君に遺す - 2/2

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 ベッドの上に在った体が無い。盥に張った水を替えに行き、ふと離れただけで、ベッドには人が使った後だけ残して誰も残っていなかった。マルコは盥を机の上に乱暴に置き、慌ててそこに寝ていた女の姿を探すために、窓から身を乗り出した。主が居なくなったからなのか、そこに首を突っ込んでいた鳥の姿は既にない。
 だが、マルコの心配をよそに、その女は甲板に居た。海を眺めている。ただ、ただ海を。ベッドを踏むと窓を乗り越え、マルコは松葉杖を付いているミトの側へと近寄った。
 ギプスを嵌めた足は、それでも足枷に比べればかなりの軽さだった。本人でも驚く程の身軽さを感じながら、松葉杖を付き、ミトは甲板の上に立つ。柵の向こうに広がる海の色を眺めながら、その広大さに目を細める。頬を撫ぜる潮風の心地良さと言ったらない。
 まさか白ひげ、否、既にもう白ひげはいない。元白ひげ海賊団の船にヤッカが自分を運んだことに何かしらの運命を感じながら、今頃は空腹を満たすために狩りに出ているヤッカを思いつつ、ミトは水平線を眺めた。この広い海のどこかにクロコダイルは居る。待っていろと言ったのだから、早く会いに行ってやらねばならない。
 ミト、と背中に掛けられた声に首を回して振り返る。こつんと松葉杖が音を立てた。
「マルコ」
「相変わらず、おめぇは海を見るのが好きだない。熱は薬で下げてあるだけだから、とっととベッドに戻んな」
「…海を見るのは、久々だから」
 その返事にマルコは口を開いて尋ねようとして、止めた。精神的に疲労し、発熱する程のことを一々思い出させるような真似をすべきではない。この調子なら大丈夫だろうかとマルコは落ち着く。
 あの時の、以前のような、暗澹たる悲嘆にくれた瞳はもうそこにはない。ヴィグが心配し心を砕き、嘆いた瞳は、海を純粋に眺める物に変わっていた。羨むものではなく、愛おしむものして。それは彼女が小さなころに見せた瞳そのものだった。海が好きで好きでたまらなく、海に生きることに自由を覚え、めい一杯に風を受ける姿がそこに在った。海に帰った彼も、安心しているのではないだろうかとマルコは思う。
 会話が途切れ、ミトはそう言えばと一度落ちた沈黙を破った。
「ヴィグは」
 マルコはその名前に微かに表情を強張らせた。ミトはマルコのその表情に気付くことなく、海を眺めたまま言葉を続ける。
「また、どこかに使いにでも行っているのか?昔から、あいつは」
「ミト」
 それ以上の言葉が続けられるのをマルコは名前を呼んで遮った。なんだ、とミトはマルコをようやく見、そして軽く唇を噛んで何かを堪えるようにしている表情で全てを悟った。顔が歪む。マルコは、泣くか、と思った。だが、嗚咽の代わりに響いたのは、ひどく穏やかな声だった。
「そうか。逝ったのか」
「…ああ、行ったよい」
「笑ってたか」
「笑ってたよい。おめぇのことを、最期まで心配してた」
「…そうか」
 そうか、とミトは繰り返して言葉を零す。大丈夫だろうかとマルコは心配になる。とうとう、彼女のかつての家族は誰も居なくなった。たった一人を置いて。まだその表情を見るのは躊躇われ、マルコは海へと視線をずらし、不安をはっきりと口にする。
「復讐なんざ、考えるんじゃねぇよい。それじゃ、心配したあいつが浮かばれねェ。好きな場所で望むように、生きろよい。…後、もう、おめぇの昔の家族はいなくなっちまったが…おれたちもいる。おめぇさえ望むなら、この船に居てもかまわねェ。海軍にはどうせ戻る気もねェんだろい?」
 一拍、間が空く。ミトはマルコの言葉に返した。
「ヴィグは、海賊として逝けたんだろう。望むように、在りたいように。最期はきっと家族に囲まれて。遺体はどうしたんだ」
「海に、かえした。レオルやレイヴンにおめぇのこと報告しなくちゃなんねェって」
「皆に、また、心配を掛けそうだ」
 だったら私は、とミトはマルコを見た。その背に大きな海を拾う。広がる海原に浮かぶ一つの月は、はっきりと女のラインを浮かび立たせた。マルコはその姿をまっすぐに見る。私は、と唇が動く。
「恥じぬように、生きなければ。この家族に。海にいった家族に、恥じぬように歩かなければ。随分と長いこと、かかったけれど。船長たちがヴィグが、私を支えてくれるのだから、歩かなければ。前に。行かなくては、な」
 微笑んだその女にマルコは相好を崩す。
「その一言を、あいつらがどれだけ待ってたと思うんだよい」
「すまん」
 謝ったミトの心臓にマルコは作った拳をごんと叩くように乗せる。
「おれたちもいることを忘れんじゃねェよい。どれだけ、おめぇらに手を焼かされたと思ってんだい。いいか、今度こそ、絶対に何があっても、忘れるんじゃねェぞ。おめぇは、一人じゃねぇんだよい。おめぇのあんな面ァ、おれはもう御免だぜ?ヴィグも、おめぇの船長も、ジョズもオヤジも。よく…帰ったない」
 おかえり。
 マルコはその言葉を口にした。ミトは一度目を見開き、そして、ああと子供のように笑った。
「ただいま」
 今はもう、その両肩に負う正義の二文字は無い。どこに行っても、それを背負う必要はない。船長が愛した自由と対極に在り、戦友を呼ぶその二文字は既に見かければ逃げる対象になった。海賊船に乗り、海を奔る。自由を彼らから奪う行為を、もうする必要などない。
 それで、とマルコは柵に背中を預けてミトへと尋ねた。
「この船に乗るつもりはあんのか?歓迎するよい。おれはおめぇのことをヴィグに宜しく頼まれたんだが」
 マルコの勧誘にミトは反対側に広がる海を眺めながら、いいやと首を横に振った。
「待たせているやつがいるんだ。帰ろうと思った私を、引きとめた。全部奪われてしまったから、取敢えず取り返しに行かないと」
「クロコダイルかよい」
「何だ?知ってたのか」
「…うわ言で名前呼んでたからない…」
 間違われた事を思い出しながら、マルコは小さく笑い、からかうように声をかける。海風が頬を薙いだ。
「好きなのかよい、あいつのこと」
 ミトはその質問に二つ返事をした。ああ、と。マルコはそれにそうかよいと困ったのと嬉しいのと、それら二つがないまぜになったような表情を顔に浮かべ、海を眺める。
「こりゃ…レオルに言えば、卒倒しそうだない。ヴィグも驚くよい」
「どうして」
 単純な疑問を返されて、マルコはそりゃと笑った。
「可愛がってた妹分と娘に好きな野郎ができたら、こっちとしては驚かざるを得ねェというか…まぁ、正直おれも驚いてるよい。取敢えず、泣かされたり辛いことがあったら、いつでもこっちに来いよい。にーちゃんが相談に乗ってやるからよい」
 兄ちゃん、と言う単語にミトは目を細めながら、有難うと返す。
「好きな?マルコマルコ。そう言う意味じゃない。あいつは私の親友だ」
 軽く笑い、ミトはマルコの言葉を否定した。それにマルコはそうだったのかい、とミトを振り返り、口角を小さく吊り上げる。それにミトはそうさ、と破顔した。
「唯一無二の、友だ。どいつもこいつも勘違いしてくれるが、男女の間柄じゃない。私はあいつと海を行く。あいつと一緒に、生きるんだ。海で、自由に」
「…まぁ、おめぇがそう言うならそれでいいよい。あんな奴だが、おめぇのことは大事にしてるみてぇだしな。取敢えず」
 多少の心配は残るが、とマルコは妹分の心配をする。小さいころから随分と手を焼かされてきたのだが、今でもその名残はしっかりと残っている。ヴィグに頼まれたこともあるが、それが無くとも、彼と一緒に世話、というより迷惑を掛けられた手前、気に掛けずにはいられない。
 すいと手を伸ばし、柵に持たれていることで低くなっている自分の頭よりも高い位置に在る頭をマルコはがしゃがしゃと撫でた。そして、開けられたままの窓に近づき、杯に二つ。一杯ずつ酒を注ぐと、その内の一つをミトに差し出した。松葉杖に体重を少し分散し、ミトはそれを受け取る。
「ヴィグに」
 かちん、とお互いの杯がぶつかる。ミトはそれを半分のみ、残りの半分を杯ごと海に投げた。ぱちゃん、と海水が散る。投げた意図を知り、マルコは目を細め、自身の杯も同じように海に投げた。
 柵に預けていた体重を持ち上げ、マルコはさてとミトへと振り返る。
「おめぇもとっととベッドに戻れよい。最初に言ったが、熱は解熱剤で下げてるだけなんだからな。おめぇに何かあったらヴィグに顔向けができねェ」
「もう少し、海風に当たってから」
「…体を冷やすんじゃねぇよい」
「ああ」
 くると踵を返したマルコの背にミトは思いだしたように声を掛ける。立ち止まったマルコが振り返る前に、ありがとう、と感謝を示した。それにマルコはどうということはねぇよい、とひらりと手を振り、物陰におれて消えた。
 それと時を同じくして、上からヤッカが降りてくる。獲物をしとめ、たらふく食って来たようで大層機嫌が良い。
 降りてきた鳥にミトは手を伸ばす。船を揺らしながら、ヤッカはその甲板へと降り立った。降り立った羽毛の表面は海水がまばらに付き、湿っている。ミトはそれに構わず、ヤッカの羽毛に埋もれた。
 しんだ。
 うぃぐが、しんだ。
 いってしまった。わたしをおいて。
 喉が震える。ヤッカは主が微かに震えてるのに気付き、心配そうにその嘴で背中を撫でるようにさする。
 マルコの言葉をミトは繰り返す。分かってはいる。理解してもいる。そして自分が口にした言葉に嘘はない。そう生きて行く。恥じぬように胸を張れるように、海にいる皆にこれ以上心配を掛けないように。
「つたえ…たい、ことが…沢山…あった、のに」
 今まで心配を掛けてごめんだとか、お前は私の家族なんだよと、伝えたい事は沢山あった。立ち止まって、復讐にだけ目を向けて歩いてきたその時にずっとないがしろにしてきた言葉を伝えるべきを怠っていたことを、謝りたかったのに。
 逝ってしまった。
「心配…ッ、するなら、どうして、私を、置いて行った…ッ!マルコに、託すんじゃ無くて、お前が…お前が、生きて、馬鹿野、ろう、と」
 言えば良かったじゃないか、と最後の部分は声にならず、嗚咽に変わった。悔やまれる。後悔だけが胸を締め付ける。涙がこぼれる。ずっと待っていてくれて有難うとも伝えたかった。しかし、もう伝えられない。
「お前が、言葉を遺しても…ッ、私が、お前に伝えられないんじゃ…意味が、ない…ッ」
 海はそこに在る。逝った家族はそこに居る。それでも、彼らはもう死んでいる。思い出の中の人になった。思い出を懐かしみ、微笑むことはできても、思い出が頬笑み話しかけてくることはない。
 ヤッカに埋もれ、ミトは声を押し殺して泣いた。海風は今はひどく冷たく感じられ、ヤッカは翼を広げそれを遮断するかのように自身よりももっともっと小さな体を囲い、風から遠ざけた。
 静かに空気を震わせる嗚咽。マルコはミトからは死角になっている壁に背中を預け、腕組みをする。
「おめぇは本当に…馬鹿だよい」
 耳に寂しく響く嗚咽に目を閉じ、首を小さく横に振った。笑った女の顔を瞼に描き、辛い時は泣ける腕が彼女にはもう存在しないことを嘆いた。レオルもヴィグも、彼女の家族は海に散った。否、あるのかとマルコは顔に傷を負う男を思い出す。だが、彼は此処にはいない。
「おめぇの馬鹿は、治らねぇなァ…」
 ざわめいた波音にマルコはヴィグの声を聞いたような気がした。泣いている彼女に、それは届きはしないだろうが。
 遺されたものは、死者を嘆く。遺したものは、生者を憂う。
 マルコは空の色を映した黒い海を見る。女の涙を吸い込んだその色は、やはりどこか悲しげに見えた。心配しなくても平気だと言うにはまだ早い。ただ少し、今はまだ少し、立ち止まっていることを許してやればどうだろうかと、マルコはかぶりを振った。
 愛しいものの死は、誰しも辛く悲しい。
「もう少し、待ってやれよい。ヴィグ」
 海に死んだ友の名を呼び、マルコは目を閉じた。