崩壊

 後一歩が足りなかった。最果ての暗号機から救助に来るには、遠すぎた。
 エミリーの目の前で、エマが座った椅子が飛ぶ。爆風が顔をなぜ、焼け跡だけが残った眼前の光景にエミリーは呆然自失となり、膝をついた。
 暗号機は残り四個。
 ジョゼフは写真世界から現実世界へと移行する。
「写真世界を救助してからかと思ったけれど。こっちにいたのかい」
 ああでも、と項垂れるエミリーの前に残された、溶けた雪の中に見える焦げた土に薄い笑みを刷く。
「少し遅かったようだ」
 剣先を宙へと掲げ、ジョゼフは動かないエミリーに剣を振り下す。正しくは、そうしようとした。刀身はエミリーの耳に触れるか触れないか、紙一重の位置で止められる。
 反応がないエミリーにジョゼフは剣をくるりと回して、峰を肩で一二度叩く。
「君らしくもない。どうしたんだい」
「エマが」
「それは仕方ない。君は、反対側のゲートから走ってきたんだ。庭師を椅子に座らせるのは二回目だし、間に合うはずもない」
 今日のメンバーは誰だったかとジョゼフは思い出す。
 最初に飛ばしたのは、面倒なオフェンス。
 二人目は救助に来た調香師へ奇襲をかけて恐怖の一撃。三人目は椅子を壊して回っていた庭師。庭師は最初に座らせたが、オフェンスに救助をされたので、オフェンスを先に飛ばした。あの男の粘着質なタックルほど面倒なものはない。そしてサバイバーにとっては不幸なことに、こちらにとっては幸運なことに、危機一髪をオフェンスは積んでいなかった。
 このゲームは暗号機を回さねば、勝利はない。故に、このメンバーであれば、必然的にエミリーが暗号機を回すことになる。
 しかし適宜暗号機には負荷をかけに行っていたため、暗号機の解読がとんと進んでいないのが現実である。エミリー・ダイアーの解読速度は絶賛するほど速いわけではなく、そして加速がかかるほどの時間が経過しているわけでもない。
 だからこその、現状である。
 ハッチすらまだ解放されていないこの状況下では、暗号機を解読させるよりはチェアに座らせた方がよほど手っ取り早い。庭師が、付近の椅子を壊してさえいなければ。地下室は反対側である。
「早く解読しなよ」
「抵抗、しないわ。吊って」
「そういわれると、したくなくなる。僕は君を吊る気はもうない。気長に待つのは得意でね。君が暗号機を解読しないなら、ずっとここで座っている君を眺めていてもいい」
「悪趣味ね」
 自嘲気味に零された笑みに、ジョゼフは暗号機付近のコンテナに腰かける。
 唯一雪の降るこのマップは広く、そして吐く息が凍るほどに寒い。雪の中に膝をついたままでは、凍傷になる。そんなことは分かっているだろうに、とジョゼフは微動だにしないエミリーを見つめる。
 因縁の始まりもこのマップだった。
 今は閉じられているゲートへとジョゼフは視線を向けた。あの時は、白い雪が、体温をもった赤い血で溶けて行っていた。感傷に浸るなどと、年を取った証拠である。
「彼女は、君のなんなんだい」
「知っているでしょう。私の日記を、読んだなら」
 ああれか、とジョゼフは思い出す。そして、いまさらながらの種明かしをする。時効である。
「あれはね、僕の日記だ」
 エミリーはその言葉に初めて顔を上げた。返ってきた、ようやっとまともな反応にジョゼフは口角を軽く上げる。
「でも」
「君たちサバイバーが日記をつけているのは知っている。まあ、その日記が誰からどこから支給されたものか、少し考えれば同じものを持っているのは疑問でもなんでもない」
「騙したのね」
「いやなに、君が勝手に勘違いしただけさ。まあ、本名やら素性やらは弁護士から聞いたけれども」
 ジョゼフの返答に、エミリーは肩を落とした。自嘲気味に薄く笑う。
 諦めたように立ち上がり、凍りつくような寒さの中、外気よりも冷たい暗号機を回し始める。まったく触られていない暗号機の解読速度は遅い。寒さで調整が難しいのか、何度も火花が暗号機から飛び散る。開始早々に三人が飛んだため、解読加速の時間はまだ訪れない。
 半分ほどようやっと解読が進んだ頃、ジョゼフはコンテナから下り、剣を大きく振り上げる。恐怖の一撃狙いかとエミリーは思ったが、それで荘園に帰れるのであれば、それはそれでいい。暗号機の解読を無視して進める。
 しかし、攻撃はエミリーの腕の横を掠め、暗号機に当たる。半分ほど進んでいた解読は、ほぼ振出しに戻ってしまった。
 エミリーは唖然として暗号機を見下ろし、ちょっと、と非難めいた言葉をジョゼフに投げつける。
「こうすれば、君は、まだここにいる」
 ぽつ、と落ちた言葉は雪に溶けた。
 ジョゼフの大きな影は、エミリーを降り注ぐ雪から守る。両手はその小さな体がこれ以上冷えないようにと、暗号機の傍らに置き、人の傘を作っている。背中にしっかりした胸板が付く。
「ゲートはまだ。ハッチも未更新。僕が君を吊らなければ、君は僕とずっと、ずっとここにいる」
「ジョゼフ」
「未練たらしい?諦めたと言った覚えはないけれど」
「異常はクールタイムがある。遅いけれど暗号機は、いつかは開くわ」
 現実を突き付けてくる言葉に、ジョゼフは笑う。エミリーのナースキャップを片手で取り、その柔らかなくせ毛の中に顎を置く。
 空いている両手で、エミリーの細腰を抱えるように回し、ぬくもりが互いに伝わる。
 その状況下で、なおも暗号機を回し続けるエミリーにジョゼフは小さな笑を零した。
「さっき、好きにすればいいと言ったのに。僕とここに居続けるのは、そんなに嫌かい」
「ここは寒いもの」
「寒くなければ、一緒にいてくれる?他のマップなら」
 ねえ、エミリー。
 ジョゼフは顔をその柔らかな髪に埋め、縋るようにエミリーの体を背後から抱きしめた。暗号機から手が離れる。
「僕も、ひとりぼっちだ」
 死んでしまった兄弟を探し求め、追い求め。そうして一人になってしまった。
 雪がしんしんと、振り続ける。剣を握る指先は氷のように冷たく、もはや感覚すらない。
 ジョゼフの声はあまりに小さく、雪がその音を吸い取ってしまう寸前であった。しかし、エミリーはその音を拾う。拾ってしまう。
「助けておくれ」
 ジョゼフは身じろぎを見せたエミリーの体をきつめに抱きしめ、振り返ろうとしたその動きを封じる。
 異常のクールタイムが終わる。ジョゼフは片手を離し、剣を振り上げた。しかし、その手を振り下ろさず、自身の体の傍らに添える。
 長く、肺の底まで溜まった空気を吐き出すように、ジョゼフは息を吐いた。
「冗談さ」
「私は」
 いつの間にか、エミリーは暗号機に背を向け、その顔をジョゼフへと向けていた。
「あなたの話を聞くことはできる」
「いつも?」
「四六時中は無理ね。彼らが傍にいても構わないなら、私の部屋の扉はいつでも開いているわ」
 私は、とエミリーは続ける。
「みんなの治療もあるし、あなただけにずっと時間はさけない。けれど、あなたが助けてほしいと心から願うときは、いつでも、どこにいても。あなたのところへ駆けつけるわ」
 凍えて、もはや感覚もない手をエミリーはとり、その手を温めるように包み込む。
「私は、医者だから」
 ジョゼフはその答えに、眉尻を下げ、エミリーを切り飛ばした。跳ねた体へもう一撃。
 異常で庭師が壊した椅子を元へと戻し、その機能を回復させる。降り続ける雪は冷たく、長時間も動かずいれば体調を崩しそうなほどだった。
 倒れたエミリーを風船に括り付け、直した椅子に座らせる。
「気が、変わったよ」
「そう」
 エミリー・ダイアーは荘園へと戻った。

 謝必安は不機嫌さを隠そうともしなかった。
 ノックも適当に開けた扉の先には、ジョゼフがその両手を湯をはった盥の中に突っ込んでいる。
「エミリー」
 非難めいて呼ばれた名前に、エミリーは同じように手をジョゼフの手が入った盥に入れて温めながら、小さく笑う。
「レオの思い出のマップだったの。指先が冷えてしまって」
「あなたの試合が長いせいですよ、ジョゼフ」
「僕の試合はもともと長い方なんだ。ああ、君はいつでもせっかちだからなぁ。吸魂で近寄るときもそうだし、性急で堪え性がない。もしかしてベッドの中でもそうなのかい?いやいや、情緒がない」
「機動力のない高齢者と一緒にしないでいただけますか」
 眉間の皺を増やしながら、謝必安はエミリーの体を抱え上げ、自身の膝に座らせると、少しばかり温もった手に付いた湯を傍のタオルでふき取り、そっと大きな手で包み込む。
 しかし、エミリーは思う。手が、冷たいと。
 優しさだけ受け取って、湯の中に手を戻したかった。
「君の手、冷たいだろ」
「余計なお世話です。エミリーの体温で暖かくなります」
 その肝心の手が冷たいのではないのか。ジョゼフは、突っ込みどころを忘れ、呆れて口元を痙攣らせる。そして、湯で折角温まった指先の体温を謝必安の手に奪われているエミリーに話しかける。
「君は僕の話を聞くと言ったけれど、君も色々と話したいあれこれがあるんじゃないのかい?よかったら相談に乗るけれど」
「エミリーの相談は私が乗ります」
「分かってないなあ。これだから地獄の亡者しか相手にしない君は駄目なんだ」
 手に湯が浸かっているからか、それとも他の何かが理由なのか、ほんのりと暖かくなった心臓に、ジョゼフは屈託なく笑った。