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クロコダイルの叫び声が白ひげの耳を震わせる。二人の間の確執をミトは知らない。知る必要も、また、ない。
スクアードは海軍に騙された。ああ所詮事実などそんなものだ。ミトはパシフィスタの頭を一突きして横に払いながら、その言葉を胸中で繰り返す。戦略だ軍略だ、そんな言葉で片付けたとして、そこに正義はあるのだろうかと空を見上げる。
あの日を思い出す。家族が死に絶えた、あの日を。
『正義だからと言って、何をしても良いわけではないんだ。ミト』
唇が、震えた。
『ううん、もっと言えば、海軍や海賊という枠組みを越えての話だ。人として、それはどうかと言う話になる。自分の行動と信念に常に誇りを持たなければ。そして責任を。それによってどんな感情を持たれても、それを受け止めなければならない。その覚悟もないのに、行動をしてはいけない』
ほんとうは、しっていた。
知っていたのだ、とミトはパシフィスタの腕を斬り落としながら考える。
船長が死んで一番悔しかったのは自分だと。きっと、死んだ仲間は己を殺した海軍も海賊も恨んではいないのだと。弱いから負けた。弱いから死んだ。それだけなのだ。許せなかったのは、殺したい程に憎かったのは、海賊なのに海軍とつるんだわけでも、海軍だというのにその正義に泥を塗るような行動を取ったからでもない。
ほんとうは。
じぶんのたいせつなひとたちをころしたにんげんが、にくかったのだ。
単純に。それに敢えて理由をつけるならば、己がしたことの意味を知らず、私利私欲に溺れ、信念も矜持も備わっていない殺人者が許せなかっただけだ。
だから、自分は赤犬の行動を責めることはできない。それは、戦略の一端であり、結局のところそれに乗せられたスクアードが愚かだったと言う話だ。ただ、憤ることはできる。怒ることもできる。それは、かつて船長が教えてくれた。
「仲間」を貶められれば怒って良いのだと。
「友」を傷つけられれば憤って良いのだと。
許さなくて、良いのだと。許す必要などないのだと。
自分の心に正直であれと教えてくれた。
「サカズキ、大将」
ミトは振り返る。己の過去も経歴も全て。己がしてきたことも全て振り返る。殺した人間も、思い出す。誰も喜びはしないであろう仇討。しかし、結局後悔はしていない。自分が殺したあの二人を思う人もまた居たことだろう。あの二人を信頼していた部下も仲間も家族も居たことだろう。彼らが武器を振りかざし自分を殺そうとしてきたならば、それは受け止めねばならない。そして、受け止めた上で、自分がどうしたいのかを考えなければならない。それが、人の命を奪った者の覚悟と言うものだ。人を殺したことの正当化にはなりはしないが。
赤犬は己の行動に信念と矜持、そして責任を持っている。それに対する海賊の反応も一切合財全て、受け止めた上で今回の原因を引き起こしたのだろう。ならば何も言うまい。何も叫ぶまい。スクアードは痛いだろう苦しいだろう。だが、慰めることはできない。彼もまた、彼が取った行動の責任を取らなければならないのだ。膝を着き涙しているだけではいけない。
そして自分は、とミトは顔を上げた。白ひげが叫ぶ。おれと共に来るものは、命を捨ててついて来い、と。
その叫びに、パシフィスタを斬る手を止める。こんな縁に居ては、手助けはできない。ならば走らねば、とミトは地面を駆けた。振り返り様に前方に居たパシフィスタの頭をそぎ落とす。
地面が震え、白ひげの戦いが始まる。世界を滅ぼす力、というのは決して名前だけではない。揺れに体を奪われぬよう、ミトは器用に体勢を立て直しつつ、足の裏で地面の動きを感じながら人ごみを駆け抜けた。邪魔をする海兵は全て薙ぎ払って行く。尤も、幸か不幸か海兵たちはある時点から後退を始めており、走る邪魔はしてくれない。
地面に降り立った白ひげの隣を、ミトは駆け抜けた。何も言わず、何も語らず。その逞しく、立派な大きな背中を過ぎ去った。そして、白ひげもミトの背中を見つけた。だが、呼びとめることまではしない。
白ひげは思う。
赤子だったあの小さな体が、自分の隣を駆け抜けるほどに成長した事実を。彼女が何故この戦に参加したのは知る由もないことだが、おれの娘だと紹介されたはるか昔を思い出す。
拳を握りしめ、敵に震動を送り込む。
ロジャーが逝く前に、その男は死んだ。公開処刑の数年程前のことだっただろうか。ぷつりと音信が途絶え、酒を持って遊びに来ることが無くなった。気さくな海賊であった。お前の娘じゃねェだろう、と言えば、おれの娘さ、可愛いもんだろうと、抱きあげれば壊れてしまいそうな赤子を抱えて笑っていた。お前も抱くかと押しつけるように抱かされれば、全くそれは小さな小さな存在であった。小さすぎて押しつぶしてしまいそうだった。小さいだろ可愛いだろうと男は笑っていた。母親はどうしたと尋ねた時、そう言う意味での娘ではないと笑っていた。樽に押し込められて流されていたところを拾ったらしい。どこかの島の女に預ければ良いものを、危険な海で無力な赤子を育てる意味が分からなかった。そうすると、男は酒を一つ扇いで飲み干し、豪快に笑った。札付きの自分たちが預けたとして、それからどうすると笑った。
『おれが掬いあげた命だ。大切に育てるさ』
それからも、自分の船を訪れる際にはいつもその小さな子供が付いて回っていた。はいはいができるようになっただとか、「せんちょう」と呼んでくれるようになっただとか、でも本当はお父さんと呼んで欲しいんだがな、と酒では子供の話も混じるようになった。自分の事を子供が「おやじ」と舌っ足らずに呼んだ時には、世界の終りでも見たかのような顔をして落ち込まれた。マルコたちとも気付けば仲良くなっていて、子供の力は偉大だなとその光景を眺めながら笑ったものだった。尤も、マルコは髪の毛をぐいぐいと引っ張られて大変な様子ではあったが。両足で立って甲板をふらつく姿は危なっかしく、酒を飲みながら常に子供への注意を男は忘れていなかった。船から落ちた時など、真青になって海に飛び込んでいた。男が能力者でなかったことは幸いしたと言えよう。
その娘が「海兵」になって戻ってきたのには心底驚いた。そこはおめぇの居場所じゃないだろうと思ったのは、自分だけではなかったはずだった。あの男の音信が途絶えてから数年後に、娘は氷のような冷たい色を瞳に滲ませるようにして海へと帰ってきた。
一度、拳を交えた。
止めてやりたかった。あの男が、愛しい娘と呼んだ、娘にそんな目をして海を渡って欲しいとは思わなかった。海賊でも海軍でもそれは変わらない。娘はいつの間にか、死人のような、しかし煮え滾る怒りと殺意を瞳の奥に燻ぶらせながら生きていた。復讐者はえてしてそういう目をする。やめろ、とそう諭した。よすがが無いのであれば、おれの娘になれ、とそう言った。男の宝物を、ここで捨てるのは戦友として申し訳なく思った。だが娘は首を横に振ってそれを拒絶した。叫んだ。殺すのだと。そして、自分の事を「オヤジ」ではなく「白ひげ」と呼んだ。止めても聞きゃァしねェのか、と聞けば、復讐者は首を縦に振った。
『新しい家族など欲しくない、私の家族は』
家族は、と声帯が壊れるほどの大声で娘は叫んだ。その声は今もまだ耳に残っている。
そして白ひげは前方に征く女の背を眺め思う。死にに来たのか、と。見れば分かる。あの娘はもう正義の二文字を背負っていないし、戦地へと突き進む姿はまるで死を覚悟した特攻隊のようだ。足をもがれ手をもがれ、腹に穴が空いて、動けなくなればようやく死ぬ。
すまねぇな、と白ひげは男の顔を思い出す。
全く、ロジャーと同じで良く笑う男だった。豪快な男だった。海を愛している男だった。何故死んだのか、とらしくもなくそんな事を思った。あの娘が、ミトと再び見えた時、この娘を残して死んだのかと少しばかり男を恨んだ。娘にこんな目をさせて、それでもお前は父親かと。だが、死者は蘇るはずもなく、そして、この海に居ればいつでも死と隣り合わせなのだから、死んだのは仕方がないことだ。ロジャーと酒を飲み交わしながら、あの娘も死んだのか、とそんな話をした。小さかったのにな、だとか、ちょっとした昔話をしたものだった。
親は子よりも早く死ぬものだが、あいつは早くに死に過ぎた。
深い傷を体よりも心に負った娘は、殺すために立ち上がる。痛々しくて見てらんねェよい、オヤジ、とマルコは娘が帰った後にそう言った。
『「あれ」は本当にミトなのかよい』
呟かれた声は、少し疲れていた。あいつを止めらんねぇのかよい、と悔しげにぼやいたマルコに返す言葉は一つしかなかった。止められない、と。ただ思うのは、
『寂しいのさ、マルコ。あいつにはもう何も残ってない。そう思っていやがる、一丁前に。時々遊びにも来るだろう、かつての知り合いとしてな。その時にでも、あのアホンダラに気付かせてやれ。ほんの少しでいい、何も残ってないことはねェ、ってな』
『…おれたちの声が、あいつに届くのかよい。あんな目した、あいつに』
『届くも届かねぇも、やる前から諦めてどうするんだ。なぁ、マルコ。…あの娘は、それこそ体の一部に等しいものを無理矢理に奪われたんだ。憎みもするし恨みもするだろう。目も曇るだろうよ。だがな、いつかは晴れる。その時に誰かが側にいてやらなくちゃならねェ。立ち上がる手伝いをしてやらなくちゃならねぇだろう。失ったものを失ったんだと「本当の意味で」理解して折れて空いた穴を、埋めてやらなくちゃならねェ。仇を殺した所で、誰も喜ばないことをあいつは気付いているだろうが、ただ止まれねェだけだ。おそらくそれは、おれたちにも止められねェ。止まるのを待つしかねェ。あいつを止められる唯一の男は、死んじまった。いや、死んじまったからこそ、あの娘は止まれねェんだろうな』
『…難儀だよい』
『馬鹿なのさ』
船長!と良く懐いていた。まるで本当の親子のようだった。否、本当の親子だった。オヤジ、またな!と帰り際に手を振るたびに、少し恨めしげな目で男からは見つめられた。そんなに父さんと呼んで欲しいならばそう言えばいいのにと思いながら、グララと笑い、変な笑い方!と髭を引っ張られたり、膝に乗ってきたり。オヤジ大きい!と笑っていたのは、一体いつの日か。
『馬鹿なのさ。どうしようもないくらい』
あれから、結局、誰も止めることはできず、そして気付くこともなかった。
ミトがインペルダウンに連行されたという話を聞かされた時、終わったのか、と青い海を眺めながらそんな事を考えた。きっとあの娘は後悔していないのだろうとも思った。ただ、仇討で何が得られるのかと言えば、何もない。仇討が駄目なのだとは言わない。ただ、仇討に対する姿勢が駄目だったのだ。自分が止めようとしたのは、娘が仇討のためだけに生きていたからだ。他には何も望まず何も求めず、ただただ、仇を殺すためだけに生きていた。一等、あの娘はあの男を大切に思っていたからこそ、思えばこそ、「それが終わった時」の空虚感ほど自身を押し潰すものはない。
仇を殺して万々歳、さぁ新しく優雅で楽しい世界を生きよう!などとそんな風には考えられないことだろう。何しろ、彼女は「仇」以外は何も見ずに生きてきたのだから。深く閉ざした帳を開けられるほどの力など、もう残ってはいるまい。あるのはただ、疲れ果てた体だけだ。大切なものは既になく、見ていなかったために目が曇る。曇りを取るだけの力もなければ、おそらく、曇りガラスの向こうを見る気力もないだろう。
だからこそ、止めろ、と言ったのだ。仇を討つために生きれば、本当に大切なものを見失う。それこそ、あの男と彼女の仲間が彼女に望んだ人生とは真逆の物となるだろう。己たちの声は届かず、子供だった娘は、大人の女になって、仇を討ち、そして、そこで疲れ果てた。
アホンダラ、とその言葉がこれほどに似合うことはない。
しかし、今はそんな言葉をその意味でかけてやるだけの暇はなく、全てを終えて何も持たずに死にに逝く女を止める言葉を掛けられることもない。命一つ人間一つ。今自分ができるのはエースを救い、愛する息子たちに世界を繋げることだけだ。死にたい、とそう願う女を止めるだけの力は残っていない。
ならば、手伝ってもらおうと白ひげは腹に力を込めた。
「ミト!!その防御壁を斬れるか!!!オーズの脇の板一枚でいい!」
呼ばれた名前にミトは振り返らなかった。そして、海賊を囲った防御壁を見る。厚さを目測すれば、刀身の長さよりもほんの少し厚い。斬撃を飛ばすことはできないので、実質斬れるのは刀身と、そこから生み出されるほんの少しの膜が限界である。どんな物でも絶てるが、厚さには限度があった。
ミトは叫んだ白ひげの言葉に、大声で走りながら返事をする。
「斬れる!!だが、ほんの少し、壁は残るぞ!私の力では、押しきれん!!」
「構わねェ!そこから先は、おれの仕事だァ!」
分かった、とミトは叫び返す。そして、もう一声叫んだ。懐かしいあの時を、まるで振り返るかのように。死に逝く前に、後悔を残さぬように。
「頼んだ、『オヤジ』!!」
小さなころの、船長が生きていたころに、そう呼んだ。皆が彼をオヤジと呼ぶから、自分もつられてそう呼んだ。死線を越えて帰って来て再び会った時は「白ひげ」と呼び方を変えた。死人が彼を「オヤジ」と呼んではいけないような気がした。娘になれ、と家族を与えてくれようとしたその手を振り払った。
止めてくれようとしたのだろう、クロコダイルと同じように。自分が、こうやって死なないように。
しかし、その手を握り返すことなどできなかった。自分が新しい家族を作り、安穏と暮らすことが許せなかった。目の前で殺された船長の光景は瞼に焼き付いている。昨日のことのように思い出される。自分の家族は唯一つ、船長たちだけでよかった。新しいものなど欲しくない。治らない傷は無い。きっと白ひげ海賊団という家族を得れば、自分が負った傷は緩やかに治されていくことだろう。大切なものを見つけ、大切なものを与えられて行くことで、ゆっくりとゆっくりと。けれども、そんなことは、したくなかった。この憎しみを忘れたくなかった。恨みを辛みを。消してしまうことなど、耐えられない。だから、自分の家族は彼らだけでよいのだと、叫んだ。
一人じゃねェぞと言ってくれた。疲れたらいつでも来いとも言ってくれた。それから何度か遊びにも行った。けれども、家族には、ならなかった。なれなかった。膿んだ傷をじくりと痛み続ける傷を自分の手で抉り、詰り、踏みつけ、痛みを常に感じていた。
目が覚めてから決めていたのだ。殺すために生きて、そしたら帰ろうと。海に居る皆の所に、帰ろうと。死のう、と。優しさもぬくもりも必要ない。必要だったのは、ただ、力だけだった。船長たちを殺した人間を殺せるだけの強さ。優しさに縋るだけでは手に入らない力だったように思う。
崩れて行く足場を月歩で走りながら、ミトは刃を引き絞った。
娘になれと心配してくれた白ひげ。その優しさと懐の広さが嬉しかった。有難うと言っておくべきだった。白ひげには分からない!とそう叫んで八つ当たりをしたことを謝っておけばよかった。分からないはずなど、無いのに。だから、その意味を込めて、「オヤジ」と口にした。もうきっと二度と、それを口にすることは叶わないであろうから。
ここを、死に場所と決めているから。
引き絞った刀を高速で振るう。刃がするりとオーズ右側の壁に通った。刀身が削れることはなく、抵抗を一切感じさせない(実際に感じていないのだが)動作でミトは防御壁の一枚へと刃を通した。長さが足りない分、防御壁が完全に崩れることはない。海面を蹴り、一枚板の最後でするりと刃を壁から抜いた。ミトが完全に刃を抜いたのを見て、白ひげは拳を振るい、震動を壁に叩きつけた。一枚の板が、処刑台側に向かって倒れる。
地響きと共に壁は倒れ、オーズはコーティング船を岸に乗りあげさせた。