Brute - 2/5

2

 ピンク色のコートを身に纏った男が横を通る度に、九割近くのMARINEの文字を横にした海兵たちは顔を青褪めさせて美しい敬礼をする。それは日々の訓練の賜物であり、海兵としての条件反射のようなものでもあった。
 ドフラミンゴはそんな男たちを他所に、長く続く回廊を長い脚で外股で歩く。かの女将校はどこだろうかと耳を澄ませた。自分の船が岸に着いた時には既に軍艦はもぬけの殻であったので、本人は既にここに居るに違いない。
 しかしながら、いつもであれば居るはずの彼女にあてがわれた部屋には誰も居なかった。ただ、サイン待ちの書類がきっちりと整頓されて机の上に置かれてはいた。そこで、くるりと椅子を回して、ドフラミンゴは暫く待っていたのだが、待てど暮らせど女が帰ってくる気配はなかったので、廊下を歩き探すことになった。まず向かうは、海軍大参謀の部屋である。しかし、ドフラミンゴはその途中で足を止めた。鼓膜を怒鳴り声が叩いた。怒鳴り声というよりも、喚き声という方が正しいのかもしれないそれがする方へと、ドフラミンゴは足を向ける。そう珍しいものでもないけれども、何故だか自然と足が向いた。
 通路を曲がる。肌が、泡立った。人を酔わせる飲み物の瞳が、女の頭よりも随分と低い位置にある男を見下ろしていた。男が手に持っている布は、先程女が捕えた海賊の旗であった。女と同様、海軍将校と見られる、尤も女が敢えて反抗をしていないのを見ると、彼女よりも階級が上なのは明らかだろう。こんなもの、と男は笑い、手にしていた布を床に落とした。そしてそれを踏みつける。靴底は汚れていたのか、髑髏の部分に泥がついた。踏みつけ躙り、まるで子供のように男はその旗を嘲った。横から眺めても、その光景は大層滑稽なものであった。
 だがそれ以上にドフラミンゴは心惹かれた。戦場など、比較にもならない。獣などと、失礼な発言であったとドフラミンゴは前言を撤回する。そんなものではない。あれは。
 ケダモノだ。
 殺意の塊である。ゴミ以下の物を見るような目つきで、そのゴミをこの世界という場所から消し去ろうと、存在も記憶も何も、一片残らず抹消してやろうと言わんばかりの空気が、びしびしと跳ねた。軽く噛まれた唇は血がうっすらと滲んでいる。舐め取ってやりたい。
 はは、と男は笑い、ようやくぐしゃぐしゃになってしまった海賊旗から足を上げた。ご丁寧に、最後には床に落ちているそれに唾を吐きつける。そして、額に青筋を立てている女を見やり、文句でもあるのかと嘲笑った。
「でしゃばりおって。海軍の恥さらしが」
 女の額の青筋がびくりと深くなる。しかし殴りかかるようなことはせず、女は眉間に深い縦皺を作り、男の足が退けられた旗を取ろうと床に手を伸ばした。
 だが、その手の甲の上に一度男は退けた足を押し付けた。靴底と出っ張った男の腹の重みが一つ掌に乗る。だが、女は表情筋を動かすことは無かった。視線だけを動かし、そして、そこに至ってようやく言葉を発した。苛立ちは無い。けれども、言葉では表現しきれぬ感情が彼女の声に乗っているのに、ドフラミンゴは気付いた。尤も、その感情が何故にそうなっているのかは分からない。そしてまた知らない。
 靴底の乗った手の甲は、強く叩きつけられたせいか覗いている部分は赤く染まっていた。しかし女は取りあげようとした海賊旗を放すことはしなかった。ぐり、と先程海賊旗を踏みつけたように、男は足首を捻った。だが、男の動きはそれで止まった。女のもう片方の掌が男の足首に痛い程に巻き付いている。骨すらも軋ませるその強さで、ズボンに皺が寄っていた。
 反抗する声がそこで響く。あなたに、と底冷えする様なその声は、鮮やかな色をしたコートを身に纏った男の腹を冷やした。
「この旗を踏み躙る権利などありません。足を、退けて頂きたい」
 敬語は人の神経を逆なでするために口にされたのか、それとも女自身の精神を平静にするために使用されたのかどうかは定かではない。だが、睨まれていた男はその理由を前者と捉えたようで、腰に帯びていたサーベルを鞘ごと掴み取り振り上げる。
「上官に口答えするかッ!」
 女は振り上げられたそのサーベルを恐怖の色も何もなく、視界に淡々と映し出す。侮蔑と軽蔑だけが、そこに残されていた。双眸に映った己の姿を見た男は顔を茹でダコのように真赤にして、持っていた武器を屈んでいる女の肩口に向かって振り下ろす。
 だが、それは女の体に当たる前に止まった。
 ミトは男の顔に浮かんだ驚愕と恐怖と、そして引き攣ったその憐れなまでの表情にはっと後ろを振り返る。暗く床に映った影の形をミトは知っていた。今にも振り下ろされようとしていたサーベルの鞘は、男の掌の中にすんなり納まっていた。
「このおれの女に、おイタが過ぎるんじゃねぇのか…?」
「ドフ、ど、ドフラミンゴ様…!こ、これは大層失礼を!」
 申し訳ありません、と男は平身低頭した。とっとと行け、とドフラミンゴは男を追い払う。そして、見上げていた女の視線に気づいて、にたと笑った。
「大丈夫か?」
「誰がいつお前の女になった。舌を抜かれろ」
 返された言葉の素っ気なさに苦笑しながら、男は両腕をひらと広げて、肩を竦める。屈んでいたミトは折っていた膝を伸ばし、その背筋に一本のラインを作り、立つ。手には汚されてしまった海賊旗が持たれていた。
 それがそんなに大事か、と男は女に問うた。それにミトは冷めた視線を動かし、お前が海賊ならばと返した。
「そんなくだらない質問はしない。海賊旗は海賊にとっての誇りと信念だ。汚されて、嬉しいものか」
「そう言う意味じゃァねぇ。お前にとって、それが大事なのかどうかって聞いてんだ。おれァ」
 海兵が海賊旗を大事に扱うってのもおかしな話じゃねェか、とドフラミンゴは両の手をポケットに突っ込んでそう言った。海賊にとって海賊旗がどういう意味を持つのか、ドフラミンゴがそれを知らないはずもなく、その男にとって海賊旗に泥を塗ると言う行為は耐えがたい行動の一つでもあった。
 一般論であるそれを、ミトは当たり前だ、と続けた。珍しくまともな会話が続いている。静まり返っている廊下には、他の一切の音は反響せず、ただ女と男の会話だけが響いていた。
「我々が海賊から奪える物は、唯一つ、自由だけ。彼らの矜持と信念を汚す権利は、我々にはない。ましてや、敗北した海賊の旗を悪意を持って踏み躙るなど、海兵のすることではない。猿にも劣る愚劣な行為だ。海賊として戦った彼らの尊厳をどうして」
 何でもない。そう、女は男から視線をそらした。それ以上の会話を望むつもりはないらしく、かつんと革靴を鳴らした。どうやら手にした海賊旗を洗いに行くらしい。
 ふぅんと指先で顎を撫でさすり、ドフラミンゴは踵を返して背を見せたミトに声を掛け止める。しかし、女は足を止めることはない。目に痛い色のコートを着た男と同じ場に立つことすら嫌だと言わんばかりに、靴を鳴らしながら先へと進む。それが気に食わないのか、ドフラミンゴは長い手を伸ばして、女の肩を掴んだ。だが、それは凄まじい勢いで振り払われる。叩き落された手は、赤く腫れた。女の手もまた、男に踏まれていたのと、今先程ぶったために、赤くなっていた。
「触るな」
 呑みこまれた。
 ドフラミンゴは、下方にある女の双眸をサングラス越しに見ていた。瞳の奥底にはっきりと燻ぶっている、普段とは比べ物にならない程の、暗闇に潜んだ、否、初めて見た女の怒りというものを見た。驚くほどにそれは、触れれば火傷をし、女のその身も心すらも遠慮なく焼き尽くしているようにすら見えた。
 荒み膿み、想像もできない程の憎悪を抱えた女はそこに居た。人間ではないように見えた。真黒な人間ではない「何か」の塊のように、ドフラミンゴはそう捉えた。肌に触れる空気が冷たくひやりと凍えを覚えさせる。場の空気が一二度下がったようにすら感じられた。
 ケダモノ。
 ケダモノだ。
 驚愕の次に男を襲ったのは歓喜であった。フッフと堪え切れない笑いが溢れかえる。こういう生き物を飼うのは、さぞ楽しいことだろう。自由を奪い、自分のモノにし、屈辱の中で睨みつけてくる瞳は格別にイかせてくれるものだろう。
 ああ、とドフラミンゴは嘆息した。
 ミトは手を振り払うと、動きを見せないドフラミンゴを一睨みして、先程向かおうとした方向へと足を向けた。だが、完全に振り返る前に手首を強い力で掴まれ、そのまま壁に押し付けられる。振られ様に腰に帯びていた刀で遠心力を加えて、ドフラミンゴの鳩尾を突いたが、掌の力が緩むことはなかった。フッフと笑い声が響き、刀を持っていた手を背に回され、捻り上げられる。殺すつもりでかからない限り、この男を捕縛することは不可能であることを、ミトは知っている。しかしそれができないこともまた、知っていた。
 自分を壁に向かい合わせ、押し付けている男は七武海である。王下七武海なのである。
 冷く固い壁を頬に押さえつけられながら、ミトは臍を噛んだ。その眉間に深く寄った皺は暫く取れそうもない程であった。こんな、と男の声が耳元で囁かれる。気持ちの悪さで鳥肌がぶつぶつと立つ。
「他の野郎の旗なんざ、持ってくれんなよ。妬いちまうじゃねェか」
 後ろで捻った方の腕が持っている海賊旗をドフラミンゴは引っ張った。が、しかし、それは女の手から離れることはない。もう少しばかり捻る力を加え、今にも折れそうなほどにしたが、ミトの手がその海賊旗を手放すことはなかった。
 代わりに声が壁に向かって発される。
「お前が手にして良い旗じゃない」
 これは、と女の口が言葉をはじかせる。
「私が…ッ!私が!自由を奪った海賊の誇りだ!お前のような男に渡せるものか!」
「…へぇ」
 そう。
 ドフラミンゴは、何故だかその海賊旗を奪いたくなった。奪うなと言われれば奪いたくなる。そういうものである。限界まで捻っていた女の腕をさらにひねりあげて行く。じわりじわりと、骨と筋、腱が悲鳴を上げて行く音がしていた。踏みしめられた女の脚は、微動だにしない。折るなら折れと、言っているようにすら思えた。
 そこまで言うなら折ってやると、ドフラミンゴはさらに力を込めた。びぢり、と嫌な音が関節内で打ち響いた。だが、それと同時に、ああこちらに居られましたか、と緊張感の無い声が響く。そして続けざまに、ドフラミンゴ!と窘める老兵の声が廊下を走った。
「おつるさんかよ」
 この海兵、と頭に傷を持つ女の部下をサングラスの奥で睨みつけて、ドフラミンゴはミトの腕から手を離した。
「何をおしでだい」
「何もしてねぇって、おつるさん。おれはいつだってイイ子だぜ?今だって、こいつが馬鹿な上官に殴られそうになったところを助けてやったばかりだ。なァ?」
 女は否定も肯定もせず、悲鳴を上げたほうの関節を掌で押さえていた。流石に痛みはするようで、脂汗が額に浮いていた。睨みつけてきた瞳に、な、とドフラミンゴはもう一度繰り返して、肩をすくめる。
 つるの視線を受けながら、本当だぜ、と男はもう一度繰り返した。
「大佐」
「…中佐、これを洗っておいてくれ。私は氷嚢をもらってくる」
 ちらりと中佐と呼ばれた男は、歯を見せて笑っている男を見上げ、分かりましたと言い、差し出された海賊旗を受け取った。つるに一礼し、踵を返した上官の背中に部下は思い出したように声を掛ける。
「サー・クロコダイルが執務室でお待ちです」
「直ぐに行くと伝えてくれ」
「分かりました」
 それではこれで、とつるをその場に連れてきた男もにこやかな笑顔で一礼し、主にその笑顔はドフラミンゴに向けられていたのだが、その場を後にした。
 取り残された男は、佇んでいる老兵の視線に気不味そうに、ニッと笑う。
「おつるさん」
 海軍大参謀は返事をしない。ただ、とがめるような視線を男に向けている。おつるさん、とドフラミンゴは叱られた子供のように困り果てた。先程の様子とはうって変わった調子に、しかしながら、つるはその厳しい表情を崩すことはしない。
「悪さはしてねぇよ。可愛い悪戯だぜ」
「…悪戯も大概におし」
「おつるさんがそう言うなら。全く、アンタにゃ頭が上がらねェ」
 フフと笑ったサングラスの男に、嘘をお吐きとつるは吐き捨てた。