戦後後遺症

 それは不幸中の幸いと言えた。
 敗戦濃厚の中、二人のうち一人のハンターが退出した。残されたサバイバーは四人。うち一人は今椅子に座らされて飛んだ。残り、三人。敗北は確定。しかし幸いなことに暗号機は残り一台。
 ナワーブは後僅かで飛びかけたイライを縛る縄を乱暴に引き解き、残されたハンターが追ってこないうちにその場を駆け抜ける。
 本日のハンターはとことん自分をダウン放置する。
 そういうのが流行っているのかどうかは知らないが、兎角今回の試合はひどい。もう、何度殴られ、地面に倒れ伏したかは分からない。戦場の音が、頭の中で繰り返され、視界がぶれる。何度も仲間から治療を受けて何度も立ち上がり、そして救助を重ねて、重ねて。重ねて。
 重ねて、その端から仲間は一切の例外なく死んでいく。
 気道が締まり、呼吸のリズムが乱れる。
「しぶといですねえ、あなたも」
 視界を覆った影は、救助狩りを得手とするハンターのものである。
 肘当ては残り二回。
 殴られないうちにと壁に触れて速度を上げるが、その直線状に傘が振り下ろされ攻撃を喰らう。痛みで視界が歪む。痛みは耐えられる。けれど、それは決して慣れたわけではない。幾度も痛みの中に突き落とされ、放置され、痛みという感覚に感情が死んでいく。
 十五秒。ただ、それだけである。一、二。ハンターの攻撃硬直はまだ終わらない。
 耳を劈く音が湖景村に響き渡る。発動した中治りで、あわや縺れかけた足を前へと放り出す。しかし、視界の片隅で攻撃硬直が終わったハンターが次の攻撃を構えたのを捉える。
「あ」
 肘当てを使おうにも壁も障害物も遠い。
 背中を肉ごとこそげ取るような攻撃が入る。肺を守る肋骨が折れる。呼吸が一度止まり、よた、と体がふらつく。後二歩も歩けば壁に触れられる。けれど、けれども、足はそこで止まった。ハンターから攻撃を受けたわけでもない。スタンが入ったわけでもない。動かなかった。
「、ぁ」
 痛みが、脳髄を焼いていく。膝から崩れ落ち、頭を抱える。無理やり詰め込んだ昼食が食道をせり上がり、地面を汚す。一度では終わらず、胃の中を空にするまで嘔吐が続く。嘔吐く。両肘は地面にへばりつき、立ち上がることを許さない。
 立てない。
 耳にこびりついた戦場の音が、視界がぶれ、ここではない過去を映し出す。頭を抱え、ナワーブはか細い声で喘いだ。
 戦後後遺症は、頑強な精神すら粉砕し、限界を超えた。
「吊すまでもないようですね」
 ハンターが呟いたその言葉を耳にすることはできなかった。
 おそらくそれはそう長い時間ではなかったのだろうが、まるで永遠にも感じられるほどの時間だった。吐瀉物に加え、鼻水と涙が顔面を汚す。引き攣るような呼吸は過呼吸の前触れである。無様に膝をつき、頭を抱えて砲弾から身を守るような姿勢のままで動かない。動かないではなく、もはや動くという気力はナワーブ・サベダーには一欠片たりとも残されていなかった。
「ナワーブくん」
 抜け殻のようなその肩をエミリーは揺する。返事はない。見開かれた瞳はここではないどこかを見ている。それがどういう症状によるものであるのか、エミリーは手に取るように理解した。
 今日のナワーブは、この広いマップを救助のために駆けずり回っていた。端から端へ。時に攻撃を肩代わりし、何度ダウン放置されようとも、仲間の手を借りて立ち上がり、何度も、繰り返し救助に走った。最後にナワーブの治療をした時、その回復速度は通常時の倍はかかったとマーサから聞かされていた。治療に特化した医師の自分でさえ、まだナワーブの一段階目の治療を終わらせることができない。
 今、イライが無事に脱出した。
 エミリーはナワーブの治療に専念する。この体を引きずってゲートまで行くわけにはいかない。ハッチも少し距離がある。ナワーブには、自分の足で移動してもらわねばならない。一段階目の治療が終わるが、ナワーブは立ち上がらない。
 ぐい、とエミリーはナワーブの肩を揺さぶる。
「立って。お願い」
 ぐ、と筋肉のついた二の腕に手をかけて引っ張るが、崩れ落ちた体は微動だにせず、エミリーはその場に尻餅をついた。それでも諦めず、エミリーはナワーブの両脇に手を差し込み、なけなしの背筋でその体を起こし、ずるりと地面を引き摺る。
 ほんの数ミリしか動かない。
 医療職である故に、エミリーは動けない人間を動かすことは多々あった。動けない人間は力と体勢一つで動かすことが容易にできるが、動かない人間は動かせない。そして今のナワーブは動かない人間である。
 ず、ず、と引き摺る。マップ上でハンターはきっと自分たちを探している。かあ、とエミリーの頭上でカラスが鳴いた。ハンターに居場所がバレる。まずい、とエミリーは冷や汗をぬぐい、ナワーブを近場の木の影までどうにか引きずって隠し、そしてその場に自身が所持していたものを置くと、カラスを頭上に飛ばしながら、ナワーブから離れた。

 うるさい。
 静かにしてくれ。
 静かに。痛みも苦しみもない場所で。静かに。
 指先に冷たい感触を覚え、視線を向ければバールが触れていた。なぜそれがそこにあるのか、どうして立てる状態であるのかを思考するだけの体力は残っていなかった。ただ、今指先に触れているものを使えば、この戦場から、苦痛しか生み出さない場所から逃げられることは理解していた。
 疲れ果てた体を引き摺るようにして起こし、視線の先にあるハッチへと幽鬼のように向かう。バールの先が地面を擦り、からからと音を立てる。
 何を考えるまでもなく、ナワーブはバールの先でハッチをこじ開け始める。ぎ、ぎと金属音が静かな空気を振動させる。ハッチが開くまでそう時間はかからず、閉ざされた扉が軋んだ音を立てながら開く。深淵を覗き込んだような暗闇が口を開けていた。ナワーブは用済みのバールを地面に放り投げ、ハッチの縁に足をかける。
 飛び込めば、もうそこは地獄ではない。
 全身の力を抜いて、そこに飛び込もうとした。
 早く逃げて。
 そう、連絡が届く。連絡してきた方向の先には、赤い椅子のシルエットが受難の効果で見えた。ぼう、とナワーブはその影を何の感慨も持たず、眺める。助けられない仲間は、どこにでもいる。どこにでも、いるのだ。もう、こんなところには、いたくない。
 視線をハッチの奥へと再度向けようとナワーブは椅子の方向から顔を回した。その途中で、先程まで自分が座っていた場所を視界に入れる。バールの他に、もう一つ。

 范無咎は満身創痍で息も絶え絶えに椅子に座っているエミリーを見下ろす。残すは傭兵ただ一人。
 耳鳴りはせず、エミリーを救助にくるメリットも思いつかず、ハッチ逃げを考えている可能性もある。ハッチの場所は覚えていたことから、范無咎は傘をそちらの方角へと向ける。それを引き止めるように、途切れ途切れの言葉が発される。
 范無咎は傘を一度下ろし、肩で呼吸を繰り返すエミリーに振り返った。
「ま、て。勝ちは、決まっている、でしょう」
「だからどうした」
「彼、を」
 エミリーは下唇をきつく噛む。ナワーブの状態は正常ではない。ここを追い討ちをかけるかのように、ハッチ逃げを阻止するのは、それこそ戦後後遺症にとどめをさすようなものである。それになにより、ゲーム中の負傷は、身体のものはある程度元に戻れども、心のそれまでは確証がない。
 大きく見開かれた視線の先に何を見ていたのか、それは想像に難くない。
 エミリーはハンターへと請うた。請おうと血の味の滲む口を開けた。しかしエミリーが言葉を発するより早く、范無咎が口を開く。
「懇願は、時に矜恃を殺す。俺は、あれをサバイバーとして認めている。故に医生。お前の頼みはきかん」
 それだけ言うと、范無咎は傘を開き、その体を黒雨に流されてハッチへと飛んだ。
 ハッチの手前で淡い紺碧の渦が発生する。白い波から謝必安は傘を掴み取り、くるりと周囲を見渡す。傭兵の姿はない。ハッチの傍にはバールが投げ捨てられており、すでにハッチは開いている。少しばかり遅かったかと溜息を漏らしたが、しかしそれは大きな誤りだった。
 外在特質である瞬間移動のクールタイムは、後二十秒残っている。諸行無常も先程したばかりである。吸魂で距離を詰めるが、エミリーを座らせた椅子ははるか彼方だった。

 范無咎は有言実行のハンターである。
 エミリーは視線を自身の膝頭へと落とし深い溜息を落とした。余計なお節介、先刻のはそういう類のものである。しかしナワーブはまだ脱出を果たしていない。あの状態から立ち上がっていれば、バールを使ってハッチ逃げができているはずで、そうでなければもう見つからず、エミリー自身が飛んだ後に開いたハッチ逃げを祈るばかりである。
 そのどちらも余計なお世話であるのは、先程范無咎に釘を刺されたばかりである。
「お節介」
 しかしそれがなければ、少なくとも彼らと現在のような関係になることはなかったわけであるし、医者の本質はお節介であるともいえる。ぷうと頬を年甲斐もなく膨らませ、椅子が飛ぶまでのカウントダウンを始める。今回のゲームは言い訳のしようがないほどの敗北である。
 間も無く訪れる浮遊感に、エミリーは固く目を閉じる。何度味わっても慣れなどしない。
 しかし、その衝撃は来ず、代わりに椅子から立ち上がらされた。何が起こったのかわからないまま、エミリーは閉じていた目を開ける。
「なわ、ぶくん」
 返事はなく、強い力で腕を引っ張られる。イライが開けたゲートに向けて真っ直ぐに走る。ゲートを二人の体が越える。その瞬間、赤い光がゲート前に落ちた。白い三つ編みが揺れる。謝必安、とエミリーがその名を呼ぶより早く、その手に持たれた傘がサバイバーを逃すまいと突き出された。
 エミリーは咄嗟にナワーブをゲート奥へと押し込もうとしたが、その前に腕が強めに引かれ、その鍛え上げられた筋肉でできた体が攻撃の盾となり、二人して荘園への帰路へと無事に境界を越えた。ハンターの体がぼやけていく。このまままっすぐに道を進めば、荘園へと辿り着ける。しかしそれよりも前に、エミリーは俯いたまま微動だにしないナワーブへと、言葉を詰まらせながら礼を述べる。
「ハッチ逃げしても」
 その言葉を止めるかのように、乱暴にナワーブの拳がエミリーの胸、丁度心臓の上に押し付けられる。
「忘れもんだ」
 握られているのは、バールと一緒に置いてきた注射器である。
 治療は、とか細い声が震える。
「先生が、してくれ」
 それだけ言うと、ナワーブはエミリーの腕を掴み、すたすたと後ろを見ずに荘園への帰路をまっすぐに迷うことなく歩き、サバイバーの待機室へと戻る。待機室には先に飛ばされたサバイバーや無事に脱出したイライが座って待っていた。
 後ろで扉が閉まり、ふとエミリーは繋がれたままの腕に目を落とす。
「ナワーブくん。あの、手を」
「いつまで握っているおつもりで」
 突如上から落ちてきた氷のように冷たい声にエミリーは全身を震わせた。
 ナワーブはイライたちへと向けていた顔をぐるりと回して、謝必安の方へと向け直すと、一つ鼻で笑って見せた。
「最後、読み間違えたろ」
「…なんのことでしょう」
 ナワーブの言葉に、謝必安の目元が軽く痙攣する。するとナワーブはエミリーの肩を抱き寄せ、親指を自身の方へと向けるとからりと笑って見せた。
「試合にゃ負けたが、俺と先生は逃げたからな!実質勝ちだ!なっ、先生」
「え、ええ、そうね」
 突然話を振られ、エミリーは動揺を隠せないまま、しかし素直に頷いてしまう。眼前に立つ謝必安と顔を合わせることができない。笑っているのであれば、まだ機嫌はそう悪くない。しかし、その声はその場に沈黙をもたらす程度には十分に恐ろしく、その端正な顔は表情すら落としている。
 薄い唇がゆっくりと開き、警告をもたらす。
「離れなさい。今すぐに」
「へいへい。嫉妬深いことで」
 それ以上刺激するような真似はせず、ナワーブはエミリーの肩から手を離す。それと同時に、謝必安はエミリーを引き寄せ、その腕に抱えてしまった。床についていた足は宙を浮き、空をかく。
 エミリーの抗議などどこ吹く風で、謝必安は扉へと向かう。その背中を、追いかけるように声がかけられ、エミリーは顔を上げた。ひらり、と傷だらけの手が振られる。
「頼んだぜ、先生」
 自己犠牲というのは、時にひどく残酷なものである。