The last word - 2/2

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 ワニ、と下方から伸びあがった言葉にクロコダイルは目を落とす。ひときわ目立つ麦わら帽子は、それだけで誰なのかを顔が見えずとも容易に理解させた。ぷかと葉巻の煙を吐きながら、見下ろせば、鬱陶しい程にまっすぐな視線が持ち上がった。
「あいつ、なんかおかしいぞ」
 その言葉が指し示す「あいつ」が誰なのかは名前を言われずとも分かる。それは、と葉巻を噛んだままで言葉を続けた。
「てめぇに関係あることか、麦わら」
 無いだろうと暗に含めて、無視するように促すが、そう言った機微が理解できるような男ではないことをクロコダイルは思い出す。だが、思いだしたころには、ねぇ!と非常に分かりやすい言葉が返された後だった。馬鹿はこれだから始末が悪い、と腹の底で舌打ちをする。
「でも、お前には関係あることだろ?」
「さぁな」
「お前、あいつのこと大事なんだろ?」
 顎に力をほんの少し入れて、加えた葉巻を動かした。一息吸い、指先で葉巻を口から取って灰を下に落とす。落ちた灰は、甲板の上でじりと焼ける。発火はしないが、そのうち海の風が冷やしてくれることだろう。
 大事だから、とクロコダイルはぼんやりと考える。
 だからこそ、死なせてやろうと思うのだ。死にたいと願う彼女を止めてやるのは優しさではないだろう。死ぬのを止めたところで、あの女にはもう何一つ残っていない。そう、何も残っていないのだ。彼女が家族と呼んだ人間も、仲間と慕った人も。誰も彼も何もかも。今は、海に消えている。そんな女に今更「生きろ」と肩を掴んで揺さぶったところで、何をしろというのか。何のために生きろと言うのか。唯唯諾諾と無意味に生きて行くならば、いっそ死んだ方がましだ。殺すために歩いてきたからこそ、余計に目的がなくなれば、その挫折は深い。何度となく折れそうになり、倒れそうになって、それをほんの少し自分の側で持ちこたえ、刀を引きずってきた女。何日も何年も、それを傍で見てきたからこそ分かる。
 こいつは、もう、疲れ果てたのだ、と。糸の切れたマリオネットのように、転がっているだけだ。誰かに焼かれるのを待っている。唯願わくば、それが戦場であり、海であることを、それだけを望んでいる。ほんの少しの我儘。
 生きろ、ということ程残酷なことはない。
 紫煙を吐き出す。吸い込んだ分の煙を外に出せば、それは宙で溶けた。これ以上の会話は無駄であろうことも、クロコダイルは理解している。大砲から飛び降り、ルフィの隣へと一度膝を折って着地した。外套が風に少し残り、音を立てる。
「下らねェことに、気ィ回してんじゃねェよ」
 飛ばないように麦わら帽子を押さえたルフィをクロコダイルは下を向いた視界の端に捉える。
「今は、てめぇのことだけ考えてろ」
「ワニ」
 まだ何か用なのか、と苛立ちながらクロコダイルは足を止めた。お前、と言葉が続く。
「あいつと同じこと言うな。何で、お前は諦めてんだ?死なせたいのか?」
「小僧」
 諦めたいはずもなければ、死なせたいはずもない。
 鍵を開けた窓を、誰も訪れない窓をいったい何度眺めることだろうか。クロコダイルと呼ぶ声を何度思い出すことだろうか。記憶の残骸を、忘れるまでどれ程かかるだろうか。分からない。それでも、そう、それでもだ。
「てめぇにゃ、分からねぇよ」
「分からねぇよ。分かりたく、ねぇよ。おれなら、絶対に諦めねェからな」
 く、とクロコダイルは口角と僅かに吊り上げた。若さ故の勢いが、ほんの少し羨ましかった。おれは、とルフィは続ける。
「大切なもんは、もう二度と、失わねぇ。絶対に、もう二度と、だ。そのために、おれは強くなる。もう負けねェ。誰にもだ」
「…言っていろ、小僧。強さでなんとかならねぇもんもあるってことを、てめぇはいつか知るべきだな」
「知りたくもねェ!やる前から諦めてたまるか!」
 すいとクロコダイルは柵に座っているミトの背中へと視線をやった。
 手を伸ばしたところで、それにまともに触れることは叶わないだろう。かつて海で見た笑顔の少女はそこには存在しない。ほんの少し、思い出したように緩やかに笑った女の顔も、少しずつ薄れてきている。そうやって女は生きてきたのだ。血を吐き体に鞭を打ち。たった一つの、唯一つの、それだけのために。
 こつん、と革靴が甲板を叩く。触れた青さに心が少しだけざわつく。引きとめれば、逝くなと叫べば、自分がコイツの生きる意味になればと、疲れ果てた人間に声は届くのかと、そう思う。けれども、それは諦めという鎖に縛られたまま、深く深くに落ちている。そんな事をしたところで駄目だろうと、そう感じるのだ。一番楽な道を、目の前に見えているそれを選ばせてやりたいと思う気持ちの方が強い。この機会を逃せば、この女が死ねる機会は少ないだろう。この大きな戦いで死ねば、それはもう、満ち足りたことに違いない。
 だがしかし。
 クロコダイルは、煙を吐いて、ミトが座っている柵の隣へと肘を掛けた。ミトはそれに気付き、ふふと笑う。
「麦わらに怒られてしまった」
「そうか」
「あいつの青さと若々しさは、気持ちが良いなぁ」
 零れ落ちる言葉を耳が拾う度、やはりこいつはもう駄目なのだと思う。疲れたと、そう聞こえる。殺してくれと、そう叫んでいる。死に場所を与えてくれと、泣いている。
 ミトは海を眺めた。潮風が短い髪をさらう。
「お前は生きろよ、クロコダイル」
「白ひげの首を取ってな」
「返り討ちにされるなよ。白ひげは強いぞ?」
「フン」
 ほら、この女はこんなにも。
 死にたがっている。