生きたい - 2/2

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 ヘェ、と人を嘲笑うかのような声が上から降ってくる。不愉快な気分になる。
「意外と冷静なんだな」
 まだ操られてはいないようで、体は自由に動いた。完全に船が遠ざかったのを視界に納め、ミトは足元に転がっている剣の柄を踏みつけた。てこの原理でそれは空中で回転しながら上に飛び、その柄をぱしんと掌でしっかりと取るや否や、即座に剣を振り上げた。桃色は少しのけ反り、剣の軌道を避けるが、流石にコートまでは避け切れず羽の一二枚が綺麗に切れる。頬には一筋の赤いラインが作られた。
 一度距離を取り、ミトはドフラミンゴを睨みつける。腹部から滴り落ちる血は脚を服の中で伝っている。血は随分と失っているし、戦闘で受けた傷が塞がっているわけでもダメージが回復しているわけでもない。ぺ、とミトは口内に溜まった血を地面に吐き捨てた。フッフッフ、と笑うドフラミンゴをひたと睨み据える。集中を途切れさせず、目の前の敵に神経を研ぎ澄ます。
 向けられる視線にドフラミンゴは背筋を震わせた。ぞくぞくと快楽にも似たそれが背中を走り抜ける。口元が歪む。立っているのも限界であろう体が動いている。そんなに嫌かよ、と笑ってしまうが、だがそれでこそのこの女なのだと笑いが止まらない。
「イイじゃねェか!!」
 体が叫んだ。声よりもきっとおそらく、体の方が先に反応している。全身を震わせるような滾りが溢れる。打ち負かせてやりたい。砂を噛ませたい。絶望を越えてもなお折れずに睨みあげてくるその瞳が見たい。
 アア、と喜ぶ。
「大人しく捕まるなんざ、てめぇのタマじゃねェ!もっと、」
 もっともっと。
 そうだ、とドフラミンゴは吐き出す吐息に歓喜を乗せる。愉しい、と叫ぶ。
「おれをうずかせろよ!!!!」
 お前にならばできるだろうと、楽しみが体を支配する。白ひげとの戦争といい、クロコダイルといい、今日は本当に良い日だ。人生は愉しくなくては意味がない。こちらを殺さんばかりに見てくる、その瞳が心地良い。全身を支配する享楽にドフラミンゴは酔い痴れた。もっと味わわせてくれ、と満身創痍の女を見る。
 動くのを拒否する体を叱咤してミトは地面を蹴りつけた。剃で距離を瞬間的に詰める。愉しげに笑うドフラミンゴは薄気味悪い。
「ならば、手始めにその腕貰おうか」
 ミトはドフラミンゴの能力を正確には知らない。実を言えば、ドフラミンゴが悪魔の実の能力者なのかどうかすら知らない。海に突き落として泳げなければ陽性だろう。だが、彼が何らかの動作をする際には、必ずその指で何かを操るかのように動かしている。だとするならば、腕が何らかのキーポイントなことは間違いない。
 やってみろよ、としたり顔をした男の顔面を破壊したい衝動を押し殺し、ミトは刃を滑らせた。しかし、如何せんながら極度の疲労と痛みのせいで速度は最高の半分も出ていない。斬ることの腕は鈍っていないが、切先は軽くドフラミンゴの腕の皮膚を裂いただけだった。ぷつんと赤い血が空気中の抵抗で球を作りながら、数滴飛ぶ。大口を叩いた割には、切先が掠めたことにドフラミンゴは意識をばらした。当たらないと踏んでいたのか。舐められたものだ、とミトは息を継ぐ間も許さずに、剣を地面に突き立てた。そして、脚で地面を叩くと、肩と腕、関節のバランスを器用に取って体を宙に投げる。こうでもしないと、長身のドフラミンゴに蹴りは届かない。
 月歩。
 本来ならばその脚力で体を空中に押し上げる技を、ミトはドフラミンゴの顎に吸い込ませた。黄猿に撃ち抜かれた脚が瞬間的に悲鳴を上げたが、それを無視する。顎を蹴れば脳震盪を起こす。起こさなくても、確実に足腰に来る。蹴り上げた脚はまっすぐに顎の先端を蹴り抜いた。余裕は油断を生む。
 このまま逃げられるか、とミトはのけぞったドフラミンゴから足を引こうとした。だが、その手前で足首が強く掴まれる。まさか、と戦慄した。フッフ、と耳障りな声が鼓膜を揺さぶった。頭を起こし、何事もなかったかのような顔でドフラミンゴは鼻血を親指の腹で拭った。
「今のは、効いたぜ」
 ぞっと背筋が震え、ミトは掴まれた足首を空いている側の足で蹴りつけようとしたが、それよりも先に純粋な力で体が振り回される。みしりと掴まれている足首の骨がなった。長身に似合いの長い足が振り上げられる。ドフラミンゴの口元には勝ち誇った笑みが覗いていた。ミトも黙ってそのまま蹴られるわけにもいかず、一度地面に突き立てた剣を無理矢理引き抜いて、ドフラミンゴのその長い足を狙った。だが、刃がその足を両断する前に、振り上げた脚は一瞬早くミトの腹部に沈む。
 嫌な音が、耳に響く。肋骨が折れた。腹部の傷にも衝撃が伝わり、指先まで痺れにも似た激痛が走り抜けた。口から溢れた気泡には血が混じる。地面に体が落ちた。ミトは肩で咳をしながら、その度に全身を伝わる痛みに眉を顰めた。完全に崩れた体をニタニタとドフラミンゴは笑いながらしゃがみ、見下ろす。
「万全の状態なら、おれとも渡り合えたんだろうが」
 実際はそうならなかった。
 腹部に滲む血へとドフラミンゴは視線を動かした。そして、笑みを深めてその大きな手を伸ばす。指先で探るように触れれば、穴が空いていることが分かった。どこで受けたか分からない傷だが、この戦で受けた傷なのは間違いがない。フフフと歪んだ笑みを口端からこぼしつつ、ドフラミンゴはその穴に容赦なく指を突っ込んだ。衣服が傷にめり込み、長い指で掻き回す。激痛が走っているのは、ミトの顔を見れば分かる。
 しかし、悲鳴一つ上がらない。歯を食いしばり、青くなった顔で息だけを吐き出しながら米神に筋を浮かべる。悲鳴を聞きたいと傷を抉りまわしながらドフラミンゴはそんな事を考えた。
「これでも、悲鳴一つ上げねェのか」
 傷に中指を半分程突っ込んで、関節を中で折り曲げれば、ぐちょりと小気味良い音を立てながら皮膚の下の筋肉が抉れた。指先を血が汚す。反射なのか、体がびくりと強く震えた。それでも、まるでこちらの意思を汲み取って、それに反するが如く、女は悲鳴を上げない。情事で女のナカに指を突っ込んで掻き回すかのように優しく動かしても、残念ながらこの場合響くのは嬌声でも喘ぎでもなく、苦痛に彩られた悲鳴である。それすらも、聞くことを許さない。
 強情な女。
 フッフ、とドフラミンゴは音を口に出して笑う。だが、その頬を刃が掠めた。小さく首を傾ければ十分に回避可能な速度である。傷に指をぶち込まれ抉られ掻きまわされてもなお動ける女にドフラミンゴは笑いを止められない。おいおい、と楽しくなって、思わずそそられる。反抗心を愉しみながら、傷に突っ込んだ指をさらに奥へと進ませれば、力なく肩に落ちた剣は一度震えて地面へと倒れた。
「…っ!」
 傷を抉る腕に女の手がかかる。まるで犯しているような感覚に襲われた(犯しているのは別の穴だが)それに乗じるが如く、ドフラミンゴは言葉で遊ぶ。
「もう一本、入るか?」
「…、ぁ゛、っは…ぬ、け…!」
「フ、ッフッフ…フフ…もっと色っぽい声効かせてくれたら抜いてやるよ」
「くたば、れ、とり、やろう…ッ」
「おいおい、可愛げがねえなァ」
 そう言うが否や、ドフラミンゴは少し体を動かし、剣の柄を握っていたミトの手をその足で踏みつけた。長身の体重がのしかかる。骨を押し潰されるような感覚が手に走った。体を揺らし体重を移動させるだけで言葉にならない痛みが手に走る。
 自身の腕を掴んでいるミトの手がまるで痛みに堪えるように爪を立てる。セックスの間柄であれば、背中に爪痕が残っただろうかとそんな事をドフラミンゴは考えた。そろそろ限界なのか、もとより限界であった体を動かしていただけなのだろうが、目がうつろに彷徨いだした。ドフラミンゴは傷口からわざわざ痛めつけるようにしてゆっくりと、痛みを与えるように爪を内部で立てながら指を抜いた。動かすたびに中の肉が震えて締めつけた。
「可愛がってやるから、心配すんなよ」
 長い舌で傷口に突っ込んだ指を舐め上げる。鉄の味がした。そして笑いながら見下ろせば、動いていた瞳が焦点を合わせて睨みつけてきた。ドフラミンゴはそれに気付く。声を出す力もないのか、しかしミトは口だけを動かした。唇の動きで、ドフラミンゴはミトが何を言っているのかを読み取る。
 ふざけるな。
 そう、言った。否、動いた。笑みが一瞬口から遠退く。しかしそれはすぐに戻り、肩を揺らす動作に変わった。右手に乗せていた足を外せば、足の下に敷かれていた手はぴくぴくと動くだけのものとなっている。地面と触れあっている部分は恐らく擦れて傷だらけになっていることだろう。固く握りしめられていた柄を持つ力は流石にもうないらしい。
 ドフラミンゴはミトを抱え上げる。ぐったりとした体はどうやら先程の一言で意識を失ったようだった。首に力が入っておらず、頭は後ろにがくんと垂れた。指先の血をべろりと綺麗に舐め取れば、長い指に唾液が絡められる。もう船は見えない。
 おれのものだ。
 ようやく。
 腕の中の重みを感じながらドフラミンゴは嗤う。船の上で、腹立たしげに顔を歪めたクロコダイルを脳裏に思い出す。何とも悔しげな顔をしていた。肩に女の刀を突き刺され、伸ばした手は振り払われた。イイ様だ。愉快で痛烈。
「返しゃしねェよ」
 海に帰った人魚は泡になるのが常。
 ドフラミンゴは不敵な笑みを口元に添えて、ぐったりとした女の体を小脇に抱え直した。しなくてはならないことはまだまだある。帰ったら傷の手当てをして、鎖に繋ごう。檻に入れてしまおう。
 海に、帰れないように。あの男の元へ帰れないように。
「フフ、フッフッフ」
 桃色のコートが戦場の臭いに揺れた。