救世主妄想

 衣装によって人格が入れ替わることがある。
 特にその背景や名残が衣装に深く関わっている場合などは、それが顕著に現れる。反対に、意識が引っ張られるだけで、例えばより残虐な思考に偏るなど、自身の人格が入れ替わらない衣装や、衣装だけが変わり、人格そのものは変わらないこともある。
 范無咎は自身が持っている衣装を眺めた。
 この荘園は奇妙なもので、知りもしない家具の使い方やはたまた摩訶不思議な現象がさも当然のように起こる。眼前に並べられた衣装もそれである。衣装、というのは正しくない。自身の前に並べたカード、それぞれの、魂は同じ、しかし在り方が異なる自分達が様々な衣服を纏い立つ姿が写っている、を眉間に皺を寄せながら眺めた。
 カードを選択すれば、その衣装に着替えることができる。新しい衣装が、人格を変えるものかどうかは、それこそ着替えてみなければ分からない。
 手元に並べられたカードは多々あるものの、銀枠、金枠のカードは今の所全て人格が入れ替わってしまう。
 それを范無咎は全く、それこそ一欠片も好ましく思っていなかった。
 金枠の三枚のうち、一枚を弾く。
 通常選択しなければ変わることのない衣装であるが、金枠はその希少性からか、或いは元の人格が強いのか意識を持っていかれることがある。弾いた一枚のカードはまさにその傾向が顕著に見られるカードであった。黒と白銀の髪を持ち、戦衣装に身を固め、金の梅花を散らしながら、不敵な笑みをその口に浮かべている。
 衣装の名は「東風遙」。
 二度と変わるものかと、范無咎はそう決めていたが、しかし意識を強制的に持っていかれたのでは抵抗のしようがない。百歩譲って、范将軍の方は自己の全力を持ってすれば、どうにか主導権を握ることができることが判明したが、余程余力を残してる時でなければ不可能であるのは、以前実際にやってみて骨身に染みた。
 無理矢理変わったあの日は、全く、全く使い物にならなかった。少し休めばなどと大口を叩いたが、結局ようやっと立ち上がれたのは昼過ぎで、自室に戻る足はおぼつかず、医生のあの小さく細い肩を頼りに立ち上がるも、結局途中で出会ったベインに肩を貸してもらってどうにか自室に戻ることができた。
 他の在り方から強制的に主導権を握るということが、これ程のこととは、范無咎自身想像にもよらなかった。それでも、譲れない時はある。
 そして懸案事項である謝将軍では、変わることもできない。しかもあの男は、視覚や聴覚といった五感を共有することを他の魂に許していない。
 弾いたカードを手に取り、上下に引き裂こうと力を込めるが、思い直してカードを元の場所に収める。棄損できるようなカードでは、元からありはしない。そんなことは范無咎も重々承知していた。願わくば、次に何かすれば破り捨てるという意思を持っているということが、あの男に伝われば良いと願ってやまない。
「必安とは大違いだ」
 魂を同じくするというのに、と范無咎は独り言つ。
 范無咎が知る謝必安は、あの男のように高慢でもなければ乱暴でもない。礼節を知り、謙虚で他者に優しく、賢く穏やかで、できた、誰よりも素晴らしく、何者にも変え難い友である。
 そこまで思い、范無咎の指は自然と顎下の縊死の跡をなぞった。今の自分にその痕は無く、傘で水に沈めば自戒の念のように浮かび上がってくる。自責の念に苛まれる友人を、ただ見ていることしかできない自身に、范無咎は言葉には形容し難い悔恨を抱えているが、しかしそれは先に彼を残して、残された側の気持ちなど考えずに水に呑まれて死に、友を死に追いやった己に相応しい罰なのだと、叶うことならその死に陥れた己の心臓に剣を突き立てたいと願うばかりである。
 もっともこの身はすでに命尽きており、今更死ぬも何もない。
 深い溜息をこぼしかけたちょうどその時、タイミングよく扉を叩く音で、范無咎は顔を音のした方向へと向けた。
「入っていいかしら」
 扉の向こう側からかけられた、柔らかな女の声が誰のものであるのか、范無咎は扉を開けずともすぐに承知した。
 その声は、嵐のあの日に蹲る友にかけられたものと同じものである。
 奇妙な間柄になったものだと、しかし口には出さず范無咎は机の上に散らばしたカードを手早くまとめ、引き出しに仕舞い込んだ。再度己の手へと視線を落とし、それが何者にも変わっていないことを確認してから、扉へと足を向ける。
 数歩の距離が、少しばかり待ち遠しいのか、心の端がほんのりと温かみを帯びる。冷たくなったこの身には、その小さな変化も顕著に感じ取る。
 ノブを回して扉を開ける。真っ正面を向いていたのでは、その姿形を捉えることはできないが、すでに来訪者が誰であるのか知っている范無咎は視線を下へと向けていた。
 走ってでも来たのか、ほんのりとその柔らかく白い頬は紅葉し、細めの肩は呼吸を整えるために上下を繰り返している。落ち着いた青のケープの端が緩やかに揺れる。なぜだかその姿を見ただけで、子供のような単純な喜びを覚え、緩んだ口端を范無咎は引き締め、来訪者に声をかけた。
「どうした、医生」
「あの、」
 ああいえ。
 そう、エミリーは言い澱んだ。冷静に声をかけられたことで自身の頭も冷えたのか、自己の行動がひどく子供のように思えたからだ。范無咎といえば、つい先刻まで綻んでいた笑みが途端に萎んだ理由に皆目検討がつかず、怪訝そうに眉根を寄せた。
 何かを隠すように胸の前に置かれていた右手が背後へと回される。正面から見れば、何が隠されているのか全くわからないが、つむじが見えるほどの背丈の高さではその手に持っているものすらよく見える。范無咎の目は節穴ではなかったし、なんならゲーム中などは霧の向こうのサバイバーの影さえ捉えて見えた。
 丁寧に切り揃えられた爪が持つのはカード一枚。
「衣装?忘れていたか?」
 自分達のカードは先程全て確認したはず、と范無咎は衣装カードを閉まった戸棚へと向ける。医生の部屋に忘れた覚えはなく、確かに全部あったと記憶している。違うの、とか細い声が恥じらいを伴って響く。
 ああ、とエミリーは体温が上がり、林檎のように赤らんだ頬を冷ますために頬に手を添えて言葉を続ける。
「新しい、衣装が出たから。私の」
「お前の」
「ええ、私の」
 背後からチラリと覗くカードから、金色の光が弾かれる。
 范無咎はいまだ扉の下にいることに気づき、俯いてしまったエミリーを部屋へと招き入れようとしたが、軽く背を押すもその小さな体は動かない。びくりともしない、と言うことはなかったが、一歩だけ前に足が踏み出され、そこから先へ行こうとはしなかった。
「医生?」
 俯いた顔は耳まで赤い。茹でた海老のように真っ赤になっている。
 一つかけた声に、しばらくの時間を要して後、震えた声が返される。
「う、浮かれてしまって。とても、綺麗な服だった、から。ごめんなさい。子供みたいに、はしゃいでしまったわ」
「おい、謝るな。別に悪いことではないだろう」
 必安ならば、もっとうまい言葉が言えるだろうに。
 范無咎は目で傘を探したが、すぐに手に届く場所にはない。少なくとも部屋の奥へと数歩進まねばならないし、しかしそうしてしまえば、眼前の女は自室に戻ってしまうであろうことは明白であった。
 エミリーをこのまま帰してしまうのは、范無咎としては避けたかった。
 確かに自室にはよく足を運ぶが、大抵は本を借りにきたり、必安の診察のために来るのが主な目的であり、少なくとも、彼女自身が何かを見て欲しいなどといった要件でくることは過去に一度もない。茶を飲みに来ることはあるが、それは大体が必安が断りもなしに彼女の部屋に訪れるのが原因であることを范無咎はよく知っていた。
 だから、エミリーが新しい服を見て欲しくて、誰にといえば、自分でも必安でもどちらでも構わないが、彼女自身の用事で来訪したことに、くすぐったいような、なんともいえない感覚を覚える。
 必安ならば、なんと言うか。
 范無咎は女を生まれてこの方女を口説いたことなど一度としてなく、手に持つのは剣の柄か書をしたためる筆の二択であった。故に、恥ずかしげに俯く女にかける適当な言葉を思いつかず、互いが言葉を発しないまま、沈黙だけが出入り口付近に落ちる。
「そ、れで、どんな衣装、だったんだ」
 ようやっと絞り出した言葉はなんの捻りもなく、范無咎は今にも泣きそうな顔をあげたエミリーに口の両端を下げた。
「見せてみろ」
 その言葉にエミリーは後ろ手に隠していたカードを差し出す。
 そうではない。
 そうではない、と范無咎は低く、しかしエミリーには聞こえない程度に唸った。着て見せてくれと言ったつもりだったが、うまく伝わらなかったようで、けれどもう一度同じことを繰り返すのは躊躇われた。
 已むを得ず、差し出されたカードを受け取り、そこに記載されている衣装を見る。
 金の枠に青く光り輝く滑らかなフリルのついた服。基調の青は光加減で虹色に変わる。背は大きく開き、地肌が透けるほどに薄い、しかし光沢がある布地で覆われている。いっそ肌がそのまま露出しているより艶めかしさ覚え、普段ケープに隠された胸から腰にかけての女性らしい線はなぞれる程にくっきりと体に沿って出ていた。
 カードの上に立体で表示された衣装を矯めつ眇めつ見、范無咎はカードを一つ回してエミリーへと無言で差し出した。
 この衣装で試合に臨むのはやめろ。
 口をついて出てきそうな言葉はそれだったが、どうにか范無咎はその言葉を飲み込む。背に痕を残す身としては、あまりそれを人見せたいとは思ってはいないし、見せてほしくないと言うのが心情であった。
 反応がない范無咎にエミリーは落胆したように、眉尻を下げる。
「似、合わないわよねえ」
「いや」
 困ったようにはにかんだ笑みに、范無咎は半ば反射的に答えた。しかし、そこから先の言葉は出てこない。
 似合う。それを発するために若干前のめりになったと同時に、カードがエミリーの方へと強く押し出される。カードが強めに体に押しつけられ、エミリーは顔を上げた。そして、何かを言うより早く、その体がホログラムのように一瞬で范無咎の眼前で崩れる。衣装の切り替えだと気づくのは、僅かに遅れて理解した。
 再構築された視線の先にいたのは、先程カードで確認した衣装を纏った女である。
 先程までの怯えたような表情はそこにはなく、ただ艶やかな青を纏った女が確かな自信を持って佇んでいる。
「医生」
「座って、范無咎」
 耳に届いた声音に范無咎は肩を揺らした。マイクを持っていない方の手で片腕をひかれ、室内へと連れ込まれていく。
 扉が自重で閉まる音が室内に吸い込まれた後、鈴を転がしたような声が女の喉から鳴る。
「人の心を癒す良薬を見つけたの」
「必要ない」
「あなた達を救えるわ」
 人格が入れ替わっていると気付くのが少しばかり遅れた。
 范無咎は足を止め、美しく笑う青にこれ以上誘われぬよう足を止める。輝く蛍は動くたびに色を変え、食いつきたくなるような背をその眼前に曝け出す。
 この衣装はこういう人格なのだ、と范無咎は納得した。医生であれば、このようなことは口が裂けても言わない。救われることが最良ではない。蛍のように、思わず目を奪われるような発光を繰り返す女に范無咎は言葉を選ぶ。
「俺も必安も、他者の救いなどは必要としていない」
「私の歌は、きっとあなた達を自由にする」
「必要ない」
 落とされた手を小さな、手触りの良い手袋で覆われた手が掬い上げる。マイクを持った手と合わせて優しく、羽で包み込むかのように柔らかく冷たい手が覆われた。手は光に誘われ、鼓動を繰り返す心臓の上に乗せられる。
 笑みはただ美しいままで、純粋で汚れなどない眩さの中に落ちている。
 褥の上で食み、形を変えるその柔らかさに范無咎は思わず手を引いた。手を触れることが、何かに対する裏切りかのように感じた。
「怖がらないで」
「恐れてはいない」
「その恐怖の向こうに、救いがあるの。変化は恐ろしいことかもしれないけれど、その先にあるのは救済よ」
 大丈夫。
 艶やかに彩られた、吸い付きたくなるような唇から音が溢れる。もはやそれは声ですらなく、旋律と呼ぶにふさわしい。紡ぐ言葉すら音階をたどり、歌となる。
「お前の救いは、俺たちには毒だ」
 伸ばされた嫋やかな手はゆっくりと体の脇に落とされる。星屑を散りばめたような目元に長い睫毛が伏せ、哀しげにその弱い肩が震える。
 咄嗟に腕が伸びかけたが、范無咎はその手を掴み、淡い光の中心には触れぬよう、後退りする。いくつもの青が、佇む女の周囲で明滅しては消え、幻想的な光景が一室に広がる。范無咎の頬のそばを熱を持たない光が触れるように通り過ぎ、女を包む光の一つとなる。
「いつでも」
 下げられた眉尻だけは、いつもよく見る医生のそれである。
「あなたたちを待っている」
 その笑みは淡い光に食われるようにして消えた。

 手元に残されたカードを范無咎はエミリーへと渡した。
 呆然と佇むエミリーの頭を軽く叩く。
「あの、何か、あったのかしら」
「いいや、何も。その衣装は、確かに美しが、ゲームに来ていくような代物ではないな。足がもつれる」
 そうもっともなことを言われ、エミリーは渡されたカードをもう一度よく見て、くしゃりと小さく笑った。
「そうね。泥だらけになるし、破けてしまうわ。服を気にして、ゲームに集中できなかったら本末転倒ね」
「そうだろう。ところで、必安が先日うまい茶菓子を戸棚に隠していたんだが、一緒にどうだ」
「勝手に食べて構わないの」
 いつもの大きな席に座りながら、エミリーははにかむ。それを見て、范無咎は寝台横に立てかけていた魂の片割れを手に取り、結び目あたりから先端までをゆっくりと撫でてみせた。
「俺たちの間に隠し事はなしだ」
 なあ、必安。
 范無咎はそう言って戸棚を開けた。