逃避

 范無咎は謝必安という男について、本当によく知っている。
 酒を片手に、肌を酒精の影響でわずかに上気させた、舌の滑りが滑らかな男を目の前にしてエミリーはそれをしみじみと思った。
 そう思う女の両手に挟まれたグラスにも、黄金色の飴を煮詰めたウイスキーが透明の氷を溶かしながら揺れている。疲れている時などに酒を飲むと、エミリーも酒に飲まれて、前日の行動を覚えていないことが多々あったが、そうでない、本日のような、体調の良い日に体に入れるアルコールは少量であれば、良い睡眠導入剤となった。
 体を左右に揺らしている男が、酒を不得手にしているという話は聞いたことがなかったが、どうやらウイスキーは初めてだったようで、しかも最初の一杯を飲んだ後に「美味い」と目を輝かせて、何杯続けて飲むのだから、当然の結果とも言える。
 泣き上戸でも笑い上戸でも、そのままストンと寝てしまう訳でもなければ、暴力にでるような絡み酒でもない。
「なあ、聞いているか。医生」
「ええ、聞いているわ」
「そうか」
 顔が緩めば、少年のようなあどけなさが覗く。
 その口から溢れるのは、二杯目から彼の魂の片割れの話ばかりである。
「必安はだな」
 午後9時から飲み始め、もう間も無く日付が変わる。
 三時間にも渡り、たった一人の男のことを話し続けているにも関わらず、「その話はもう聞いた」と遮ることができない、つまり同じ話をしていないというのは、彼が謝必安という男についてよく知っており、そしてその思い出が尽きないということに他ならない。
 エミリーはちびちびと唇を湿らせるようにしてウイスキーの量を減らしていった。
 デミから、今日の治療の礼だと渡されたウイスキーボトルを目につくテーブルの上に置いていたのが失敗だったのかもしれない。
「あなた、お酒が好きだったのね」
 もう残り僅かなウイスキーのボトルを左右に振りながらかけられた質問に、范無咎は、はは、と歯を見せて屈託のない笑みを浮かべる。
「俺?俺か。仕事が終わった夜には、必安と一緒によく飲んだ。安酒だったが、必安と飲むだけで、どんなに高価な酒よりも良い一杯になった」
「謝必安も、お酒が好きだったのかしら」
「必安か。必安は、酒は。ああ、強かった。俺が飲み過ぎて足元がな、おぼつかないときは、肩を貸してくれて、家まで帰ったなあ。冬の酒はな、医生、店の外に出たら、ヒヤリと風が冷たく気持ちがいいんだ」
「そう」
「だがな、たまに必安も酔うことがあってだ。そんな時は、俺が背負って連れて帰ったこともあったんだぞ」
 あの時は、と范無咎は身振り手振りを添えながら、懐かしげに当時を語り続ける。
 酒精のためか緩んだ目元に、裏表のない純粋な好意の笑みを浮かべながら、男は今のことを語るかのように昔話を続ける。
「俺のような短慮な人間と共に在ってくれるのか不思議なくらいに、必安は優しく誠実で、賢く強い。それでいて大人びていて、しっかりしていた。なあ医生」
「ええ」
「必安は、いい男だろう」
 喉から出かけた言葉は、向けられていた金があまりにも柔らかく細められていたことから、空気を震わせる前に詰まってしまった。
 エミリーの返事を待たずに、もとより返答は求めていなかったのか、范無咎の言葉が途切れ途切れになりながら続けられた。
「俺は」
 そこまで呟いて、その手からウイスキーがまだ残ったグラスが落ちる。テーブルに中身が溢れる前に、柔らかな手がグラスを受け止めた。氷とグラスがぶつかって透明な音が補足響く。
 エミリーは膝にかけていた薄手のショールを范無咎の肩へとかけた。
 乱れた黒白の髪を指先で撫で付けるように整える。眠りこけているその表情は、酒の臭いさえなければ年相応の青年のように見える。
 エミリーは午前0時を過ぎた時計へと顔を移す。
「二日酔いはする方かしら」
「経験はありませんね」
 突如かけられた冷静な声音に、エミリーの両肩はびくりと大きく跳ねた。
 振り返れば、白を基調とした男がウイスキーグラスを手首からゆるく左右に振りながら眺めている。伏目がちに開かれた紫紺の瞳が稲穂の水に浮かぶ氷の中に、歪んで映る。
「止めてくださればよかったのに」
「お酒は強い方だと思っていたのよ」
 相方が酔い潰れるのを止めなかったことを突如責められ、エミリーは反射的に言い返す。
 ほぼ中身のないウイスキーボトルへと謝必安は手を伸ばし、手に持つと左右に振る。僅かにしかない中身が波打つ。
「まあ、強い方ではありますが」
「あなたが?それとも范無咎が?」
「私も彼も、よほど悪い飲み方をしなければ酔うことはありませんでしたよ。無咎はたまに、本当にたまにですけど、足元がおぼつかなくなることもありました」
 謝必安の言葉にエミリーは違和感を覚える。
「その言い方だと、あなたはそんなことがなかったと聞こえるのだけど。そう受け取っても大丈夫かしら」
「ええ」
「范無咎は、酔ったあなたを背負って連れて帰ったことがあったと言っていたわ」
「ああ、ええ。ありますね」
 平然と矛盾のある答えをした謝必安に、エミリーは一拍の後に納得して、首を縦に振る。
「あなた、酔っているフリをしたの」
「そんな悪い人を見る目で見ないでいただけますか、エミリー。裏表のない無咎の優しさを享受したかっただけではありませんか」
「私、以前あなたを子供のようだと言った覚えがあるのだけれど、まさか全部計算ずくっだったりしないわよね」
「そんなエミリー。私のような純真無垢の男を捕まえて酷いことを言わないでください。嗚呼悲しい」
「純真無垢な人間は、自分のことを純真無垢とは言わないものよ」
 肩にかけられたショールで弱々しげに身を包み、わざとらしくよよと嘆く細くはあるものの上背のある成人男性を前に、エミリーは頭痛を覚える。
 もう、と続けられた声に謝必安はショールをはずし、悲しげな表情もすぐに取り払って平然とした表情に切り変える。
 謝必安はウイスキーのボトルを逆さまにして乱暴にグラスに注ぎ切り、ぽた、と最後の一滴が溶けかけの氷の上へと落とす。そして、一気にグラスの中のウイスキーをあおる。
 喉を灼くような酒だというのに、平然として謝必安は話を続けた。
「いいではありませんか。無咎は面倒見がいいんですよ。誰に対しても」
「詰まるところ自分も面倒を見て欲しいと、そういうこと」
「何か問題でも」
 唇を窄ませて、不服であることを隠そうともしない表情に、エミリーは思わず米神を押さえ、うんざりとしながら言い返す。
「范無咎はあなたのことを、誠実で大人びていると言っていたけれど」
「それが何か」
「何か、ではないでしょう。あなたを思って」
「勿論、純粋に人を思いやることのできる。無咎のいいところです」
「あなたがそれを言うと、ああ、いいえ、もういいわ」
「口にしていただいて構いませんよ」
「狡い男」
 呆れ果てた視線と告げられた言葉を、空になったグラスを片手に謝必安は小首を傾げて反論なく受け入れた。
 三日月に開けられた瞳に、持ち上げられた口元が男の答えである。
「ええ、私は狡い男です。だからこそ、貴女を選んだのですから」
 本当に狡い男である。
 眉間に深い皺を寄せたエミリーの手に、謝必安はその細い、ともすれば折れそうな指を絡める。
 指先は指の腹をなぞり、付け根を軽く擦る。
「雨は嫌いです」
「そうね」
「でも、貴女の足を止めたあの雨には感謝しましょう」
 手首を巡り、その指は尺骨を辿る。
 うっとりと、恍惚さを滲ませた死者を悼む色が、室内灯しかない一室に鈍く光る。
「ねえエミリー」
 肩にかかっていたショールは床へと落ちた。
 腕を一周してあまりある手には、逃がさないとばかりに力が込められ、エミリーは痛みに僅かに顔を顰めた。
「一応聞くけど、酔っている」
「酔っていますね」
 欠片も酔ってなどいない返答をして、謝必安は強く掴んだ後の手を離した。掴まれた箇所は鬱血を伴い手のひらの跡が、指先の形までくっきりと残ってしまっている。
 謝必安は嬉しげに目を細めて、その後を指先で辿った。
「無咎に怒られてしまうでしょうか」
「彼が、あなたのしたことを本気で咎めることなんて、ないじゃない」
「手当、しないでくださいね」
「この程度の鬱血でできる手当なんてないわ」
「知っています」
 ふふと小さく笑った謝必安の頭をエミリーが撫でたことで、きっちりとまとめられた、先刻少し撫で付けてまとめた髪が崩れた。
 撫でられた意味を理解できず、目を一二度瞬いた謝必安に、エミリーはほんの少し微笑んで返した。
「しようのない人」
 濁流が過ぎ去った後の泥沼に足を取られた女はそう言って口元を綻ばせた。