Jaws of death

 体が落下していく。落ちても死なない術は身につけているので焦る必要はない。ふと顔を上げれば、処刑台に座す男の姿が見えた。共に落ちて行く黒いコートへと顔を向け、ミトは葉巻をのんびりと燻らせている男に笑いかけた。
「じゃあな」
「…」
「お前に会えて、良かったよ」
 本当に、と一つ言葉をささげ、ミトは大気を蹴った。強く蹴りつけた大気は足場となり、細身の体を吹き飛ばす。動揺した戦場だが、それはすぐに元の混乱に戻っていく。大勢の人間は突然現れた旧七武海とその面々に釘づけになっており、ミトは薄く笑った。
 空から地面を見下ろす。地面、というよりも人の群れが殺し合っていた。
 ミトはすいと視線の先を処刑台へと向ける。そこに居るのは、センゴク元帥とガープ中将、そして火拳のエース。海楼石で悪魔の実の能力を封じられているために動けないだけと考える。そうでなければ、彼は今頃自ら白ひげ海賊団へと戻っていることだろう。ならば、その海楼石の枷さえ外せばエースは自由になる。そして彼は、帰るのだ。海へ、仲間へ。
 それから、じぶんは。
 一直線に、ミトは処刑台へと瞳を見据え、大気を一層強く蹴りつけた。人ごみの中を駆け抜けるより、そのまま宙を走ったほうが無駄な体力を使うこともなく、非常に効率よく辿りつける。尤も、そうことは上手く運ばないことは、馬鹿でも分かる。それでも、上か下かと尋ねられれば、間違いなく上を取る。
 頬で風を感じつつ、路を遮る障害物を睨み据える。
 腰に帯びた刀の柄を握りしめ、ゆっくりと、ミトは刀身を空気に触れさせていく。
 最後は己の命を絶つ刀。
 奪うは、海兵の「命」。エースを助けようとするものを阻害する全てのもの。行く手を阻むのも全て。薙ぎ払う。斬り払う。全てを絶つ。
 ミトは静かに最後まで刀身を外気に触れさせた。一口の刀が全て姿を現す。命が惜しければ、などとそんな常套句は必要ない。戦場に立った限りは全ての者がその覚悟があると仮定する。命を奪われても奪っても文句は言えない。それが、それこそが戦場。
 常人では手の届かない位置も、巨人族ならば、手は届く。まっすぐに進んでいるために、高度は最初よりも少しばかり落ちていた。攻撃は十分に届く。振りかざされた武器を、ミトは見た。だが、負ける気はしない。
「海軍の恥め!」
 強大な力で持って、中将の一人は武器を持つ腕にさらなる力を込めた。上から叩き潰そうとしているのだろう。巨大な、それは巨大な武器が太陽すらも遮るような勢いで視界に迫る。抜き身の刀を、ミトはしっかりと掌に感じた。鼓動を、感じる。意識を一気に集中させ、それぞれの鼓動を聞く。拍動を感じる。
 大気を踏みつけた足で、体をひねり、その一撃で刃を引き絞った。下方で悲鳴のような忠告が響く。
「その子の武器に触れるんじゃない!ミト…!およし!」
 つるの声をミトは耳にだけ留め、そして流した。対峙している二人に、つるの言葉は何の意味も持たない。巨人族は細腕一本のミトを叩き潰せると慢心し、その小さな人間は叩き潰せるはずなどないと確信する。衝突、と表現するには、それは本当に一瞬だった。
 ミトはさらに強く大気を蹴りつけ、そして刃を金棒のような武器に触れさせた。本来であれば、力負けをして刀は砕け、女の小さな体は押し潰され叩き壊される、はずだった。しかし、現実はそうならなかった。
 獣のような獰猛な瞳を、中将の巨人族は見た。ただ、一つの刃に自分の武器が一刀両断され、そこから覗いた一人の女の姿を見た。ぞくりと背筋が冷える。
 絶刀のミト。
 その名前は確かに聞き及んではいた。だがしかし、しかし、己の武器すらも斬られると言うことは、想像の範囲外だった。武器を引くよりも体を引くよりも速く、その小さな体は距離を月歩で一気に詰める。大きな瞳の中に、小さな姿が映し出された。初めは皮膚に、それから肉に、血管に、神経に、骨に、そして。己の意識が消えたのを、男は知ることはなかった。知るよりも少し早く、男の命は「絶えた」。
 ぶつ、ん、と前方に押し出した刃は男の喉を一突きした。そしてそのまま、ミトはその刃を右に振り払う。力によってではなく、抵抗を一切感じさせずに刃を滑らかに通す。突き刺した刃が、頸部から姿を現した。斬裂かれた頸動脈から血の雨が降り注ぐ。ばらばらと落ちて行く血液のなか、ミトは意識もなくただ立っているだけの巨人族の肩に足を乗せ、そこを足場に前方へと飛んだ。強く強く蹴りつけられた体はぐらりと倒れ、地面に群がっていた兵士たちを押し潰した。
 潰されなかった人ごみの中に、ミトはつるの姿を見る。心配そうな、どこか悲しそうな目でこちらを見上げていた。ミト、と呼ばれている気もしたが、もうそこへは戻らない。どむと強めに大気を蹴りつけて、視界からつるを消す。後ろ髪は引かれない。その一瞬、腹を何かが貫通した。体の力が一瞬で抜け落ち、大気を踏む足が滑る。背後から飛んできたそれは、目の前へと抜けて行く。一筋の光だった。
 首だけで後ろを見れば、マルコと対峙している黄猿の指先がこちらへと向いていた。舌打ちを一つして、ミトの体は落下していく。ごふと一つ咳込めば、口内に血の味が広がった。約束を果たしていないので、まだ死ねないな、とミトは腹部に空いた穴に小さく笑う。一度力の抜けた体に力を込め、落下していく体を叱咤した。
 こんなところで倒れたまるか。まだ、まだまだ、まだ、刀を振るわねばならない。
 処刑台に映ったエースの苦い表情に笑みを深めて、ミトは歯を食いしばった。くくと喉をひっかくような笑いが笑んだ口から溢れた。力強く大気を蹴りつけた。七武海が並ぶ外壁は既にない。それぞれが、それぞれの動きをしているために、既に防衛線とは呼べない。倒れこんだオーズの死体の上にミトは倒れ落ちる。しかし直ぐに体勢を立て直し、柄を握り直すや否や、海兵の一人の首を跳ね飛ばす。剣を持った両腕も、それと同時に斬り取られた。
 動いた拍子に、開いた穴から血が溢れだす。足元がふらついた。口内にたまった血を吐き出し、ミトは処刑台を見上げる。剃と月歩を使えば、一分も要さない距離である。斬りかかってきた兵士の足を薙いだ。
「悪いな、オーズ」
 足場に使わせてもらう、とミトはぐと足に力を込めて宙へと体を投げ出そうとした。が、その視界を一瞬、黒い刃が閉ざす。黒刀。ゆるりとミトは反射的に体を動かして、十字架を模したかのようなその大刀へと己の刃を触れさせた。刃が、黒刀に吸い込まれるように滑るかと思いきや、その僅かな瞬間で、黒刀は斬られるのを見きったかのように引かれる。
 胸元を大きく広げた服がミトの眼前に広がる。首に下げられている十字架が動きに合わせて揺れ、黒いブーツが地面を押す。
「この黒刀すらも斬り裂くか」
「私の刀は全てを絶つ。お前の刀とて例外ではないぞ、鷹の目。刀が惜しければ引くことだ」
「だが、その刃に触れなければ良いだけの話だ」
「言ってくれるな。だが、私の刀を押さえて、お前はどうやって私を切裂く」
 刃の部分に触れず、刀の腹に黒刀を器用に添えながらミホークはミトの攻撃を防ぐ。こうしよう、とミホークは胸元の十字架の小さな刀を取り出し、相対しているミトの無防備な体に吸い込ませるようにして突き出した。ミトは足元に落ちていた剣の持ち手を踏んで跳ね上げると、それを空いている手に持つや否や、即座に突き出された小刀を下から払うように振り上げた。
 剣の刃と十字架の刀が触れ合う。ミホークは、何を察したか、刀をミトが振り上げた剣と同じ方向に放り投げると落下してきたそれを受け取り、僅かに口元を歪める。
「…貴様の刃はまるで獣の牙よ。刃を選らばず、全てを絶つか」
「生憎だが、私は刀だけに頼った戦い方はしな、」
 い、と言おうとしたミトは、ミホークが僅かに屈んだのに気づいた。その背後、黒い服装、大きな丸いだるまのような体を視認する。ミホークの刀を受けていたために、海楼石の刀はその、悪魔の実の能力を伴った攻撃を防ぐことはできない。しまった、と思ったが、その反応は少しばかり遅かった。
 視界にエースの姿が残る。
「圧力法」
 肉球で圧縮された空気に体が押された。踏ん張りなぞ効いて意味の無いものである。くそ、と手を伸ばしたが、当然届くものではない。大きく飛ばされた体は、誰かの体に突きあたり、そして地面をすりながら倒れ込む。げほ、と数回咳込み、遠ざかった処刑台を睨みつけた。だが、その中で背後が大きくざわついたのを知る。ふと振り返れば、そこに並ぶのは先程自分に向けて悪魔の実の能力を放った男の外見をしたものだった。
 ざわめきが大きく広がり、それは混乱になる。
 バーソロミューくまの形を模したものは、口をカパリと広げそこからレーザー砲を放った。まるで兵器そのものである。否、兵器そのものだ。まるで、などと抽象的な表現を必要としないそれは、兵器、まさしく人間兵器であった。
 ミトは周囲の状況を照らし合わせ、自分がすべきことを即座に弾き出す。今一番やっかいなのは、エース救出のために武器をとる白ひげ海賊団を攻撃するもの全て。そして、彼らが倒せないのは一般の兵士、将校ではなく、この人間兵器。
 一度は倒れた体を起こし、ミトは足に力を加えて、その攻撃の嵐の中を剃で器用に避けながら駆け抜ける。顔見知りの白ひげ海賊団の傍らを過ぎた。お前、と呼ばれたような気がしたが、そんな事を気にしている暇などない。一瞬でくまの懐に飛び込むと、体勢を崩させるようにその両足を斬り取った。刃は薙ぐ。まさに「あらゆるもの」を斬る腕は、くまの足すらも両断した。そして、落ちてきた体の攻撃部分へと刃を滑らせる。最も厄介だと思われる頭部を斬り飛ばし、そして次にその両腕を落とした。どん、とパシフィスタと呼ばれた人間兵器が地面に倒れ伏す。
 いいか!とミトは叫ぶ。
「こいつらの相手は私がする!援護は要らん!エース奪還に迎え!」
 返事は聞かず、次の兵器の頭を斬り飛ばした。レーザー砲を主力とするこの兵器は頭部と手さえ斬り落とせば大した脅威ではない。黄猿に食らった傷から流れ落ちる血が体力を奪うが、そんなものは無視をする。
 刀を握れ。刃を振るえ。斬り裂け。絶て。
 我を忘れたようにミトは刀を振るった。背後で響く悲鳴、雄叫び、絶叫、それらが鼓膜を震わせたが、今駆け込んだところでできることなど高が知れている。この混戦状態を解決できるのは、白ひげであるし、もしくは麦わらのルフィだけであろう。彼らの行く手を阻むものは、白ひげ海賊団隊長たちが打ち倒す。
「邪魔は、させん」
 引き絞り、十体目を仕留める。十一体目、とミトは視界に次のパシフィスタをおさめた。だが、その視界がぶれる。刀を持っていた腕に熱さが走る。それでも刀を落とすことはせず、一度振りかざした刃を止めずに次のパシフィスタの頭部を払った。落ち様に両腕を斬り落とす。着地の際には両足に痛みが貫通し、思わずその場に倒れ込みかけた。
 呑気さを感じさせる声がミトの耳に届く。混戦の中で、その声は何故か一際はっきりと耳に残った。
「君のその何でも斬っちゃうトコ」
 光る指先が、こちらを捉えている。
 ミトは腕にこもった熱がぼろぼろとおちて行くのを感じた。ひょうと心臓を突き刺そうとした光線を刀で薙ぎ払った。何がおかしいのか、笑いが腹の底から這い上がってくる。ははぁ、と吐息のような笑いが、血と共に吐き出される。
「おっかないねぇ~。ん?何がおかしいのかねぇ、わっしにも分かるように説明して頂戴、っよ!」
 光の速度が迫る。否、迫ると言う表現はおかしい。来る、とそういう神経パルスが届いて思考した瞬間には、もう既に攻撃は届いているのだ。それこそが、光速。高速などでは表現しきれぬ光の世界。そしてミトは一度撃たれた箇所に重みが乗ったのを感じる。そして次の一瞬で蹴り飛ばされた。横に振られた光の脚から逃れる術などほぼないと言って等しい。背部に、倒したパシフィスタの固さを感じる。痛みが飛ぶほどの衝撃が背骨から全身を浸透させるように伝わる。衝撃が痛みと変換され、喉から外へ、血液となって吐き出された。ごぷ、と液体が無理矢理に溢れる。
 血を吐き捨て、ミトはそろそろ限界を叫んでいる体を叱咤して立ち上がった。
 まだ、戦える。まだ足も手も折れていない。骨になるまで灰になるまで塵になるまで、体の血が全て抜け落ちるまで、全身の骨が砕けるまで、筋と言う筋が全て切れるまで、神経が全て駄目になるまで。
 自分は戦える。
 つぅと血が鼻筋を伝い、ミトはそれを左手の親指の腹で軽く拭き取り、そして笑う。嗤う。
「ああ、大将黄猿。あまり良い気にならないことだ」
「ん~?」
「非能力者を、舐めるなよ?腕や足のたかだか一二本で私を止められると勘違いするな」
 剃で即座に懐に飛び込む。しかしながら、当然言うまでもなくそんな高速の世界よりも、光速の世界の方が早い。刀を振るうその一瞬で問題なく攻撃をかわすことができる。案の定、振るった刃の先にはボルサリーノの体は既に無かった。足が視界の端に映る。だが、ミトもそれくらいは見こしていた。大将の戦闘を見たことがあった、ずっと見てきたのだ。彼らが「どういう攻撃を好むのか」くらいは把握していた。
 ミトは笑う。頬の筋肉に命令を下したわけではないと言うのに、その筋肉は鮮やかに吊り上げられた。
 迫った足の甲のその先には、刃が既に添えられていた。振るった剣は拾い上げていた他の剣。添えられているのは、
「海楼石」
 黄猿は足を斬られる、その感覚を脳裏に瞬間的に描いた。光の速さで動く足をぎりぎりで無理矢理に止める。それでも完全に止め切ることはできず、刃の先はほんの僅かに革靴を斬った。女の動きは確かに光の速度には到底及ばない。足をさらに斬ろうと振られたそれを黄色猿は脚を引くことでかわす。だが、人体の構造的にできない動きは、光の動きでも不可能なのである。
 己の脇腹に、深い蹴りがめり込んだのにボルサリーノはサングラスの奥で気付いた。自然系悪魔の実の能力者である自身の体には物理的攻撃は当たらない。だが、それは普通の攻撃であれば、の話である。単純に言えば、覇気、を纏った攻撃は自然系であろうとも関係なく効く。
「あらら」
 足の裏が、地面を浮いたのを感じる。レッドワインの瞳をサングラスを通して見た。鋭い眼光がこちらを射抜いている。
「吹き飛べ」
 振り切られた足に乗せられた覇気に体が吹っ飛んだ。先程とは逆に、今度は黄猿の体が駄目になったパシフィスタに突っ込む。両者はお互いの姿を一瞬見失う。遠ざかったその距離では、再度乱戦と混戦の人の渦に消えてしまい、あい見えることは難しい。黄猿の事などこれ以上構っていられるかと、ミトは地面を蹴りつけ、光線を放ったパシフィスタの頭を斬り飛ばした。
 また一体、と武器に見並ぶ人間兵器を視界に納め、ミトは愉快そうに、嗤った。
 人でない者を斬り払っていく中で、ふと、その空間が生きを止めた。何事だ、とミトは視線が一挙に集中している方向へと首を回す。そして、そこで見た。
「白ひげ」
 立派な男の巨体には、深々と刃が突き立っていた。