悪化

 必安が、気にしていたからだ。
 范無咎はそう思っている。
 一つ。嵐の日に必安がソファで眠ってしまった後、医生は一枚では足りない毛布をもう一枚必安の膝にかけ、そのまま舟をこいで寝てしまった。だから、姿を現し、すっかり冷めてしまったホットミルク、ただの冷たい牛乳を飲み干し、自分の分だけ分けられていたクッキーを口に放り込んだ。
 その場を立ち去らなかったのは、変わる寸前、必安の指が医生のネグリジェに引っかかっていたからだ。母を求める子供のように。
 必安は、言葉遣いこそ丁寧で一見大人びて見えるが、内実甘えたがりの、大人になりきれない子供のようなところがある。
 だから、その場に居残ることを決めた。
 医生の膝を枕代わりにしたのは、ソファに大きな体を預けて寝ては、起きた時に体が痛いし、必安の体を考えてのことだ。ソファに寝転がった方が、疲れないに決まっている。
 二つ。写真家が訪れた際に、傘の中に医生を引きずり込んだのは、やはりこれも必安が彼女を隠したからだ。そうでなければ、そのまま放置して、写真家にでも殴られて連れ去られても問題はなかった。必安に害はないし、一切の問題がない。
 けれど、必安は医生を傘に隠した。ならば、助ける必要がある。ここは狩場ではない。
 だから、フラッシュがたかれる一瞬前にその姿を傘に引きずり込んだ。そうしてしまえば、写真世界に医生の姿は確認できない。滲み出る苛立ちを隠せずにいる写真家はいっそ滑稽にすら思えた。
 そして。

 范無咎は、海辺に転がり、血の海を次第に広げていくサバイバーを見下ろした。
 付近に椅子はなく、どうやら庭師がことごとく破壊したため、今回の相方は失血死を狙ってその場に放置した上で、他のサバイバーを狩りに向かったようだった。
 少し歩けば、地下の椅子は残っている。
 湖景村は海が臨めるマップで、すぐ側には海面が広がっている。必安が嫌いなマップだと范無咎は思った。
 実を言えば、謝必安が思いつめているほど、范無咎は水が嫌いではなかった。
 確かに水に飲まれて死んだが、だからと言って川が、海が、水が雨が、苦手というわけではない。降っているというだけの話である。そうはいえど、それを謝必安に伝える方法は持ち合わせていない。
 このまま失血死をさせてもいいがと范無咎は、しばし考える。
 だから、俺と代わったのか、と。
 その一瞬、視界の端にラグビーボールを抱えた肩幅の広いサバイバーが映る。
 タックルが来る。
 いくら身構えようが、タックルを受けるほかない。躱すには時間が足りず、特質は興奮でなく、さらに言えば傘を構えるだけの時間もない。
 范無咎は、タックルを受けた後、このオフェンスを真っ先に吊るすことに決めた。攻撃速度の速さを舐めるなと口角が好戦的に吊り上る。
 タックルを受ける。砂が舞い上がり、体が海面へと押し下げられる。
 だがその瞬間、背中に小さな体が当たる。
 視線だけ向ければ、それは先程までうずくまっていたサバイバーだった。自身の足が海に浸る代わりに、その小さな体が反動で吹き飛ばされ、浅瀬に転がり込む。
 起死回生がまだ有効だったのは間違いないが、今先程の行動はなんだと范無咎は思考を止める。
 逃げる方向を間違ったのか。それとも、それとも。
 それともなんだ。
 思考が長かったのか、海に沈んだ体に縄が巻き付き、あっという間に水浸しの体は宙を舞い、カウボーイの肩に担がれ、姿を消した。気づけば、オフェンスの姿も消えている。敵から目を離すものではない。
 范無咎は頭を一度振るい、とりあえずオフェンスを吊るために、その足跡を追った。
 
 
 ゲームが終了し、八人中二人逃げのハンター勝利を収める。ちなみに無事逃げ切ったのは占い師と祭司である。
 あの医生はその後リッパーに見つかり、地下に吊るされたようだった。
 謝必安と交代してもよかったが、范無咎はそれをする前に確認すべきことがあった。
 リッパ―との会話も早々に切り上げ、脱衣所へ向かう。
 謝必安ほど足が速いわけではなく、むしろそれどころか、足が遅い部類に入るため、間に合わないかもしれないと思いつつ、しかし間に合わないならばそれはそれで構わないと考え、范無咎はどうにかたどり着いた脱衣所の扉を開けた。なお、脱衣所は女性用の脱衣所である。
 扉を開けた先には、下着一つになっている医生の姿があった。髪も服も、憐憫を誘うほどの濡れ鼠っぷりである。
 突然のことに対応できていないのか、しかしそれでも医生はようやっと状況を飲み込み、悲鳴を上げるために口を大きく開いた。范無咎は、何のこともなく、大きな掌でその口を有無を言わさず塞ぐ。片手で十分だったので、もう片方の手で後ろ手に脱衣所の扉を閉める。今度は鍵を閉めるのを忘れない。
「静かにしろ」
 威圧感を含め、脅すように言えば、医生はびくりと体を大きく震わせ、借りてきた猫のように大人しくなった。
 叫ぶ意思がなくなったのを確認した上で、范無咎は口を覆っていた手を離す。
「聞きたいことがあってきた」
「聞きたいことはあってもいいけれど、女性の着替え中に勝手に入ってくるのはいかがなものかしら。第一、ここは女性用の脱衣所よ」
「知っている」
「知っている。そう、知っているのね。なら言うことはないわ」
 水でびしょびしょに濡れた服で、范無咎からの視線から逃れるように体を隠す。先程の怯え様が嘘のように毅然とした態度で扉を指差す。
「出て行って。話なら後でする」
「今だ」
「後」
「今だ」
「あ」
「今だ」
「頑固なところだけ似せないでちょうだい」
「ああ。どうしてあの時、俺の後ろにいた」
 それだけ聞けば、范無咎は謝必安と代わるつもりでいた。
 范無咎の質問に、エミリーは視線をそらす。
 どうやら嘘があまり得意ではないようだと范無咎は思った。急かすように、おいとせっつく。エミリーは少しばかり口を噤み、視線を下へ落としていたが、観念したように口を開いた。
「水が、苦手だと言っていたから」
「必安か」
「それに、あなたにはこの間助けてもらったもの。まあ、そこまで考えていたわけではないけれど。さあ、私は答えたわ。さっさと出て行って。馬鹿なサバイバーと笑いたければ笑うといい。びしゃびしゃの髪を早く洗いたいの」
「わかった」
 わかった。
 范無咎は思った。
 こいつは馬鹿だ、と。
 どこの世界にハンターを助けるサバイバーがいる。こいつは真正の阿呆である。必安にも一言言っておいてやりたい。時間を無駄にした。
 やれやれとばかりに范無咎は傘を開いた。その瞬間、エミリーは大きく目を見開く。ちょっと、と姿を溶かす前に何か喚いていたような気もするが、もうどうでもよかった。
 范無咎は謝必安へと世界を代わる。
 そして、謝必安は悲鳴を上げた。

 すみません。
 謝必安は顔を真っ赤にして謝る。
 無咎、無咎、あなたなんてことを。
 代わった瞬間一番に目に飛び込んできたのは、下着一つのその姿。かろうじて濡れた服で前を隠していたが、衣服から覗く白い脚と腕は隠しようがない。
 慌てて脱衣所を出ようとしたが、鍵がかかって開かない。
 もうどうにでもなれと、脱衣所の鍵をぶち壊し、全力で走って逃げた。この時ばかりは、自身のぴか一の移動速度に感謝する。
 布団を頭からかぶり、黙ったままの傘をぽこぽこと叩く。
「謝必安」
 疲れたエミリーの声に謝必安は布団から出ることができない。と言うよりも、その姿を見ることができない。一目でも見れば、下着姿の彼女を思い出してしまいそうだからだ。
 か細い声で、すみませんと謝罪を繰り返す。
「そこは、私のベッドなのだけれど」
 布団を跳ね除ける。
 咄嗟に逃げ込んだのは、エミリーの部屋であった。
 視線がかち合う。まだ乾かしていない濡れた栗色の髪。水分を吸って、しっとりとした湯上りの肌。
 あらぬことを想像し、再度羞恥から布団を被ろうとした謝必安からエミリーは布団を引っ張って取り上げようと試みる。
「返してください!」
「私の!ベッドよ‼︎」
「いいじゃないですか!今は私のベッドです‼︎」
「なんでそうなるの!恥ずかしいのは私の方よ?」
 布団の争奪戦は、謝必安が勝利した。
 エミリーのベッドの上に団子のように丸まり、布団の中でおいおいと嘆く。エミリーは、深く溜息を吐き、泣きじゃくる駄々っ子が居座るベッドの隅に腰を下ろした。
 まるまった布団のだんご虫の背を優しく叩きながら、宥める。
「怒ってないわ。大体勝手に入ってきたのは、范無咎でしょう」
 あなたじゃないわ。
 その言葉に謝必安はちらりと顔だけ布団の隙間から覗かせる。
「本当ですか」
「ええ、あなたに怒っても仕方ないでしょう。だから出てきて頂戴。もう夜も遅いし、私も今回のゲームで疲れたの」
 あなたも疲れたでしょう、との言葉に謝必安は口を閉ざす。
 実を言えば、今日のゲームは開始早々無咎と交代していたため、あまり疲れていないとは言えなかった。
 しかし。
 謝必安はくるまった布団を少し開け、人一人入れるようにベッドの隅へ寄る。
 わかりやすく開けられたスペースにエミリーは頭を抱えた。
「どうぞ」
「どうぞって」
「どうぞ。あなた疲れたと先程。疲れた時は休むのが一番です」
「あなたの行動原理に悩むわ。私の下着姿に大慌てだったのに、一緒に寝るのは構わないの」
 ええと謝必安は頷いた。
「眠れない時は、部屋を訪れてもいいとあなたが」
「どうしても、よ」
「今日はどうしても眠れなくなりそうです。目が冴えてしまった」
「その、理由を聞いても」
「答える必要が?」
「そうね、私の安全のために」
「約束は守ります」
 矢継ぎ早の質問の末にエミリーは、項垂れた。どうやら何を言ってもこのハンターは自身のベッドから出て行ってくれることはなさそうである。
 部屋に来てもいいとは言ったが、一緒に寝るとは一言も言っていない。断じて。一言も。
 これ以上、無意味なベッド争奪戦を繰り広げるよりかは、部屋に備え付けのソファで寝た方が建設的であることに気づき、エミリーは薄い毛布を片手にソファに腰を下ろした。枕代わりのクッションは少し硬い。
 眠るために目を瞑る。
 しかし、ぬっと大きな気配が上から見下ろしてくるのを感じた。エミリーはくるりと体を回して、ソファの背もたれに顔を向ける。
「ベッドはどうぞ」
「エミリー」
「使ってちょうだい」
「エミリー」
「私はここで寝るわ」
「エミリー」
 エミリー、とソファに大きいが痩せ細って軽い体が乗る。軽いといえど、背丈があるので、その分ソファは沈む。濡れた髪に細い指が絡む。
「眠れません」
 すん、と鼻をすする音。
 負けた。
 エミリーは負けを認めた。弱いのだ。子供には。とても。
「今日だけよ、謝必安」
「ええ、今日は特別」
 泣いたカラスがすぐ笑う。
 ソファから立ち上がろうとしたエミリーを素早く抱え上げ、謝必安はエミリーをベッドに優しく下ろす。にこにこと嬉しげに頬を緩ませ、その隣に滑り込むと、布団で二人を覆った。
 子供の様な無垢な笑顔が向けられる。その純粋さを溶かし込んだような明るい笑みに目が眩む。
「おやすみなさい、エミリー」
「おやすみなさい、謝必安」
 そして、翌朝エミリーを起こしに来たエマに、謝必安は盛大に殴られた。