ワインの色と香りを楽しむ。
ジョゼフはワイングラスを傾け、口元を綻ばせた。グラスの縁に唇をつけ、舌の上でその味と香りを転がしながら存分に楽しむ。
「今、何時だと思っているの」
「つまらないことを言わないで、君もどうだい」
太陽は真上からさんさんと荘園を照らしている。そのあたたかな日差しを木の葉が遮り、木陰では心地よい風が頬を撫ぜ、チーズの乗ったクラッカーをジョゼフは前歯で噛んだ。
エミリーは医療道具を詰め込んだ箱を胸元で抱え、冷たい視線を酒を嗜むハンターへと向ける。
「午後からまたゲームがあるでしょう」
「今日の午後のゲームの参加者に君の名前はなかったと思うけれど」
「怪我をしたら、治療をしなければ。酔っぱらって治療できないなんて、笑い話にもならないわ」
溜息を吐き、エミリーは視線を進行方向へと戻す。それに、ジョゼフは、まあ座りなよと誘う。
庭園の中に添えられた白い丸テーブルとイスは、エマが手入れを欠かさない薔薇の花に囲まれており、外から中はよく見えない。
抜けるほどの青空に正午を告げる鐘が鳴る。
さあ、とジョゼフは再度エミリーに着席をすすめ、エミリーは渋々と言った様子で椅子に腰かける。その前に、ワイングラスが一つ置かれ、とろりと深みのある赤が注がれる。
「ちょっと」
「一杯くらい平気だろう。それに午後のゲームまではまだ時間がある。あと、このワインは本当においしい」
ワイングラスの足の上に添えられた人差し指と中指が、エミリーの方へとグラスを滑らせる。
芳醇な香りは、薔薇の中にあっても色褪せることはなく、ジョゼフの言葉通り、とても良い品であることは、ワインに詳しくないエミリーでも十分に理解できた。
でも、とエミリーは伸ばしかけた手を引っ込める。
「マーサに、止められているのよ」
「なぜ」
「分からないわ。以前みんなで食事会をした翌日に、マーサに言われたの」
余程アルコールに弱いのだろうか、とジョゼフは首を傾げる。しかし、それであれば、エミリー自身がそれを理解していないとおかしい。
頬を軽く人差し指でかきながら、エミリー自身も怪訝そうに眉をひそめる。
「一緒に食事をしただけなんだけれど」
「その怖いお目付け役は不在じゃないか。おいしいものは、おいしいときに味わわないと。人生損をする。繰り返すけれど、これは本当においしい」
ジョゼフの誘惑にエミリーはちらりとワイングラスに視線をやり、その美しい宝石のような赤色の液体へを吸い込まれるように見つめる。
そして、白雪姫がりんごを口にするがごとく、ワイングラスを取り、そのままゆっくりと傾けた。舌の上でワインを転がせば、口一杯に重厚な味が広がり、芳醇な香りが鼻に抜ける。
エミリーの顔に、単純な、おいしい、という表情が一瞬で広がる。
「おいしい」
「そうだろう」
一切の他意なく、驚きと共に感動を込めた言葉に、ジョゼフは満足げに口角を持ち上げ、鼻を高くする。
自身もワインを一口味わう。
気づけばエミリーのワイングラスは空になっており、流れるように自然な動作でそのグラスに再度ワインを注ぎ足す。ジョゼフ、とエミリーは慌ててグラスの口を掌で塞ごうとしたが、もうグラスの中には上品な香りが立ち込めてしまっていた。
「まあ、いいじゃないか。なに、そんなに午後のゲームが心配なら、今日は優鬼をしてあげてもいい。誰も怪我をしなければ、君も治療をする必要がない」
そうだろう、と告げたジョゼフにエミリーは困ったように眉尻を下げる。
「午後のゲームは他にもあるわ」
「口利きくらいしてあげるよ。だから、安心してこの美酒を思う存分に味わうといい。これを楽しまずして今日の一日を過ごすのは死んでいるも同義だ」
エミリーはジョゼフの言葉に溜息をこぼし、そしてその口元に少し悪いことをしているのを恥じるかのような笑みを浮かべ、ワイングラスを取り上げると、ゆれた湖面の香りをめいいっぱい楽しむ。そのまま、グラスの口に小さな唇が付き、エデンの林檎が喉を通っていく。
エミリーは笑った。
「たまには、悪い大人になってもいいかしら」
「許可しよう」
楽しもうじゃないか。
ジョゼフがかかげたグラスにもう一つのグラスが重なった。
そうして気付けば一本あったボトルは空になってしまった。
それと同時にジョゼフはマーサの言葉の意味を理解し、その流れに何を言うまでもなく、あるいは何かを言えるような状況下になく、ワインを勧めた者としてその状況を甘いんじて受け入れていた。
「ふふ」
白く柔らかな髪を小さな手が撫でている。手袋はテーブルクロスの上に置かれているので、今自身の髪をなぜているのは素手である。
エミリー・ダイアーは頬をアルコールの影響からほんのりと上気させ、そして椅子に座った状態のジョゼフの頭を撫でていた。何を言うまでもなく、優しく、穏やかな表情でその頭を撫でている。
リボンは解かれ、くるりと手袋の横に同じように添えられていた。
「やわらかなかみ」
「そう、かい」
「とてもきれいね」
「ありがとう」
愛おしむような表情をその顔にのせ、エミリーはジョゼフに微笑みかける。
髪を撫でる手つきは優しく、それを拒むことができずに、ジョゼフはただただ大人しく頭を撫でられていた。機嫌はよいようで、その言葉に鼻歌が混じる。楽しげに跳ねる旋律に耳を傾ければ、それは子守唄に近い。
よし、よし。
幼子を撫でるかのように、手が頭を撫でる。ジョゼフは甘えるように、そっとエミリーの胸に体重をかけた。酒の影響かどうかわからないが、怒られたり突き放されたりはしない。心臓の穏やかな音が耳に届き、それはと、とと脈打つ音と重なり、瞼を落としていく。
もたれかかってきたジョゼフの体はエミリーの胸で受け止められ、頭を撫でつつ、背中をとんとんとゆっくり心臓の音に合わせて叩かれる。穏やかな子守唄が眠りを誘う。
瞼を閉じてしまえば、そこに広がるのは優しい子守唄の温かな色である。背に触れる手の温かさと頭を撫でることの心地よさに 体の力を抜く。子守唄に合わせるように小さく口遊む。二つの音は混じり合い、抜けるような青空に、小鳥の囀りと共に溶けていく。
「いいこ」
「今日は、いい子でいてあげるよ」
子守唄がゆっくりと終わりを告げる。柔らかな音が伸び、切れた。
ジョゼフはもう少しそのぬくもりに浸っていたい気持ちに後ろ髪を引かれながら、ゆっくりと閉じていた瞼を押し上げる。とんとんと背を叩く手は未だ優しい。
どうにも、離れ難い。もっと甘えていたい。このあたたかく優しい世界に微睡んでいたい。
「エミリー」
「なあに」
「歌を、もう一曲歌ってくれないか」
「いいわ」
柔らかな音がその唇から流れていく。もう少し。
もう少し、このままで。
ジョゼフは誘われるように瞼を再度落とした。
写真機が作動しない。
ジョゼフの姿を天眼で確認し、ロッカーに隠れていたイライはいつまで経ってもならないシャッター音に痺れを切らし、周囲を確認してからこそりとロッカーから出る。錆びた音が静かなゲーム会場にやかましく響き、動きを一度止める。
まだ梟は使っていないことから、最悪ファーストチェイスで見つかっても時間は十分に稼げる。
近くにあった暗号機を回し始める。一つ、二つと暗号機が上がる。結局五台全ての暗号機が上がるまで、写真機が作動することはなかった。通電の音が大きく、曇天に響き渡る。
こちらを攻撃してこないならば、それは好都合とイライはゲートへと走る。その途中で、教会内の椅子に腰掛けているジョゼフを窓越しに確認する。引き留めるが発動しており、普段は青い瞳が赤く鈍く光をたなびかせていた。
慌ててしゃがみ、その姿を窓下に隠すと、しゃがんだまま前進する。しかし、その足は耳が拾った音に止まった。歌である。柔らかな旋律の子守唄。
ずっと歌っていたのだろうか。その声音はとても穏やかで、引き留めるが発動しているとは思えないほどであった。それでも、引き留めるが発動しているハンターに近づく愚行は犯さない。
イライは一度は止めた足を再度動かし、ゲートへと向かう。たどり着いた時には、すでにマーサがゲートを開けていた。他の二人は反対側のゲートのようで、先に行くよとチャットで連絡が入り、無事に脱出する。
「今日は、誰にも会わなかったが…今日のハンターは誰だったんだ」
マーサの言葉に、イライは教会へともう一度視線を向ける。
「さあ…今日は、分からなかったよ」
そうイライは微笑みを返し、マーサの背中を押してゲーム会場を後にした。