフラミンゴの腹の中でぐるりと苛立ちがとぐろを巻いた。忌々しい。
 それをサングラスをかけている男から読み取ったのか、中佐階級の男は再度同じ言葉を繰り返した。如何致しましたか、と。
 そんな男をドフラミンゴは高い位置から見下ろした。桃色のコートがわさりと音を立てる。こういうタイプの男は腹の内で何を考えているか理解できない。目に見えて反抗されないものはあまり面白くない。姑息さを感じさせる男をドフラミンゴは眉間に軽く皺を寄せ、サングラスの奥でその両眼を細めた。細めたところで、視界に映し出されている男の何が変わるわけでもなかったが。
 黙ったままのドフラミンゴに男は敬礼を崩し、見事な規律の姿勢で受け答えを続けた。
「御用がないようでしたら、失礼させて頂きます」
「待てよ」
「はい」
 上手いこと逃げようとした男をドフラミンゴはその言葉で止める。男は相変わらず規律の姿勢で巨体の男と相対したままで居た。今度こそ、少しくらい痛めつけてみようかとドフラミンゴは指を動かそうとした。今は目付の白い鳥の名をもつ老兵もいない。殺すわけでもなし、女が自分に口を一生効かないということもないだろうとドフラミンゴは高を括った。
 中佐、ギックはドフラミンゴの指の動きを規律の姿勢のままで視野に入れ、ゆったりと視線を持ち上げる。体の主導権をドフラミンゴが奪い取ったことをギックは知った。起立の姿勢が崩れる。操られていることを承知なのか、ギックの表情は一向に変わらない。まるで子供の砂遊びの光景を眺めるかのような表情を眺め、ドフラミンゴは微かに顔を顰めた。彼の上官のように不愉快極まりないという態度か、もしくは恐ろしくてたまらないといわんばかりの引き攣った悲鳴の一つでも上げれば、溜飲も下がろうというものである。だが、男のしたり顔は変わらない。
 お互いが言葉を発さない沈黙が落ちている中で、ドフラミンゴはその指先を第二関節を曲げてみせる。ギックは後ろに回していた手を自然な動作で前方に持ってくると、起立の姿勢で体の脇につけていたもう片方の手で海賊旗を裂くような動作で手にした。成程、と操られている男は単純な言葉を口にする。
「裂いては、大佐に怒られます」
「だろうな」
「ドフラミンゴ様、あなたが」
「ア?」
 続けられた言葉にドフラミンゴの額に青筋が立った。はは、と今にも旗を裂こうとしている姿勢で、男は軽やかな笑みをその顔に乗せた。恐れや怯えは一切ないそれはドフラミンゴにとって全く面白いものではなかった。
 怒りを顕著にした男に相対する男は、目をわずかに細めた。目の窪みの皺が寄り、眉は八の字に下がり、まるで相手を馬鹿にするかのような表情を作る。最後の口元に浮かべられた弧はそれを強烈なものにした。
「ドフラミンゴ様にお会いしたと大佐に告げれば、破かれた旗がどうしてそうなったかなど…その経緯をおれの口から述べる必要すらなく、大佐は理解してくださるでしょうから。おれが大佐の命令を無視することがないことをあの方は存じておりますし…何しろ」
 一拍おかれたことにより、それ以降のセリフがひどく強調されてドフラミンゴの耳に入る。お喋り男の右端の口角がくっと高めに持ち上げられた。操られた状態でその光景は多少滑稽とも呼べたが、人の神経を十分に逆撫ではした。
 おれは、と続く。
「大佐に信頼されておりますので」
 あなたと違って。
 最後の言葉は音にはせず、唇の動きだけでドフラミンゴに伝える。輝かんばかりの笑顔で、男はこれ以上ないほどに命知らずな言葉を口にした。尤も、ギック自身、ドフラミンゴが己を殺せないことを知っていた。そんなリスクが高いことをするはずもない。
 ドフラミンゴはギックの唇の動きにフフと奇妙な笑みをこぼした。腹筋を動かす笑い方は、体をわずかに折り曲げさせた。その巨体がくの字に曲がり、鮮やかな金色の髪はどピンクのコートに埋もれた。
「憎たらしい野郎だぜ」
「お褒めに預かり光栄です、ドフラミンゴ様。何しろおれはあの人には勿体無いくらいに有能な人材ですから」
「もういい。それで?ワニ野郎はもう帰ったのか」
 ひらりと手を振ってドフラミンゴは今現在彼の上官がどうしているかと男に問うた。しかしながら、返ってきた言葉はドフラミンゴが求めた回答ではなかった。
「ドフラミンゴ様がお帰りになられたならば、サー・クロコダイルも帰られるかと思いますが」
 どういう意味だと問おうとしたドフラミンゴだったが、その前にその疑問の答えをギックは口にした。うっすらとその目が細められてドフラミンゴのサングラスを映す。
「いえ、こちらを大佐にお渡しする際にドフラミンゴ様がまだお帰りになられていないことを報告しようと思っておりました」
 ドフラミンゴ様。
 流暢な名前が男の口から流れ落ちる。弧を描いた口元と細められた目はそれを笑みと呼ぶべき表情にしていた。しかしながら、その目は全く笑っていない。ドフラミンゴはくんと小さく眉間に皺を寄せた。喧嘩を売られているのであろうか。
 名前から男の話はまだ続いた。
「我々は我々の大佐がとても大事なのです。女としては全くお話にならない大佐ですが、我々にとっては頼りになる上官です。上官を痛めつけられる様を見て喜ぶ部下は我々の部隊には配属されておりません。戯れも程々にして頂けると大変助かります」
「…このおれに意見するつもりか」
「意見?まさか!乞うているのです。王下七武海の一角であるドンキホーテ・ドフラミンゴ様に口答えなどと…恐ろしくて恐ろしくて。考えるだけで膝が笑います」
 嘘つきめとドフラミンゴは相変わらず演技の適当な男を見下ろして口元を大きく歪めた。指の動きが止まったのをギックは視界の端で捉え、主導権が返還されたのを知り、引き裂こうとしていた海賊旗を丁寧に畳み直す。
 端と端をしっかりと合わせて最初のようにきっちりとさせ、ギックはそれを体の横につけた。人をどこか小馬鹿にしている様な笑顔はそのままである。寧ろ、人を食ったような。歯向かってくる生きのよい人間は好きだが、こういった自分とよく似たタイプの人間はドフラミンゴの好むところではなかった。同族嫌悪と呼ぶのが最も正しい。
 それでは失礼致しますと軽やかな敬礼を目の前でぴっとされる。待てともう一度声をかけようとしたときに、背後から若様と声がかけられた。振り返ればそこには部下が一人立っており、船の準備が整いましたと返される。黙ってろと怒鳴りつけて、もう一度振り返った時には中佐階級の男の姿は既にそこにはなかった。してやられた。してやられた。して、やられた。
 舌打ちをもう一度し、ドフラミンゴは壁を強く蹴りつける。亀裂が壁に入る。視界の端に立っている部下がその音にびくりと体を震わせた。ぎりぎりと歯噛みする。面白くない。全くこれっぽちも面白くない。
「あの野郎」
 彼女の部下であることをいいことに言いたい放題やりたい放題してくれる。あの女の部下は皆この調子なのかと考えるだけで頭が痛い。
 響くような痛みが走る頭を押さえ、ドフラミンゴはフフと口端から笑いをこぼした。この調子であれば、彼女があの男が口にしていた部屋にいる可能性など殆どないに等しい。探したところで、クロコダイルがいれば同じく面白くない。
 ああくそとドフラミンゴは吐き捨てた。