海賊だからな - 2/2

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 窓の外を見る。開け放たれたままの窓は、舟が波に乗ってから一度たりとも閉めていない。帰って来ない女の姿に緩やかな波の流れを感じながら、クロコダイルは小さく息をついた。
 星が出ている空は、今日もその姿を海に映し出し、海はその星の欠片を一つずつ波の動きで消して行っている。また一つ、星が消えた。尤も、ここに移っている星の一体どれだけが今もまだ存在しているのか、分かりはしない。恐らく、あの空に大量に浮かんでいるように見えているであろう星のいくつかは、既に燃え尽き、光の欠片だけがこの星に落ちてきているのだろう。
 ほうき星でも落ちてくるならば、それに乗ってくるかもしれねぇなと小さくあり得ないことを笑いながら、クロコダイルは口に咥えていた葉巻を吹かした。ふぅと吐き出した煙は窓の外に流れて行く。窓を叩く音は、今日も聞こえない。
 行きたいと、待っててくれと言ったのだから、必ず帰ってくる。確証も確信も持てるはずもないただの言葉を、この自分が信用しているのがまた笑える。正義の二文字を背負っていた頃、あの女は信用を海賊に預けても、信頼は預けなかった。信頼を海兵に預けても、信用を預けることはしなかった。信用も信頼も、預けたのはただ自分だけにだった。その女が、待っていろと言ったのだから、待っている。海で。
 この、海で。
 ヤッカが落とした嘴を掌で転がしながらクロコダイルはその感触を確かめる。酒を片手にしていたためか、掌の温度が普段よりも高い。気のせいだろうか、嘴にもその温度が移り、同様にほんのりと温かいように感じられる。酒に酔わされて全く、夢でも見ているんだろうなと、落とされたこれを後生大事にしている自分も大概笑えてしまう。摘まんでいた嘴を机の上に戻す。
 ク、と小さな笑い声を零して、クロコダイルは一度背を向けていた窓に顔を向けるために、反転した。だが、そこで見たのは。
 足だった。正しくは、靴底であった。
 めし、と顔面に靴がめり込む。砂にならない。否、砂になれない。覇気か、と気付く。少し遅い。体は蹴りつけられた足の方向と同様にふらついてこける。足は一瞬早く、こちらの顔を踏み台にしてくるんと回転すると、飛び込んできた窓に戻った。ずだん、と背が床に着く。一拍遅れて、船が大きめに揺れ、窓の外に白い羽が覗く。カヤアンバル。
 蹴られた鼻を押さえ、クロコダイルは額に青筋を浮かべて体を起こした。
「てめぇ…ッ!!」
 窓に体を乗せている女。あまりにも突然すぎる。空気を読まない。手に負えない。窓枠に手を掛け、女は笑った。そして、葉巻の入っている箱をこちらに差し出す。怒るのも全く馬鹿馬鹿しくなってくる。
 たら、と垂れそうになった鼻血を拭いて、溜息を一つつく。
「…遅ェんじゃ、ねェのか」
「そうだな。少し、かかったよ。手土産の葉巻は?」
 海に戻ってきた女の笑みがそこにあった。
「頂こう」
 差し出されていた葉巻を一本手にとって、先程蹴られたことで駄目になった葉巻を灰皿に押し付けて消してから、火をつける。ふぅ、と一服。そして、クロコダイルは窓にかかっていたミトの顔面に鉤爪を容赦なくめり込ませた。みし、と音がする。窓に腰かけていたミトは、そのままのけぞって、どたんと後ろの廊下に背中から落ちた。
 何するんだ!と鼻を押さえながら、窓枠越しに女の怒った顔が覗き、クロコダイルはもう一度、今度は頭の天辺を殴りつけた。左手で顔面を、右手で頭を押さえながら、ミトはずずと鼻水をすすった。相当痛かったようで、目尻にはうっすら生理的な涙が浮かんでいる。一息吐くと、クロコダイルは苛立ちを込めてミトを睨みつけた。ぐ、とミトはそれに言葉を詰まらせる。
「言いたいことは、まぁ、分かってるつもりだ」
「おれを、甘く見るんじゃねェよ。何が、先に行けだ。ふざけたこと抜かしてんじゃねェ。あいつにおれが負けるとでも思ったか」
「思っちゃいないが…あの時は、あれが最善の策だ。他の策なんぞ考えている暇なんかなかった。赤髪の言葉で確かに終結はしていたが…あいつが、大人しくきくタマじゃないことは、お前の方がよく知っていただろう」
「それでもだ」
「悪かった。もう、しないよ」
 まっすぐに見据えてくる双眸にミトは息を一つ吐いて、謝罪を口にした。ごつん、と今度は軽く頭を打つ。ミトは小さく笑い、窓枠を乗り越え、クロコダイルがいる部屋へと足を踏み入れる。そして、きょろきょろとあたりを探り、軽く首を傾げた。よく意味の分からない行動に、クロコダイルは怪訝そうに眉を寄せた。
「何だ」
「ああ…ああ、それだそれ」
 そう言って、ミトは側に置いてあった嘴の欠片を指差した。
「ヤッカも自分が許した人間にしかそれを渡さないんだが」
 便利なもんだなとクロコダイルはそれを手にして、転がす。そして、ミトが口にした後半部分に小さく笑う。鳥に認められても然程嬉しいものではないが、まぁ、嫌われているよりかはいいだろうと思った。だが、その手の中に在ったものが、一瞬で嘴につつかれてその口内に納められる。唖然としているクロコダイルの頭をヤッカの嘴がゴツンと突き、窓に顔を突っ込んでいた鳥の頭は外に消えた。
 ヤッカはクックと鳴き、ミトの顔に頬をすり寄せる。
「一時的に渡しただけみたいだな」
「…こ、この…ッ!」
 鳥の分際で、と鉤爪を光らせたが、怒るのもあほらしく感じられ、クロコダイルは溜息をついて椅子に座った。
 部屋を見渡す。自分がいる。そして、ミトがいる。空いていた欠片が戻ってきた安心感に、クロコダイルは体の力を抜き、口元を小さく穏やかに笑わせた。そして、その部屋の隅に置いていたままのものに目を止め、ああと立ち上がってそれを手に取り、ミトに差し出した。
「二度とおれに刺すんじゃねぇぞ」
「怪我、大丈夫か」
「テメェでやっといて世話ねぇな」
「その調子なら大丈夫そうだ」
 刀身の部分は新しい鞘に納められていた。だが、その刀は、ミトが最も愛した人の物である。
 随分と長い間手にしていなかった、その重みを手で確認しながら、ミトはそれをクロコダイルから受け取る。そして、細工を施してある柄頭の部分を開けて、その中にあるビブルカードを確かめた。やはり、白ひげのものはもう入っていなかった。そこにマルコから受けとったビブルカードを折って入れる。元に戻し、嵌める。単純な行為だと言うのに、ただそれだけで、エドワード・ニューゲートはもういないのだと言うことに改めて気付かされる。
 しかし、そういうものだ。これから恐らく、幾度となくその死を実感する時が来る。他愛ないことにも、彼が居ないことを知らされる。良く知った人の死は、そういうことなのだ。ヴィグも、もういない。
 ミトは軽く頭を振って、顔を上げた。
「誰のだ」
「マルコのだ。脱出の際に足の骨を折ってな。ヤッカがお前の船に行く前に見つけたらしくて、そこで手当てを受けた。その際に」
「そうか」
 じぃと見つめてくる視線をミトはまっすぐに受け直し、そして息を一つ吐つ。
「ああ、私もお前に一つ言うことがあったな」
「んぁ…ッぶ」
 右フックが、決まった。強烈に決まったそれにクロコダイルはたたらを踏む。はーっとミトは一端拳を引き戻して、何とも言えない表情で笑った。今にも泣きそうな、そんな顔をして、笑った。
「帰ろうと思っていたのに。『皆』の所へ。よくも、私を生かしたな」
「…くれちゃやらねぇよ。大体、どうせ追い返されるのが落ちだろうが」
 頬が痛む程に殴られた左頬を撫でながら、クロコダイルはミトを見下ろした。俯いた女は言葉を紡ぐ。
「死ねなくなった。お前が、奪ってしまった。死にたかった私を、お前が奪った」
「そりゃァ、お前」
 当然だろう、とクロコダイルは笑う。そして、俯いた頭に手を置き、ぐしゃりと撫でた。ふっと煙を吐き出す。それは、窓から外に出て行った。
「おれは」