捨て置かれた - 2/2

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 革靴を慣らしつつ長い回廊を歩く。高い天井も固い床も。何もかもが自分を否定しているようでギックは舌打ちを口の中で小さくした。
 何も言わずに行ってしまった。
 インペルダウンへと連行された時はまだ謹慎中であったため、結局顔を見ることなく、文句を言う暇もなく我儘を言う間もなく、行ってしまった。顔を見たところで、出てくる言葉は恨み言ばかりである。
 せめて、せめて一言。何を言ってほしかったのだとギックは白けた様に笑った。
「こんなところで、何をしておいでだい」
「中将」
 ギックは銀にも見える白髪の老兵へと体を向けた。髪を一つにくくり、耳には大きめの耳飾りを下げている。知将と名高い参謀の姿にすぐに表面上の笑みを取り繕った。
「中将こそどうされましたか。お忙しいのでは?」
「あたしの質問に答えな。スモーカーに呼び出されていたはずだよ」
 強い口調で押し切られ、ギックは変わらず仮面を被ったまま、両口端を持ち上げてみせる。
「ええ、話し合いは終わりましたから。用向きは終わりとばかりに、おれは素敵な恋愛を探して歩き回っているわけです」
「茶化すんじゃない。スモーカーの下は嫌かい」
「大佐殿は粗暴ではありますが、頼りになる上官ではあると思います」
「あたしは話をはぐらかされるのは嫌いでね。どうなんだい」
 通常であれば、これで事なきを得るというのに、強かな老兵をまくことは不可能であるとギックは諦めた。もとより、この名参謀をどうにかできると考えることの方が恐れ多い。
 ギックは肩を下げ、口から笑みを取り払った。
「では言わせて頂きましょう」
 中将、と男の声は低く響いた。
「おれは未だに大佐の処分は納得していません。まだ、おれはあの人の部下です。誰が何と言っても。あの人の口からそれを聞かない限り、おれは認めない。ですから、おれには新しい首輪は必要ありません」
「…そんなことは、あの子の本意ではないだろう」
「あの人は勝手をした。だからおれも勝手をします」
「子供みたいなことを言うんじゃないよ」
「子供で結構です。この件は、おれと大佐の問題ですから」
 きっぱりと言い切って話を聞こうとしない海兵につるは深く肩を落とした。このまま言いくるめることも可能であるが、つるはそれをしようとはしなかった。
 老兵の肩にかかる海兵のコートの正義がゆると左右に揺れる。その二文字は、かつて彼女が拾った少女が羽織った二文字でもある。そして、それは投げ捨てた二文字でもあった。
 口をへの字に曲げたつると拳を握りしめたギックは互いの視線をそらすことをしない。
 先に沈黙を破ったのは鳥の名を持つ老兵であった。
「…インペルダウンへ行くことは許可しないよ」
 口から落とされた言葉にギックは目を大きく見開く。自身の行動を先読みされ、かつ禁止されたことに体を強張らせた。何故、と反論が口を突く前につるは、手を前に出して制止した。
「それが、あの子のあたしへの最後の願いだからだ」
 老兵の言葉は深くしかし鈍く男の胸の奥へと突き刺さり、それ以上の追随を許さなかった。口を噤み、起立の姿勢を崩さない男へとつるはさらに言葉を重ね、念を押す。
「会うつもりはないと、そう言った」
 かつ、と乾いた足音が男の背中で一つなる。磨かれた床の上に老兵の足が乗っていた。互いの海兵の正義がすれ違う一瞬に、ギックは視線を僅かに動かすこともできなかった。老兵の言葉に指先から冷え、心臓が音を止める。
 言葉が、出てこない。
 喉に魚の小骨が刺さったような感覚を覚える。老兵の顔もまともに見ることはできなかった。
 もう一つ小さく足音が廻廊に反響する。老兵の体がぴたりと止まり、正義のコートが左右に揺れる。
「おれは」
「忘れな。辛いなら」
 その答えを聞く前に老兵はその場を後にした。
 つるの言葉にギックは俯き唇を強く噛む。唇は強く噛み過ぎて血が滲み、それは口内にぱっと広がり独特の味を舌が拾う。手を一度広げ、最後握りしめると、ギックはその手を壁に叩きつけた。痺れるような痛みが拳から肘へ、腕へと伝わる。
 忘れられるものならば。
 とうの昔に忘れているのだとギックは口の中で反芻した。それができないのは、数々の思い出があまりにも温かく眩しいからである。そして大切だからである。握り潰すには、あまりにも愛おしい。
 再度拳を壁に叩きつけ、男は余った手で顔を覆い隠し、小さく嗚咽をこぼした。

 

 部屋の扉を押し開け、つるは柔らかな革張りの椅子に深く腰掛けた。
 眉間を右手の指先で抓み、長く低い溜息を漏らす。瞼を閉じれば、最後に会った女の顔を思い出した。頭の天辺から足の爪先まで血塗れで、乾いた血がぱらぱらとはがれて幾つか床に落ちていた。臭いは、強烈だった。
 それでいいのかとつるは聞いた。それで構いませんと女は答えた。
 ハルバラットの叩けば出てきた山ほどの埃の罪状を全て被っても構わないと女は答えた。軍としても罪人が二人も同時に出るのは好ましくない。不祥事はできる限り小さい方が好ましい。
 女の部隊は元からつまはじき物の部隊である。今回の件とハルバラットの件を絡ませて彼女の部隊全員を除隊にもできた。それを止めたのは女である。静かに佇む女であった。ただ一人がしたのであると。そう、女は言った。
 彼らは海兵です、中将。今迄も、これからも。
 女の言葉は耳に深く沈み込み、繰り返される。そして、お願いですと続けられた。
 どうぞ、彼らが何を言っても耳を貸さないでください。私の下へ、連れてこないでください。
 そう言った。女は状況を理解していた。彼女が彼女の部隊員と顔を合わせることが何を示唆するのか理解していた。彼女は最後のその一瞬まで、彼女の部下のことを考えていた。
 ああとつるは項垂れる。顔を歪ませた彼女の部下の一人は、捨てられた犬のようだった。標を突然失い、路頭に迷った犬の顔をしていた。帰る場所を見失い、主を探して鳴いている。
「馬鹿だよ」
 お前もあの子も。
「疲れたのです、中将。私は、もう」
 牢屋の向こうから届いた声は形容しがたいほどに淀んでいて。
 馬鹿な子だ。
 つるは海賊の墓場へと繋がれた女を思い、嘆いた。