The blue bird

 帆船であるこの船のマストは、追い風に乗せて大きくその帆を膨らませた。ばつん!と小気味よい音がマストを叩き、青い空に響かせる。本日青天。雲一つな気素晴らしき空がそこには広がっていた。とはいえども、グランドラインの気候は変わりやすく、この天候もあっという間に移り変わり曇天に変わってしまう可能性は否めない。だが、今は、青天である。
 ミトはギプスで固定されたままの足を甲板の上に乗せ、雲の無い空を見上げていた。青い。手を伸ばせば、まるでそれは海に伸ばしたように錯覚するかのようだが、いつまでたっても海の感触は指差に触れることはない。珍しく波も穏やかで、船員たちは船内、もしくは甲板で緩やかな日常を過ごしていた。尤も、誰か一人は波の様子を見るものが必要であったので、全員が全員と言うわけにはいかなかったが。
「ミト、何してんだよい」
 一人でぼんやりとしていたところにマルコが歩み寄る。柵に背を掛けた状態では、一つ間違えば、そのまま背中から海に落ちかねない。男の呼び掛けに、ミトは伸ばしていた手を引っ込めて笑った。
「まるで海のようだったから」
 返答がされてからマルコは隣よいかい、とミトの隣を指差し、それに頷きが返されると、どんとそこに尻を乗せた。装飾、デザイン性の強い靴がひらりと揺れる。双方言葉を発することもなく、ただぼんやりと海風が肌を薙ぎ、マスト一杯に風を集めて行く様子を眺める。空にはぼつぼつと白い雲が流れるようになった。青天から晴天へと変わる。
 沈黙、とはいえども、決してそれは重たいものではなく、単に言葉を発さないだけで居心地の悪いものではなかった。寧ろ、お互いがそうであることを望むかのような沈黙であるので、反対に居心地の良いものであるとさえ思われる。誰もその近くには近づかない。
 しかし、その沈黙を先に崩し、言葉を発したのはミトであった。
「青い鳥」
「ん?」
 ぼつりと呟かれた言葉にマルコは反応した。くっと隣で喉を揺らしてミトは小さく笑う。
「幸せを運ぶ、青い鳥」
「…幸せなんて、おれは運ばねェよい。本当に幸せを運ぶんなら」
 オヤジもエースもヴィグも。
 口にしようとした言葉をマルコは呑み込んだ。言っても詮無いことである。死んだ者は生き返ったりはしない。自然の摂理に反する。悪魔の実でもない限りそれは不可能であろう。そんな実を探すつもりもないが。
 マルコはミトの言葉を聞き終え、そっと瞼を閉じる。肩がやけに重く感じた。
「あの話、最後を知ってるか?」
「確か…青い鳥を探したけれど見つからなくて、旅から帰ってきたら飼っていたハトが青い鳥になってた…だったかよい。幸せは探さなくても、すぐ側にあるとかいう意味だったように覚えてるよい」
 ミトは足を固定したギプスを鳴して足を延ばした。揃えて置かれた松葉杖に軽く当たる。あれは、とそしてマルコの言葉に続けた。
「最後、青い鳥は逃げるんだ」
「…そうだったか…あー言われてみればそうだったような覚えもあるよい。レオルは色んな本持ってたからない」
「沢山の本を読んでもらったよ。私は全部覚えてる。鳥が逃げた後、最後にこう括られるんだ。『どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞ僕たちに返して下さい。僕たちには、あの青い鳥が必要なんです』」
「何と言うか…何とも言えねェ話だない…」
 苦笑を零し、マルコは口元を軽く持ち上げた。そう、とミトは答える。
「マルコ」
「何だよい」
「お前は」
 手伸び、その頬に触れる。女の双眸が、マルコをしっかりと映しこんだ。
「誰かの青い鳥である必要はないんだ。お前だって、青い鳥を探す人間で、いいんだ」
「…意味が、分からねぇよい」
「いつから、泣いてない?」
 静かに添えられた言葉にマルコは肩を一度震わせる。そう言えば、ヴィグが死んでから、もう一滴も涙は落ちていなかった。泣いている暇などない。泣いて振り返っている暇などない。死を悼み、悲しみはするけれど、死んでしまった彼らが居ない船は随分と広く感じられて時折足元がふらついてしまいそうになるけれど。
 だが、自分が皆を支えなければいけない。オヤジの代わりに。オヤジがその背中で守ってくれた路を、今度は自分たちが守らねばならない。
 マルコ、ともう一度名前が呼ばれる。ごつんと額がぶつかり、赤い瞳がこちらの瞳を覗き込んだ。おめぇこそ誰にも泣いてないだろうという言葉は、喉に引っかかって出てこない。今何かを言えば、涙がこぼれ落ちそうな気がした。途端、どん、と大きな影が落ちる。自分の隣にジョズが座った。大きな背中はこちらの姿を皆から隠した。反対側は、ミトの体が隠し、誰も自分の顔を見ることはない。
 静かすぎる程に静かな声が耳を侵食する。愛しい者を奪い取られてしまった女の声が、囁く。
「死は、悲しいんだ。皆悲しいんだ。お前は立派だよ。オヤジが逝ってしまって、悲しみに沈んだ皆を必死に引っ張って支えているんだ。でも、いつまでそうやって、一人で引っ張ってるつもりなんだ?お前が皆を支えても、お前を誰が支えるんだ。少し、休めよ。マルコ。大切な人を失って、立ち止まっても誰もお前を責めやしない」
 その言葉をそのまま、そっくりそのまま、告げている女に返してやりたかった。人の心配するくらいなら、おめぇの心配しろよいと怒鳴ってやりたかった。あの船の連中は皆一緒だ。誰かの心配をいつもして、手前の心配をうっかり忘れる。
 怒鳴ろうとした言葉は、全て嗚咽になった。堪えていたものが涙として頬を流れ湿らせる。あ、あ、と文章にならない母音が断続的に零れ落ちる。もう帰って来ない。いくら待っても、どれだけ待っても、この船の甲板は広く大きく空いたままである。大きな支えを失って、大きな支えになろうとして、頑張って必死になって、いつしか泣くことを忘れていた。忘れていたのだ。悲しい気持ちを箱に押し込んで鍵を掛けて。泣くだけ泣いた、もうこれ以上泣いてはいけないと。泣いてはオヤジたちに悲しい顔をさせてしまうと。自分が泣いては、家族に悲しみを与えるだけだと。
 もう、泣いては居られない。自分が、自分が「皆を支える存在にならなければ」。
 泣くことを、忘れていた。
 感情を流すことを、忘れていた。
 喉を引き攣らせ、肩を小さく震わせながら泣くマルコを、ミトはどこかで見たことがあった。否、泣くことを忘れた人間の表情を、ミトは知っている。誰よりも、何よりも。泣くまいとしているのではなく、泣くことを忘れてしまった人間を。かつての自分がそうであったから。感情を殺しているのではない。捨ててしまったのだ。それが何かの目標達成のために邪魔になると判断して。
 今ならば分かる。そう言う行為は、周囲の人間を悲しませる。自身の友人が、自分を見るたびに何故か辛そうな顔をしていたから。泣く行為こそしなかったが、しかしその存在にどれだけ助けられたのか、知れない。早く、会いたい。
 マルコは、今皆を支えなければならない立場に在る。それに忙殺されて、死んだことは受け入れても、自分のことを忘れているようにミトには見えた。悲しいけれど、辛いけれど、前に進まなければならない。恥じぬように、心配させないように。その姿は、少し辛そうに思えた。だから、マルコの前では泣かない。自分の重さまで彼に背負わせたくはない。彼がそれを望んでも、自分の重さで彼を潰さぬようにそれはしないのだ。
 泣いた方が泣いてくれた方がその人のためになると、そう言う場合もある。けれども、マルコの背中は今沢山の物で一杯である。オヤジの、エースの、ヴィグの、他の戦場に散った仲間たちの死で。そして、これから率いていかねばならない家族の命で。今更一つや二つとマルコは言うかもしれない。けれどもそれは違う。
 見ていられないと言うのは、こういう気持ちを言うのだなとミトは思った。大粒の涙を掌の隙間から落とすマルコを見る。この涙は、マルコが本人でさえ知らないうちに溜め込んできた悲しみだ。蓄積されて、いつかは澱み自身でさえ破壊していく感情だ。それを重いと感じ、足の重さに転び、疲れたと、疲れ果てたと思い、沈むのがその末路だ。
 よく、知っている。
 ミトは涙を零し鼻水をすするマルコに声を掛けた。かつて、自身の船長が自分に本を読み終わった際に教えてくれた言葉をそのまま続ける。瞼を閉じれば、彼の顔がはっきりと、鮮やかなまでに思い浮かべることができる。
「マルコ。幸せの青い鳥は本当は存在しないものだ。あったとしても、捕まえようとすれば、すぐに逃げて掌から失せて無くなる。青い鳥は捕まえるものじゃない。だからマルコ、青い鳥は自分で感じるものなんだ。お前が、皆の青い鳥であろうとする必要は、ないんだよ」
 紡がれていく女の言葉に、涙が滝のように零れ落ちる。とめどなく、ぼろぼろぼろぼろと。嗚咽を噛み殺そうとして、震える下唇を前歯で押さえる。声は言葉にならず、ただ涙を流すための涙声に変わっていく。誰も聞かないふりをしてくれているのか、それともジョズとミトの陰で見えないから、誰も何も言わないのか、マルコは分からなかった。ただ、涙を落してくことで、閉ざしていた感情の蓋が呆気なく開き、その中身がこぼれ落ちて行くように感じた。
 耳に海風がごぉとなる。頬を撫ぜる。目を閉じているのに、海の色は目の前に何故かあった。女の声は、海風潮風、海の波の音に混じり海になる。
「泣かないことは、強いんじゃない。泣けることも、強さだ」
 船長はそう言った、とミトはマルコをかき抱いた。肩口にその額が乗り、涙が服に染み込む。背に回した腕からは、小さな震えが伝わっていた。どれほどの物をその背に抱えていたのか、ミトには分からない。ただ、彼が泣くことを忘れる程に、その重さを大切に思い気を張っていたことは事実であろう。エドワード・ニューゲートという男が抱えていた重さを、思い知らされる。あの男の背に、一体どれ程のものが負われていたのか。想像に難い。
 ずず、と鼻水を啜る音が小さく鳴り、抱きしめていた体がもぞリと動いて、肩を押し距離を取る。持ち上げられた顔は、少し、笑えた。
「…ありがと、よ」
 い、と最後までミトはマルコの言葉を続けさせることをしなかった。
 ぐらりとその体を持ち上げ、背中から海に叩き落す。能力者であるマルコは泳げない。不死鳥の姿になって海面衝突を避ければ良かったものの、突然の行動と感情の吐露の直後で上手くいかなかったらしく、盛大に、見事に、かつ激しく、水飛沫があがり、音が晴天に響き渡る。隊長!隊長が落ちたぞ!とわぁわぁと甲板の上では能力者でないものが騒ぎ立て、慌ててマルコを助けに海に飛び込む。
 おお、とミトはその光景を甲板の上から眺めつつ、からりと明るく笑う。マルコを助けた船員が一人海面から顔を出し、上から垂らされた縄梯子を足がかりに船の壁を登ると、海水でぐっしょりと濡れたマルコの体を甲板に放り投げるようにして倒れ込んだ。マルコへと心配の視線と言葉が多く投げられる。向けられる視線の円の中心に居るマルコは、その中で松葉杖をついてにやにやと笑っているミトをぎろりと睨みつけた。げほ、と海水を吐きだして、咳込む。どうやら鼻からも入ったらしく大層苦しそうである。
「な、ぇ゛ほっ…!ぁ゛にずる、ん、だ、よい!!死ぬところだ!」
「死んでないな。いや、お前ほどの男でも海で溺れることがあるんだな」
「おれは能力者だ!!カナヅチなんだよい!」
「そうだったっけか?すまん、すっかり忘れていた」
 確実に、間違いなく確信犯なミトをげほげほと咳込みながら、マルコは萎れた髪の毛をぐしゃりと掻き回す。ああ、と上から見下ろす女を見上げ、続けられた言葉に目を見開いた。
「随分と酷い顔だな。その上ずぶ濡れだ。余程海の中は苦しかったと見える」
「当たり前だろうが!海水しこたま飲んで…ッ」
 ああ、とマルコはそこで気付く。つまるところ、先程のそれは、ああ、そう言うための行為なのだ。頭の天辺から足の爪先までびしょぬれの体。顔を滴る海水は塩辛く、涙と判別がつかず、赤くなった目元は溺れた時に苦しげになった物とも取れる。怒鳴る気が、失せた。
「海は、いいだろう?」
「…溺れるのは勘弁だよい」
 着替えてくる、とマルコはふらふらと立ち上がり、船内に在る自室へと足を向けた。ミトの隣を通る際、軽く拳を作って腹を打ち感謝を示す。
 多少どころではない荒技だが、全く、全く彼女らしいと言えば彼女らしい。宜しく頼むと友に言われたと言うのに、反対に慰められてしまった。立つ瀬がないよい。マルコは小さくそう呟き、首筋をかいた。
 マルコの姿が船室に消え、甲板に集まっていた船員はまたばらける。その中で、ミトの隣に立ったままのジョズが静かに問うた。
「お前は、いいのか」
「何が」
 その問いかけに、ミトは同様に静かに小さく微笑みながら答える。松葉杖で甲板を叩き、先程座っていたところに戻ると腰を落ち着ける。
 いつになったら、このギプスが外れるのか、全く忌々しいなと穏やかに笑ってジョズに言う。だが、その表情は変わらない。話をはぐらかすことを許さない男に、ミトは、ああと問いかけの本質に是で答えた。
「私は構わない。この船で、誰かの胸で、誰かの腕で泣くことはできんな。私の悲しみを、この船の連中にやってはいかんだろう」
「…おれは、いや、おれもマルコも、構わない。長い、付き合いだ。むしろ言ってくれた方が」
「長い付き合いだからこそ。マルコや、お前の悲しみが分かる。大切なものを失った悲しみの上に、誰かの悲しみを背負うのは厳しいものがある」
「矛盾している」
 先程のマルコへの態度をジョズは口にした。そんなジョズに、ミトは昔からジョズは融通がきかないと口角を吊り上げ、ゆるりと表情を緩める。片目を細め、何とも言えない顔をジョズへと向けた。ジョズはただ黙り、その言葉の続きを待つ。
 海風が、空の雲を流した。
「私はいいんだ」
「よくない」
「いいんだ、ジョズ。私は、帰る場所も泣ける腕も、あるから。今ここにないだけで。私を、長い間見捨てずに居てくれたお前やマルコに少しくらい、礼を返させてくれ。腕くらい肩くらい、いつでもどれだけでも貸す。礼をするようなことはしていない、などは言ってくれるなよ?」
 ごとん、と重たい体がミトの隣に腰を落ち着けた。大きな、少し猫背に見える丸い背中にミトは凭れかかり、小さい頃を思い出す。目を瞑れば、そこに懐かしい光景が浮かぶ。声が聞こえる。懐かしく、温かな。
 私は、とミトは続けた。
「幸せだ。悲しいことも辛いこともあるけれど、幸せだよ」
「青い鳥」
「捕まえようとすれば逃げるだけで、放っておけば、鳥はいつだってそこに居る。ジョズ」
「何だ」
 背に預けられていた重みが消え、ジョズは振り返らないままに返事をした。
「マルコが、心配だな」
「…お前に心配されるのは、笑える」
「頼むよ、ジョズ。ヴィグの一番の友達だったんだ、マルコは」
「言われなくとも」
「お前も」
「大丈夫だ。おれたちは、家族だから」
 幸も不幸も分かち合う。
 言葉にされなかった部分を汲み取り、ミトはそうだなと軽く笑いながら、ごろんと転がった。空は紺碧。本来無色透明である海はその色を映しだし、光の加減でさらに濃いものへと変えて行く。
 初めて海に沈んだ日のことを、ミトはふらりと思い出す。溺れたわけではなかった。何もかもが始まった日。何もかもが終わった日。体を二つに裂く傷と、背を激しく叩きつけるような爆破を受け。復讐に身を費やし、死者のために死者を二つ作りあげた。
 それでも今、自分は海に居る。尊い海に。愛しい海に。全てを飲み込む飲み干す海に、いる。
 深く海の香りを吸い込み、ほう、と息を吐きだした。潮が肌に触れて流れて行く。あまりにも心地よい。堪らなく、どうしようもない。幸せの青い鳥。ぼんやりと眺めていると、途端体が足から持ち上げられた。
「ぅおっ?」
 体が浮遊感を味わう。落ちて行く。おちて、ゆく。遠ざかる甲板の向こうに見えたのは、金色の房のような髪の毛。ああ、とミトは笑った。唇の厚い男が船の縁に体を預け、いぃと歯をむき出しにして笑っている。とても良い笑顔である。澱んだ色は涙と一緒に海へと流れ出てしまったようだ。全く、驚くべき程に、後ろに映る空の、否、海の色によく映えていた。
背中を海水が叩く。海の中から、海面を見上げる。まるで宝石の海。こぽりと鼻と口から泡がこぼれ、海面へと上がっていく。全身から力を抜き、海を肌で感じる。うっとりと。肌に海水が染み込んでいく。体が海になっていく。大きく息を吐き出せば、体は沈む。より深い所へと。色がさらに深いものになった頃、ミトは足で水をかき、体を海から引きずり出すと海面へと体を押し出した。水飛沫がきらきらと視界を覆い、落ちていく。
 縄梯子は必要なく、一つ口笛を吹きヤッカを呼ぶ。空から白い雲が降下すると、海面に顔を出していた主に爪を掛け、軽く引き上げ甲板に戻した。ずぶぬれになったミトにデザインが重視されたサンダルが映る。そして、そのサンダルを履いた男は女に問うた。
「海は、いいだろい?」
 見下ろしてくる笑みに、女は高らかに笑った。そして、答える。
「最高だ」
 見上げた女の笑みに、男は全てを汲んだ笑みで返した。