好奇心

 水の礫が窓を叩く。
 久しく聞いていない音にエミリーは顔を上げた。
 暗がりの中の礫を視認することは難しく、窓ガラスに当たっては滴り落ちていく道に雨が激しく降っていることを知る。机の上に広げていたカルテの端を乱雑に揃えて、下を板に軽く叩き落とすことで丁寧に整た上でファイルに戻す作業を幾度か繰り返し、エミリーは薄手のカーテンを両側に引いた。
 早朝は霧が薄くかかっており、日中は雲ひとつない快晴であった。故に、今宵の雨は想定していなかったものの、本日の試合はすでに終了しており、後はそれぞれ、ハンターもサバイバーも自室で瞼を閉じるのを待つだけである。
「大丈夫かしら」
 その対象は、なんの先触れもなく私室を訪れる二人で一つの体を共有するハンターである。白黒無常。
 思い起こせば、と雨を遮るように薄手のそれから手を離し、タッセルを緩めて厚手のカーテンで窓を隠す。十分に厚みのある布は、外から叩きつけるように響く雨音を僅かながらに遮り、小さなものにする。
 初めて出会ったのも、このような雨の日だった。
 エミリーはそう振り返る。
 廊下に続く扉へと視線をやるが、そこに人の気配はない。足元を見ても、そこに水面の如き揺らぎはない。
「大丈夫、かしら」
 同じ言葉を無意識に繰り返す。
 一人になりたい時もあるのだろうが、雨が降っている時の彼は、特に謝必安はひどく不安定で、エミリーとしても目の届く範囲に彼がいないことに言い知れぬ不安を覚えた。そわりそわりと撫ぜるような正体不明の感情にエミリーは椅子に掛けていたガウンを寝衣の上に羽織る。爪先は自然と廊下へ続く扉へと向いた。
 天井まで伸びる大きく長い窓にカーテンはなく、晴れの日は採光に最良なのだろうが、雨の日はただ陰鬱な、光ひとつない外の暗闇だけがガラスの向こう側で口を開けているようにすら見えた。叩きつける水滴は外の暗闇すら塗り潰している。
 ふと、エミリーは人の気配を感じ取り、足を止めた。
 真っ直ぐに伸びた回廊の先に、誰かが佇んでいる。長い廊下の壁に灯りは点々とついているが、その間隔は広く、外の暗さも相俟って薄気味悪さを覚える暗さである。その黒が深いところ、しかし人影は、その輪郭がようやっと確認できる場所に、誰かがいる。長く細く、高い。まずサバイバーは除外される。ハンターであれば、リッパー、白黒無常、それからヴァイオリニストである。ヴァイオリニストであれば、その長髪が意思を持って末広がりにうねっているはずなので、最後の可能性は除外できる。
 ならば、リッパーか、白黒無常である。
 エミリーは一歩、さらに近付いた。激しい雨音で、足音は消されている。生憎と、エミリーはリッパーとはそこまで良好な関係を築けているとは到底言い難く、むしろ、口が裂けても言えない秘密をその鋭い爪先で転がされているような間柄である。
 腹を切り開くという行為を同一視している、あの切り裂き魔とそれについて深く語り合うだけの勇気は、エミリー・ダイアーにはまだなかった。
 最初の彼は怯え蹲っていた。
 ただ、眼前の影はただただ佇んでいる。不安もなければ、怯えすらない。で、あればあの霧の街を騒がせたリッパーなのだろうかと問われれば、直感で言えば、エミリーは頷くことができなかった。違うのかと言われれば、それを否定するだけの材料はまだない。はたまた、よく知ったかのハンターなのかと問われれば、それもまた違う気がした。
 回廊の先には食堂がある。声をかけたのは自分からだった。
 しかし、今日のこの夜、先に声を発したのは暗がりの影だった。
「薄着の女が出歩く時間ではないぞ」
 帰るといい。
 声はそう続けた。どこか聞き覚えのあるそれは、普段聴いている声よりもほんの少し低くそして抑揚が少ない。
 刹那。雷鳴が轟き、同時に煌々と一瞬だけ照らされた回廊に立つ影に鮮明な輪郭が与えられる。
 黒のハンチング帽に、曇を模した青を基調としたシャツ。すらりと伸びた脚はサスペンダーにかかった細身の洋ズボンに収まっている。所々に笹の葉をあしらったポイントが洒落て、目を引く。それだけを捉えれば、美丈夫で済むのだろうが、黒のガラスを嵌めた丸眼鏡が例えようのない不審さと、そして胡散臭さを滲ませている。
 すぐに消えた雷光の中で、エミリーはよく知った髪色を目に留める。それは謝必安の、というよりは、どちらかといえば東風遙の、范将軍を彷彿とさせる。透けるような銀の絹糸は緩く後ろで結えられている。顔面は鈍色の雲に覆われていた。
 その佇まいから、彼が白黒無常であるという答え合わせになり、エミリーはわずかに安堵を覚える。少なくとも、女の腹を裂くことについて談義する必要はなさそうである。
「あなたは」
「俺の話を聞いていたか」
「ええ、それは。でも、そう。危害を加える対象に忠告する人はいないわ」
 一歩前に踏み出そうとしたエミリーに、范無咎であろう男は苦々しげに眉根を寄せて、口を開いた。開きかけ、しかしそこから先の言葉は、さらに奥の暗闇から溶け出した声に食われてしまう。
「アナタならそうすると思っていましたよ」
 ぬるりと夜の中から射干玉の黒が音もなく現れる。白く整えられた指先が、青の肩に乗せられ、まるで蛇を彷彿させる動きで佇む男に絡みついていく。
 また二人、である。
 エミリーは鎮魂歌の時も見た、二人が同時に存在する奇妙な光景に、一歩前に踏み出した足を下げた。怯えを見せたエミリーを他所に、闇夜の色を被る男は真逆の銀を指先に遊びながら、よく聴き慣れた名前を繰り返す。
 無咎。ああ、無咎。
 響きこそ同じなれど、そのねっとりとした口調と、若干の揶揄すら含む声音は、エミリーがよく知る彼のものではない。エミリーは最もよく知る同じ名前を持つハンターは、彼のことをもっと、そう、縋るように、或いは赦しを乞うように、まるでその名は侵すことの許されない神聖さを帯びているかのように、高潔な、触れることすら許されないと言わんばかりに、かのハンターはその名を呼ぶ。
 柳のような体は、同じように細い体躯の、しかししっかりとした体幹のそれにしなだれかかる。持ち上げられた両の口角で、美しい三日月が下げられた。
「こちらへどうぞ、お嬢さん。もとより、食堂にご用があったのでしょう?」
「食堂に、というわけではないの」
 警戒心を露わに、さらに一歩下がって離れた分だけの女との距離を、木に絡められていた長い体をゆるゆると解きつつ、地面を這うようにして黒い男は一歩踏み出す。長い足は、女の下げただけの距離をたった一歩で、苦もなく間に詰める。
「必安」
 その行為を咎めるように名を呼ばれ、前方にかけかけた体重を男は止めて首だけを後ろへと向ける。口元に刷かれた笑みは一切崩れることはない。
 ンフ。
 そう、男は鼻で笑う。そして、一度は後ろに向けた視線を元へ戻し、エミリーと目線を合わせる。
「そう警戒しないでくださいな。東風遙の彼のように乱暴にはしませんし、鎮魂歌の二人みたいに手篭めにしようなんて、そんな心無いことは欠片も考えていませんから」
 にこやかな笑みを浮かべたままで、滑らかな動きでエミリーの肩へと手を回す。体格差故の大きな掌は、その小さな背を翼のように覆い隠し、暗がりの中へと誘い込むように押し出した。
 押し出された先には食堂へと続く扉があり、滑らかな動作で開かれたそれはまるで蛇の大口である。明かりの灯されているはずのその一室は、なぜか薄暗い、それどころか胃に続く食道のような印象すら与えている。
 しかし今更後退する選択肢は残されておらず、エミリーは言われるがままに蛇の口蓋を抜け、腹に足を踏み入れる。二人分の足音がそれに続き、扉の閉まる音だけが雨音に混じって落ちた。
 木製の簡素な作りの椅子が引かれ、座ることを暗に勧められる。しかし、エミリーは引かれたそれに座れることなく、椅子を引いた人物を見上げた。
「あなたたちは誰なのかしら」
 口に出された言葉に、男はゆるりと目を細めて、椅子の背もたれに軽く体重をかける。床板がわずかに軋んだ音を立てた。
「ワタシたちは白黒無常であって、それ以外の何者でもありませんよ」
「ああいいえ、言い方が悪かったわ。あなたたちは、ええと、東風遙や鎮魂歌、そういう名前で言えば、なんという存在なのかしら」
「血滴子、ですね。そういう意味でしたら。ただまあ、名前は同様ですからそう呼んでもらえたら。ワタシの方が、謝必安。アナタが先に出会ったのが無咎」
 髪色は逆ですけれど、と続けられる。
 引かれた椅子にエミリーが座る様子が見られなかったことから、謝必安は代わりにその椅子に腰を下ろすと、その長い脚を組み頬杖を付く。范無咎は最後に言葉を発して以降は、一切の会話をせず、黙ったままに空いている椅子に腰掛けた。
「ホットミルクをいただけます?」
「構わないけれど…随分と可愛らしいものを飲むのね」
「いいえだって」
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、小さめの鍋に三杯分注ぎ火にかける。
「アナタが、ワタシたちに最初にくれたものでしょう」
 鍋の縁に泡が立つ前に響いた言葉に、エミリーは勢いよく振り返る。目を数度瞬き、頬杖をついた男を凝視した。
 確かに。確かに、とエミリーは振り返る。あの雷雨の日が、まるで昨日のことのように思い起こされ、眼前の景色と被る。
「蜂蜜。入れていただいても?」
「え、ええ」
「無咎のものには、入れなくて構いません」
 鍋から湯気が立ち始め、長いスプーンで一混ぜしてから、マグカップへと牛乳を移していく。注ぐカップは、白と黒、それから緑。かつてのように、そうだと思え返しつつ、白いマグカップをハンターの前に差し出す。当時と違うこと言えば、二つのカップそれぞれに渡す相手がいるということだろうか。
 立ったままというわけにもいかず、エミリーも椅子に腰掛けてマグカップに口をつけて一口飲む。それを見届けて、その行為は意図的なものなのか否か判断がつかなかったが、謝必安は彼のように口に含む。ただ、その所作はエミリーがよく知る謝必安のものではなく、視線をガラス越しにエミリーへと固定したまま、ホットミルクを口にした。居心地は、決して良いものではない。
 足元から這い上がるような不安感に襲われつつ、エミリーは沈黙を守った。それを先に破ったのは、先程から一人楽しそうにしている男である。
「そう警戒せずとも。先刻も伝えたとおり、ワタシたちはアナタに危害を加えるつもりは全くありません。それに好みではありませんし」
 整えられた指先がマグカップの縁をゆっくりなぞっていく。
 と、いうよりも。謝必安はしたり顔のままに続ける。そして、目の前に人差し指と親指で小さめの円を作って見せた。
「むしろアナタで賭けた方がとても楽しい」
 守銭奴すら匂わせる景気の良い笑顔に、エミリーは毒気を抜かれながら口元を軽く引き攣らせた。口にされた内容がいかばかりか不穏であったが、追及するほど愚かでもなかった。ただ、ちろりと薄い唇の隙間から覗く赤にばかり目を引き寄せられる。
 全ての彼らが自分に興味があるというのは思い違いも甚だしいことである。僅かながらにもそのような考えが脳裏をよぎり、警戒すらしていた事実をエミリーは恥じる。何より単純に恥ずかしい。顔に集まった熱を冷ますために、指先を揃えて顔を扇いだ。
 ホットミルクを口にしながら話題を変える。
「私は、あなたたちは、白黒無常は互いに会えないものだと思っていたけれど、違ったかしら」
 謝必安の話ぶりからして、血滴子は互いの存在を認知していることは、その立ち振る舞いからも間違いない様子だった。
 エミリーが知る白黒無常とは、根本的に互いに相見えることができないものである。傘で互いの魂を入れ替えながら、存在だけはする魂の残滓を眺めて首を落とす。一部例外として、鎮魂歌だけは同時に存在しているのを記憶していた。
 その問いかけに、謝必安は范無咎へと視線を一度移し、それからエミリーへと戻す。
「どのワタシたちに会ったことがありますか」
「東風遙に鎮魂歌だけかしら。あなたたちを含めるなら三つよ」
「霜寒と月日はまだ」
「ええ。そもそも最近は謝必安たちが他の誰かに替わっている話を聞かないわ」
 そうだ、とエミリーは振り返る。
 以前は他のゲームに出たサバイバーから、ハンターのいろいろな衣装について聞くことがあった。勿論、今でも他のハンターについては衣装の話についてはよく耳にする。ここ最近であれば、ジョゼフが新しい衣装と携帯品で椅子を豪華にした話などを耳にした。しかし、謝必安ら、白黒無常については他の衣装については全く耳にしない。少し前であれば、マーサが東風遙について語っていたことは記憶に新しい。
 意図的に替わっていないとしか考えられない。
 ははあ、と謝必安はさも愉快げに喉を慣らして笑う。
「まあ、互いに会えないというのは基本的に死因に関連してますし、ワタシたち血滴子、それから鎮魂歌については問題ないんですよ。そうですね、他には、ああ、東風遙もそうなんですけど、彼らはあまり一緒にいようとしませんね」
「え」
 不吉な言葉を聞いて、顔を引き攣らせたエミリーに血滴子は天井を仰いでけたけたと高笑いを響かせる。
「謝将軍と范将軍は同時に存在できるの?」
「試合中は流石に不可能ですが、荘園内ならば。面倒なのか、あるいはそういう気分なのか。彼らは我儘と言いますか、ご自分が法律みたいなところありますから。霜寒にはまだお会いしてないようですけど、彼らも一緒にいられますよ。まあ、霜寒は他のワタシたちより一等無口で無愛想なので、会ったところでという話です」
 流暢に話し続ける謝必安の口調は、よく知るそれであるが、やはり声のトーンや話ぶりに違いはあり、同じ謝必安であれど、彼は「血滴子」であるとエミリーは再認識する。
 雨は少し弱まり、叩きつけるような音が遠ざかる。まだ温かなマグカップで指先を温める。
「反対に、会えないのは誰なのかしら」
「あなたがよく知る白黒無常がその代表格でしょう。他は、その性質上、月日と眷属ですね。月日は顔を見せれば顔を隠す位置関係なので。眷属は存在自体が裏表ですから。後、付け加えておきますが、雨が怖いのは謝必安だけです」
 半分ほど中身を飲んだマグカップをテーブルへと戻し、謝必安は薄ら笑いを浮かべる。謝必安ではない、黒の艶やかなそれが色のついたガラスにかかり、不穏な空気を醸し出す。
 范無咎が雨を恐れていないのは、エミリー自身、以前本人から聞いていたので、驚くことではないが、血滴子のその言葉には単純に驚いた。しかし、その驚きはすぐに納得へと姿を変える。謝必安が雨を極度に怖がるのは、范無咎を雨に飲まれて失ったからである。他の白黒無常の死因に雨や水が関わっていないのであれば、むしろ他が雨を恐れるのは全くおかしな話である。
 一人思考を巡らせているエミリーの考えを妨害するかのように、今まで黙っていた男が静かに口を開いた。
「必安。もういいだろう」
「そう言わず。無咎、折角ですから。それにワタシたちについて何も知らないのは、彼女にとっても公平ではない。全てが出揃った上で、彼女がどの選択をするのかを賭けるのが面白いんじゃありませんか」
「君という奴は」
 あからさまな溜息を落とした范無咎に、エミリーは目を数度瞬いて見せる。
「さっきから賭けの話をしているけれど、何の話をしているの」
「ああ。あなたがどのワタシたちを選ぶのかという話ですよ。ワタシ、無咎と賭けをしているんです」
 いや、東風遙も捨てがたい一本なのですけれどと、至極楽しげに語る男が一体何を言っているのか、エミリー・ダイアーが理解するのには数秒を要した。そして、その言葉の意味を正確に理解し、頭を抱えた。そして呆れ果てた。
 先程の范無咎の溜息など嘲笑うかのような深い溜息を零し、エミリーは両肩をがっくりと落とす。窓ガラスを叩く雨音はいつの間にかひどく小さいものに変わっていた。
「あの謝必安が、とは思いましたが。なかなかに必死に足掻いている様が可愛らしくてついつい応援したくなっちゃうんですが、ここは誰様俺様東風遙様な将軍組の暴挙も見ていて面白いんで」
 なんとも形容し難い表現で、あの東風遙を表現する男である。
 エミリーは口元に手を添え、しかし自身の意見を口にした。
「謝将軍はそうね、自分本位なところが強いけど、范将軍は人の立場に立ってものを考えられる人だと思うわ」
 一拍。
 一拍の後に、食堂内にはじけた笑い声が響き渡った。椅子に腰掛けていた男が喉をそらして大声で腹を抱えて笑う。喉まで開けたその笑い声は雨音さえも散らすほどの声音で、先程のエミリーの発言を笑うものだから、エミリーは訳もわからず、しかし馬鹿にされているようで気分は良くない。
 謝将軍も范将軍も付き合いはあるが、その見解は間違っていないと思う。エミリーはそう感じていたが、これだけ笑われると不安を覚えた。
 笑いすぎたことで、とうとう咳き込みながら謝必安はエミリーへと話しかける。
「范将軍が?は、アハハ。ヒヒ、ああアナタお嬢さん。いえ、謝将軍についてはまあまさにその通りでしょうけど、范将軍がフフ、」
「そんなにおかしなことを言ったかしら。その、范将軍は私の話をきちんと聞いてくれるし、聞いた上で私の意見を尊重してくれるわ。ねえ、あなたが言っている范将軍は東風遙の范無咎で間違いはないのよね」
 記憶にある男をここまで笑うのだから、もしかすると別の人物を言っている可能性を考慮して、エミリーは未だおかしくて笑い続けている謝必安へと問いかける。
 けれど、エミリーの問いかけに謝必安は間違いない旨を答える。
「范将軍はええ、東風遙の黒無常です。ああ、しかしヒ、クフ。お嬢さん」
 エミリーの前に細い人差し指が突きつけられた。その奥で、黒い丸眼鏡が二つ、揃って浮かんでいる。
「謝将軍を猛虎とするならば、范将軍は古龍ですよ。人畜無害などととんでもない」
 そこまでは言っていない。
 けれど、意思を尊重してくれる以上、害はないとエミリーは思っていた。それを根底から覆すような発言に思わずなんと言うべきか、言葉に迷う。
 黙ったままのエミリーに謝必安は、口元だけに笑いを湛え、会話を続けた。
「触らぬ神に祟りなしとは言いますけどね。龍虎は触らずとも障れば容易く口を開いて獲物を食い殺す生き物です。特に龍は目を瞑っているからと言って迂闊に近づくものでは決してない」
「それは、その」
 真意をうっすらと察しつつも、言葉とした形で欲したエミリーの問いかけに、しかし謝必安が答えることはなく、話の筋を元に戻した。纏う雰囲気すらも、元に巻き戻す。
「ちなみに無咎は可愛らしいワタシ推しらしいですよ」
「推し」
「そう、推し」
「やめろ。大体、最初に見つけたのはあの謝必安だ」
 会話の内容に最初に耐えきれなくなったのは范無咎であり、中身を飲み干したマグカップの底を乱暴にテーブルへと叩きつけた。その様に、謝必安は蛇のように体をしなやかに動かしながら、テーブル越しに相方との距離を詰める。
「オヤ、ではアナタワタシが最初に唾をつければ応援してくださいました?」
「彼女は君の趣味ではないだろう」
 その言葉に謝必安は笑みを深めて、自分の椅子に大人しく戻る。
「ンフ、よくご存知で。マ、軽い興味くらいはありますがね。それにどちらかといえば、お客さんの方ですし」
「お客さん」
「ええ。お客様」
 つまるところ、と謝必安は長い足をゆったりとエミリーの前で組み替え、その細長い体躯を椅子の背凭れに預ける。それだけで、先程までの気安い感じが一瞬で取り払われ、纏う気配が一気に不穏なそれに切り替わる。目が、違う。
 鎮魂歌のそれと、よく似ていた。
 エミリーは音を立てぬように唾を飲む。
 色ガラスの奥の白磁の、まるで義眼のようなそれに一滴だけ垂らされた血の朱は、纏う気配をより一層不穏なものにしていた。声のトーン自体は決して低いものではないのに、その声は床を這うように体に纏わりつく。
 私は、と薄い唇が動く。
「ワタシたちは、人様には到底言えないようなことを生業にしていたんですよ。お嬢さん。アナタ方が思いつくような悪いコトはあらかた経験済みです。ですから、ココでの生活は少々退屈が過ぎていたんですが、ねえ」
 白磁の内に付けられた朱色が視線を合わせてくる。蛇に睨まれた蛙という表現ほどしっくりくるものはない。エミリーは身動きひとつ取れなかった。
「あの慚愧の念の塊のような幽鬼が、と驚きで。フフ。とても、興味深い。ねえ、お嬢さん。アナタ、あれのどこがよかったんですか」
「もう、失礼、するわ」
 カラカラに乾いてしまった喉がへばりつき、声が軽く裏返る。どうにか椅子から立ち上がり、空になったマグカップを流しに置いてエミリーは逃げるように食堂の扉へと走る。
 鎮魂歌とは異なる、不気味で、内腑を静かに音もなく腐らせていくような悪意に肌が粟立つ。
「夜も遅い。お送りしましょうか、お部屋まで」
「いいえ。気持ちだけで、十分よ」
 振り返ることもままならず、エミリーは食堂の扉を押し開けた。長く伸びた回廊が視界に飛び込む。窓ガラスを叩きつけるように降っていた雨は既に止んでいた。チロチロと動く朱に食われる前に、エミリーはそこを走って後にした。

 空になったマグカップを眺め、謝必安は口に残った優しい味を反芻させる。
「わざとだろう、必安」
「サテ、どうでしょうね。無咎、ホットミルクもう飲んじゃったんですか」
「君ももう飲み干したろう」
 そう言いながら、范無咎はテーブルに残っていた空のマグカップを二つ手に取り、流しに戻す。
「美味かったか」
 問われた事実に一拍を持たせ、謝必安は両の口角を大きく吊り上げて三日月を作った。悪い顔だと范無咎は思うが、それに対して何らかの感想を述べることはしない。告げたところで、片割れの何かが変わるわけではなく、さらに言えば、自分とて同じ穴の狢なのだから詮無いことである。
 転がすような音が喉を揺らし、そして血滴子は不敵に、三日月を三つその顔に添えた。
「それなりに」
 引っ掻くような声は、蛇の食道から逃げ出した蛙に絡みつくことはなかった。