傍観者

 梟が闇夜に鳴く。
 羽ばたきと共に擦れた葉が音を立てれば、鼠の末期の悲鳴が夜風を取り込む窓から飛び込んでくる。酒の肴には些か耳障りであった。
 木製の椅子が二つに、それに座る男が二人。
 片方は新月の夜を、もう片方は月光の眩さを溶かし込んでいる。腰から下まで絡みなく流れる髪は杯を傾ける仕草に合わせてつられて揺れた。普段身を守る武具は自室であることも加わり、双方共に身に付けてはいなかった。
 二人の前の机の上には、空になった一升瓶が三本とまだ中身の残っている同じ大きさの瓶が一本。それから二つの杯が丸い月を酒に映しながらそれぞれの前に置かれている。
 強めの度数の酒を飲み倒しながら、他愛もない話を交わす。
 謝必安がこの現状を知れば発狂しそうだと、謝将軍は手酌の杯を機嫌良く一気に呷る。
 しとしとと降り続く雨の中に佇み、発狂し首を括ることしかできない背中はいつ見ても鬱屈としており、存在そのものが不愉快である。手を伸ばせど届かず、魂の片割れを知覚することも自死の罰とばかりに叶わない。そうは言えども、あれが同じ魂を持つと言うのだから世も末と言える。
 苛立ちを酒で喉に流し込もうと、謝将軍は眉間に軽く皺を寄せて酒瓶へと手伸ばす。しかし、その指先が瓶へと触れる前に錫色が取り上げ、空になっている杯へと滑らかな酒を注ぎ込んだ。
「どうした、美味い酒に不愉快な顔は如何なものだと思うが」
「いいや、何も」
「何もなければ、そのような顔はしまい。なになに、どうした。この俺に言ってみろ」
「君の、そう言うところがだな」
「うん?どうした」
 杯を交わした義兄弟の顔に、謝将軍は言葉を詰まらせる。何もかも見透かしたような、まるで子供扱いをされているかのような感覚はいつまで経っても慣れるものではない。
 返事の代わりに注がれた杯の酒を一気に飲み干すことで返答とした。しかし、机に戻された杯に流れるように次の酒を注がれる。
「范将、」
「酒が足らんようだなぁ、兄弟。もう一二本いくとするか」
 性格が悪い。
 謝将軍はにんまりとほくそ笑んだ男へ、腹の中でそう叫ぶ。その中で、栗色の癖毛を白の帽子に纏め込んだ女の姿を思い出す。あの虎は、二言目には自分のことを性格が悪いなどと抜かしていたが、どう考えても目の前の男の方が余程悪辣である。並々と注がれた杯へと視線を落とし、謝将軍はそう思う。
「謝必安か?」
 分かっていながら、問いかけるあたりもやはり性格が悪い。
 謝将軍は無言を通した。口を開いても開かなくても、話の内容は決まっている。
「それとも俺の虎か?」
「私の虎だ」
 つい間髪入れずに反論してしまったが、すぐに失言であったことに気付いて口を噤む。玩具にされるつもりはない。しかし、その判断は言葉がすでに口から出てしまった後では遅かったようで、隣で腹を抱えた笑いが弾ける。
 酒盃を片手に人の発言を大笑いする姿は到底誠実とは言い難く、この男のことをそう表現した人間は皆どいつもこいつも盲目である。
 謝将軍は、肩を揺らしながら笑いを部屋中に響かせる男を横目で見ながら、苛立ちまぎれに次の杯を呷り屈辱を紛らわせた。隣ではまだ笑い声が弾けており、次第にそれは腹筋の痙攣と共に引き攣るものに変わっている。横目で見れば、体をくの字に曲げて全身を笑いから震わせている。笑いすぎで息の根が止まればいい。
「ひっ、ふ、く、すまんすまん。君の虎か。うん、そうだな」
 笑いながらも瓶の口を差し出している范将軍に謝将軍はじと目を向けつつ、杯を差し出す。
 注がれた酒を傾ける。
「嫌われているのに?」
 続けられた言葉に、謝将軍は食道ではなく気管に入り込んだ酒にきつく咳き込んだ。
 その様に、范将軍はさらに腹を抱えて笑う。とうとう、杯の酒をこぼしそうになり、その錫色の手から杯は机の上へと戻され、開かれた手のひらは平らな木製の板を叩く。笑いすぎて死ぬのではないかと誤解を生むほどに笑い続ける。
「無咎」
「いや、ヒ、ふふ、ふは、すまん。はっ、はは」
 堪えきれずに険を含んだ声で警告と共に呼べば、ようやく笑い声が収まりを見せ始める。もっとも笑い声は収まれど、その目はまだ十分に笑っていた。
 はあ、と范将軍は息をついて、しかし必安と続ける。
「この間なぞ、君に代わるなとまで言われたぞ」
「それは」
 謝将軍は言葉を詰まらせる。かちあった視線を横へと逃し、それは、と繰り返す。
「あれが私を、」
「うん」
「…楽しんでいるだろう」
「うん」
 はは。
 范将軍は笑って酒を呷る。
「楽しい。とても、楽しい」
 錫色の中、三日月に細められた白金に、謝将軍は腹の底を撫でるような、足の裏をぢりと焼くような不安感に口端をわずかに痙攣させた。それは、呼び起こされた本能的な警戒心からである。
 今ここにある面を見れば、あの虎とてこの男に不用意に近付くことは無くなるだろう。
「ああ、いかんいかん。すまんな、将軍」
 謝将軍の口端の動きを見てとり、范将軍は顔を一度広い手のひらで覆い隠し、その手を除ける。そこには穏やかな、魂の片割れを揶揄うお節介な色しかない。
 これだから。
 謝将軍は、目元を引き攣らせた。
「性格が悪いという」
「俺が?なに、虎には真摯で優しいと言われてる。いいだろう。羨ましいか」
「羨ましいものか」
「ほーぅ、羨ましくないか」
「ろくに抱いてもいない男の言葉だな」
「まあなあ。抱いては、うんそうだな。ああ、全くその通りだ、将軍。そう、抱いてはおらんぞ」
 言葉を重ねれば重ねるほど敗軍の将になる予感しかせず、謝将軍はとうとう口を噤んだ。
 美味い酒を嗜んでいたはずなのに、言い負かされた不味い酒になってしまった気分にしかならず、謝将軍は手酌で酒を傾けた。手酌などつまらんことをするなと隣で穏やかに語りかける声すらも自尊心を小さな針で突かれている気がする。
 右手に酒瓶を、左手に杯を持ち、一人で手酌で酒を呷り続ける。隣から注がれる視線と喉を鳴らす声に、酒を注ぐ手は止まらない。
 しかし、その手を止める音が、正しくは声が扉を叩く。二人分の、四つの視線が木製の扉へと注がれた。扉は開かず、まずは言葉が続けられた。声の主は先を見通す、人ならざる力をその目に宿し、梟を供にしている男のものである。
「夜分遅くにすまない、白黒無常。頼みがあるんだが、扉を開けてもらえないだろうか」
 謝将軍は視線を逃していた相方へと視線を合わせ、その後に扉へと声を向けた。
「何用だ」
「開けてもいいだろうか」
「刻も礼儀も捨てたと見えるが、まあいいだろう。許す。開けよ」
 音に若干の不愉快さを混ぜつつも、負け戦になりかけたところに差された水に謝将軍は運の良さを感じながら、平静に返答を投げる。扉はゆっくりとした動きで、内側へと開かれた。
 頭の被り布は肩に落とされ、目隠しの下から覗く男の頬と耳は赤らんでいる。ついでに言うならば、酒臭い。イライは、ありがとうとまず礼を口にする。
「迎えに来てほしい」
 なんの脈絡のない依頼に、謝将軍は眉間に深い皺を寄せる。
 その表情を見てとった、見て、と言うのは些か語弊があるかも知れないが、イライは胸に片手を添え、右手を軽く持ち上げた。
「すまない。僕もお酒が入っていて、ああ、ええと、そう。先生を迎えに来てほしい。今日は皆随分と楽しんだようで、いつもなら力仕事はナワーブに頼むところなのだけれど、今日は彼の足も覚束ない。まあ正直な話、下手に運んで翌日のゲームに八つ当たりをされてはたまらない」
「お前達の酒は、舌も何もかもいらんと見えるな」
 険呑な空気を含んだ謝将軍の言葉も、イライはどこ吹く風と言った様子で意に介さない。
 それで、と続く。
「どちらが来てくれるのだろうか」
「我らが行く必要などあるものか。その辺りに転がして」
「では俺が行くかな」
 横柄な返事をしかけた謝将軍の手は、隣で立ちあがろうとした男の肘にかけられる。
「わ、」
 その言葉を口にすれば、本日の酒の席の勝敗は決する。
「私が、行く」
 苦々しく、謝将軍は項垂れた。

 視線の先で、ワインボトルを抱え込み、にへらと緩み呑気な顔をして笑う女の頭を傘の先端で突き飛ばしてやりたい衝動に駆られつつ、しかし我慢することなく、謝将軍はエミリーが座る椅子の足を蹴り飛ばした。
 椅子が転げた勢いの方が強く、エミリーはより体重のかかっていた上半身テーブルの上にしなだれながら、尻餅をつくと床へと落ちていく。
「少し、飲みすぎたみたいで」
 酩酊どころか泥酔である。
 ずるずると床へとワインボトルを抱えたまま転がるエミリーの顔は全く幸せそうである。
 つい先ほどまで苦い酒を飲まされていたことを思い出し、なお癪に触る。謝将軍は、ワインボトルを椅子同様に足先で蹴り飛ばすと、足の腹を使って、エミリーの体を仰向けにさせる。頬どころか、首筋まで酒の影響で真っ赤になっている。息苦しかったのか、自ら緩めたであろう胸元の白すら火照り赤を晒け出していた。
 謝将軍は上半身を軽く折ると、長い手を伸ばし、緩んだエミリーの胸倉を乱暴に掴み持ち上げる。首は赤子のように座っておらず、ガクンと後ろへ倒れた。胸元を支点に持ち上げられおり、尻こそ床にはついていないが、足は中途半端に引き摺られていた。
「これを持ち帰ればいいのか」
「助かるよ、謝将軍。いやでもその運び方はちょっと心配だから、ちゃんと抱えて連れて行ってほしい」
「注文の多い。来てやっただけで感謝しろ」
 苛立ちから舌打ちをしながら、謝将軍はイライの言葉を受けてエミリーを片手で抱え直す。くたり、とその体は抵抗なく高い位置で預けられた。酒臭い。普段からこの程度素直であれば、多少優しく愛でてやろう気にもなる。
 しかし、謝将軍の感情は耳元で発された言葉に砕かれる。
「や」
「なに?」
 脱力した首がぐるりと回り、酔っ払いの目がうすら開く。体が起こされ、いや、と小さな手が振られペチペチと肩と頬を弱々しく叩く。
「きらい」
「無駄口すら叩けんようにしてやろうか」
「そ、ゆとこきらい。おうへい」
「横柄なのはお前だ」
「いじわる」
「わざわざ迎えに来てやっているだろう」
「ん…それは、ありあと」
 唇を尖らせ、頬を膨らませながらエミリーは酔っぱらいよろしく手の動きを止めた。
 このままの高さから落としてやろうかという考えが謝将軍の頭を一瞬過ぎったが、実行に移すことはせず宴会場から歩を進める。酔っ払いの相手をするほど寛容ではない。
 大股で最短距離を歩く謝将軍の射干玉をエミリーの手が引っ張る。目はとろんと落ちており、ほろほろと考えのない言葉がエミリーの口からこぼれていく。
「あなた、いつもわたしにいじわるだわ。いやなのは、や」
「私がいつ意地の悪い真似などした。お前の受け取り方が問題なのだ。私が与えるもの全て泣いて喜べ」
「いつも。いつもよ。でもいじわるじゃないの、だったら、いいのよ。しょーぐん」
 ね、とエミリーは真っ直ぐに前を向く頭を抱えて、上半身の力を抜いてしなだれかかる。片手の指は左右に動く黒絹を弄ぶ。ふふと頭の少し上で、鈴を転がすような笑いを謝将軍は聞く。表情こそ確認できないが、それは穏やかに微笑んでいあるであろう声である。自由な足が振り子のようにゆらゆらと前後に揺れた。
 呼びかけた名前は喉元で止まる。
「やさしいのは、すき。しゃびあんも、ふぁんうじんもやさしいわ」
「范無咎はまあいいだろう。だがアレのどこが優しいというのだ。あの歪んだ男のどこが」
 酔っ払いと非生産的な会話をしている自覚はあれど、謝将軍は暇を持て余し返事を続けた。どうせ、翌日になればこの酔っ払いの頭からは内容は消えている。
「しらないの」
「ああ知らんな。知りたくもない。良いところなんぞついぞ思いつかん。アレは、」
 汚点だ。
 それが音を帯びる前に舌ったらずな声がころりと跳ねる。
「やさしい、のよ」
「くだらん。答えになっとらんな」
 溜息混じりにそう告げた謝将軍は、軽い痛みを頭に感じる。髪の一房を強く引っ張られている。
 仮に酔っ払いであろうとも許容範囲というものがある。足を止めると声に苛立ちを混ぜ、謝将軍は眦を吊り上げた。しかし、それは警戒心のない笑みによって毒気を抜かれる。
「やさしいあなたなら、すき」
 喉を詰まらせ、きまりが悪そうに視線を正面へと戻す。
 止めた足を前へと進め始める。したり顔の男を思い出し、謝将軍は口をへの字に曲げた。
「優しかろうが。私は」
 そう告げるのが精一杯だった。