狗に拘泥る

 静かな夜である。
 范無咎は寝台に腰掛け、犬の遠吠えを聞く。それは夜の闇に溶け込むように、細く長く、幾重にも反響して澄み切った夜空に消えた。蝋燭の灯りが空気の流れに合わせてゆらゆらと揺れ、自身の長い影もそれにともなって左右に触れる。
 丁寧に洗った髪はまだしっとりと濡れており、范無咎は乾いた布で水気を切るように挟む行為を繰り返す。自分だけの体であれば、こうも丁寧にはしない。謝必安の体でもあるから、と范無咎は正直に言えば億劫な作業を繰り返していた。
「お湯をありがとう」
 個室に付けられている浴室から、范無咎よりも短いが、肩甲骨あたりまで伸びる栗色の髪を柔らかなタオルで包みあげて、体の内までよく知った女が出てくる。
 名をエミリー・ダイアーという。
 その名前は一番最初に回廊で出会った際、謝必安に対しそう告げていたのを范無咎は知っていたし、それ以降も他のサバイバーが彼女のことを、エミリー、或いはダイアー先生などと呼ぶ姿を目撃していたことから、その名前は彼女の名前に間違いない。
 謝必安は彼女のことをエミリーと呼んでいるが、范無咎は医生と役職で呼んでいた。一度は名前を呼ばないことで、名前を知らないのではないかという疑いをかけられたが、決して名前を覚えていないことはなく、そう親しくない時分からの習慣であり、それが抜けていないというのが正解である。
 必安が呼ぶのならばと、范無咎も幾度か名前で呼ぶことを心がけもしたが、結局いつもの調子で役職で呼んでしまい、余程意識をしていなければ名前で呼ぶことは難しく、最終的に名前で呼ぶことを諦めた。
「熱くはなかったか」
「ええ、丁度よかった。まさか夜中に通り雨だなんて思ってもみなかったものだから。それに天気予報も悪くなかったのに」
「通り雨だったようだな。空気が澄んで月がよく見える」
「あら本当。とんだ月見になったけど、ここから眺めるのも悪くないわ」
 中国出身の白黒無常に合わせた部屋のあつらえは、エミリーにとっては見慣れても未だ目新しく、丸く抜かれた窓の前にエミリーは腰を下ろした。夜空はぽかりと丸く抜き取られており、同じように丸い月が夜の中に浮かんでいる。
 謝必安に月見を呼ばれ、月見団子を持って見晴らしの良い庭へ出ていたが、急に降られた雨に、范無咎が有無を言わさず謝必安と替わった。范無咎はエミリーを抱えて大股で走り室内に戻ったが、二人揃って濡れ鼠になってしまっていた。
 傘で移動するのが一番早かったのだろうが、謝必安の魂が入った傘を雨に打たせることを嫌がった范無咎の選択は走る以外になかった。范無咎が普通に走れば、エミリーを一人置いて行ってしまうことから、范無咎は腕に傘と、それからエミリーを抱えて走ることとなった。
 そして冒頭に戻る。
 先に入れと言った范無咎に、謝必安はあなたが雨に濡れた状態でいられるのを嫌がるだろうとエミリーが告げれば、一呼吸置いて先に風呂を使ったのは范無咎だった。謝必安の名を出されれば、范無咎が優先するのは謝必安以外に他ならない。そしてそれは謝必安にとっても同様のことである。
 その辺りを分かって、謝必安の名前を出すのだからエミリー・ダイアーも人が悪いと范無咎自身も思いつつ、あらかた水気が取れた髪を拭くことをやめ、肩にしっとりと濡れた布をかける。
 窓を開ければ先刻の通り雨のせいか、空気は湿気を含んでいたが、穏やかに吹く風が頬をなぜて心地よい。そよそよと流れる風に、一筋二筋の髪が空気を孕んで浮いては沈む。しばらくそうしていれば、髪は自然と乾くだろう。
「きちんと乾かさないと傷むわよ。綺麗な髪なのに」
「必安が寝る前に手入れをするさ」
「濡れたままにはしないのに、どうしてそういうところは適当なのかしら。あなたの体でもあるのだから、髪の手入れくらい覚えたらどう。もしかしてとは思うけど、以前はあなたの髪も謝必安が手入れをしていたとか」
 無咎、君の射干玉はとても美しい。
 どうして手入れをしないんですか、勿体ない。
 ああ無咎。あれだけ言ったのに君、また髪を乱暴に洗いましたね。
 エミリーの言葉で脳裏によぎった生前の記憶に、范無咎は小さく口元を綻ばせ、濡れたままの髪を指先で弄ぶ。
 君の月光をも溶かす髪の方が余程美しいのだ。
 丁寧に洗われ、手入れされ、きっちり詰められたその美しい髪が三束に分けられ、器用に結ばれていくのをよく見ていた。髪一つによくそこまでできるものだと感心したものだった。
 范無咎はエミリーの質問に答えることはなく、まだ丹念に髪の水分と叩くようにしてタオルで拭いている姿を見て話の方向をわずかに変える。
「医生、お前の髪は随分と細いな」
「それは褒めているのかしら。長く伸ばしているから緩やかな癖で済んでいるけど、短いと跳ねて大変なのよ。きちんと手入れしないとすぐに傷むし」
「悩んでいるなら必安に教えてもらえ。必安は、髪の手入れが本当に上手い」
「やっぱり、髪の手入れは謝必安がしていたんじゃない」
 ずらしたはずの話を元の軌道に戻される。
 決まりが悪くなり、返事をしないまま、范無咎は開けた窓の前にテーブルと椅子を移動させ、その上に雨の被害に遭わなかった月見団子とそれからどこからともなく酒を取り出して小振りな杯を置く。
 杯は一つしか置いていない。
 それを認めて、エミリーはつい口を開く。
「謝必安の分は」
「必安もこの酒は好きだ。同じ杯を使っても気にしないだろう」
 范無咎のその言葉を最後まで聞くことなく、エミリーはもう一つ同じ形の杯を持ってきて、あらかじめ準備されていた杯の隣に揃いで置く。
 準備された杯に范無咎は顔を顰める。
「医生、この酒はお前が思うよりずっと強い。茶を準備しているから、お前はそちらを」
「やだ、私の分じゃないわ。謝必安のよ。それに、あなたの国のお酒は少し癖が強くて私は苦手なの」
 ワインの方がいいわ、とエミリーは笑って、底が深めの茶器に温かな茶を注ぐ。
 一つでいいと言ったはずだったが、と范無咎は告げた言葉がエミリーに届いていなかったのだろうかと、怪訝そうに眉根を寄せた。
 しかし勿論、范無咎の言葉が聞こえていなかったはずもなく、エミリーはその疑問を即座に解消する。
「一つだけじゃまるで一人みたいじゃない。寂しがりやでしょう、彼」
 そう言われて、范無咎は目を瞬いて納得する。
 互いに顔を合わせることができないからこそ、失念していた。充てがわれた部屋には、寝具や椅子などは一つずつしかない。魂は二つなれど、その身は一つなのだから当然と言える。湯呑みや衣類などは二つずつ置いているが、それは単に好みに起因するところであり、范無咎も強く意識はしていなかった。
 一つの体を二つの魂で共有した期間にすっかり慣れてしまい、大切なことを忘れてしまっていたことを反省する。
 范無咎はそうだな、と短く返事をした。
「一つでは、杯も重ねられんか」
 そうでしょう、とエミリーは柔らかく微笑むと、范無咎が引いてきた椅子の上にちょこと尻を乗せる。
 まだ完全に乾いてはいない髪は、もう一枚持ってきていた乾いたタオルで巻いて上げておく。ほんのりと赤らんだうなじが夜風にさらされる。艶めいたその姿に腰から上へと電気のような痺れが走ったが、范無咎は視線を逸らして、杯を一つ勢いよくあおって誤魔化す。今宵は月見の約束だけで、そちらの方面の話はしていない。
 必安であれば、うまく誘うのだろうかと思いつつ、二杯目を手酌する。
「いい風、いい月ね。雨が降ってしまったから、今日はもう駄目かと思ったけれど」
「そうだな。ん、まだいたのか」
 風の合間に犬の遠吠えが再度長く響くのを耳して、唇に添えた杯を止める。
「医生。夜にしろ昼にしろ外を出歩くときは気をつけた方がいい。どうした」
 先程まで上気していた肌は一瞬で白くなり、顔色は青い。呼吸は小刻みに短く繰り返され、体は震えていた。問いかけへの返答はない。
 そのただならぬ様子に、范無咎は杯を机へと戻すと、エミリーの肩へと手を伸ばす。
「医生」
 伸ばされた手は、大きな音を立てて弾かれた。広い手のひらがじん、と痛みを伴う。
 けれど、叩かれた側よりも叩いた方が余程驚愕の色を顔に浮かべていた。その顔色には驚愕に深く恐怖が入り混じっている。
 范無咎は叩かれた手をゆっくりと膝へと戻して、エミリーを落ち着かせるように、深く低く、しかし威圧的ではないように再度問いかける。
「どうした」
 金の瞳に、エミリーは肩を寄せて自身がした行為に狼狽する。
「あ、ご、めんなさい。少し驚いて。その、犬が苦手で」
「犬か。俺たちの国では食用でもあったが、愛玩動物でも使役動物でもあったからな。馴染み深い。野犬もよくいたから、苦手意識は薄い。お前の国でもそうだったのか」
「食用には、しないわ。用途はあなたのところと一緒よ。野犬も、ええ、いたわね」
 最後の括りは目が笑っていなかった。范無咎は少し躊躇った後、その質問を続ける。
「小さい頃に、犬に襲われでもしたか。そう嫌うのは」
「まあ、ええ」
 明確な発言は避け、言葉を濁した様子に范無咎はそれ以上の追及を避けた。人にはそれぞれ隠したいことがあり、それを暴くのは本意ではない。
 たとえ、それが目に見えて分かるものであっても、である。
 語られないものを暴くものでない。そいうものだ。
 范無咎はエミリー・ダイアーへと据えていた視線を、杯の酒に映しだされた月へと移した。指先で縁を持てば、月は波立ち消える。
「范無咎」
 呼ばれた名前に、范無咎はゆっくりと顔を向ける。そこには、月光を受けた女が一人座っていた。荘園に招かれた、叶えたい何かがある女である。
 ふっくらとした唇が上下に開く。
「あなた、私の名前覚えていたかしら」
 唐突な質問である。しかし、それには意図が含まれていることは確かで、范無咎は頷き肯定した。
「エミリー・ダイアーだろう。庭師が、お前のことをエミリーと呼んでいる。リッパーはダイアー女史と呼んでいたな。必安も、お前のことをエミリーと呼ぶ。違ったか」
「いいえ」
「ダイアー」
「エミリーじゃないの」
「必安がそう呼ぶなら、俺はダイアーでいいだろう。それとも、他に呼ばれたい呼び名でもあるのか」
「いいえ」
 一瞬の間も開けられずなされた否定に、范無咎はそうかと短く返事をした。二杯目の酒は少し苦く、喉に引っかかる。どう転んだところで、結局は役職名で呼ぶことになるのだ。
 犬の遠吠えばかりが再度月に放たれた。