falso rapimento

 好きな人に振り向いて欲しいと言うのは、決して我儘などではないと思う。こっちを向いてと、興味を示してと、そう思うことの一体どこかいけないことなのか。
 愛している愛している。愛しているから、振り向いて欲しい。彼がこちらを向かないのを知っていても分かっていても、それでも恋焦がれる。求め続ける。
 少しくらいの悪戯心は、見逃してくれてもいいんじゃないかと思う。

 

 は?とセオは二人組の女子生徒、もといクラスメートと視線を合わせて間抜けな顔をする。飲みかけの林檎ジュースがぷつとストローの先に球体を作る。もともと強面、というよりも随分と目付きが悪い青年の顔は少し眉間に皺を寄せれば怒っているようにしか見えない。おまけに、は?などと脅すような口調でいえば、それはもう断固、青年が不機嫌であるとしか取れないのである。当然女子生徒二人は少し体を恐怖で引く。
 二歩ほど下がられて、セオはしまったとばかりに眉間の皺をなくすように努力したが、頭がまだついて行っていないので、それはのかない。声も状況が飲み込めていないので、未だ少し荒っぽい口調になりがちである。さてどうしたものか、とセオは一度黙りこんだ。
「そ、その、私たち…も、もう行っても…」
「待て」
「だ、だよね?」
 今にも女の子たちは泣き出しそうな顔をして、二人で震える手をつなぎ合わせている。そんなに怖い顔をしているつもりはないのだけれどとセオは内心思いながら、口を開こうとした。
 丁度その時、後ろから何やってるのと声がかかる。灰色を混ぜた緑の目をした青年、ドンはひょいと隣からのぞきこんだ。そしてちらとセオの前に立っている二人の怯えきった生徒を見てから、視線をセオに戻す。ドンの視線に何かしら嫌な感じがしたセオは、違う、と取り敢えずは否定しておいた。
「怖い顔してるから。化物みたい」
「誰が化物だ」
「物騒な顔してよく言うよねー。で?何があったの?」
 最初と同じ質問をしたドンに、女生徒二人は顔を見合わせて、少しは話が通じると思ったのかドンへとぺラリと口を割った。随分とほっとした、安心した表情で話しているものだから、セオとしてはこの差は何だ、と口をへの字に曲げる。それがより一層表情を怖く見せているのだが。
「へー、イルマが」
「そ、そうなんです。男の人が来て、セオに伝えろって」
 伝えましたから、と二人はそろってその場から逃げ出してしまった。どうにも怯えられていた雰囲気がなくなって、セオはふうと息を吐いて机に突っ伏す。疲れ切った様子の友人に労わる言葉をかけることはせず、ドンはそれでと尋ねる。
「イルマ誘拐?面白いね。それをわざわざセオに知らせるって…見当違いもいいところって言う
 か、とドンが最後まで言うのを遮って、セオは音を立てて椅子から立ち上がった。珍しい行動にドンはにやにやと笑うとその背中に声をかける。
「何?王子様にでもなりに行くつもり?」
「馬鹿言え。面倒事片付けに行くだけだ。大体、呼ばれたのに行かないのは失礼だろ」
「…変なとこ律義だよねぇ。あ、ジーモ」
 結局このメンバーなのか、とセオは何だかんだ言いつつもついてくるドンとまるで当然のように合流したジーモに溜息をつきながら、道を歩く。斜め後ろではドンから詳細を聞いたジーモがええ!と声をかなり慌てさせている。だが、慌てることはないようにセオは思う。
 人質に怪我をさせるような馬鹿はいないだろうし、貞操を奪われて(否、貞操はちゃっかり頂いたが)怒り狂う女でイルマがあるようには、セオは思っていない、し、思わない。多分放置していても、問題なく自分の力で帰ってくるのではないだろうかとすら思っている節すらある。
 ジーモは普通に歩いているセオに急いだ方がいいと、慌てつつその背中を押しだす。力は馬鹿みたいに強いので、セオは思わずその力の勢いで前方にこけそうになったのを足を踏み出して耐える。
「押すなよ」
「いや、だって…イルマ誘拐されたんだろ?セオに知らせたってことは大変だろ?うーん、だから、イルマは危ないんじゃないかなぁ。だったら、こんなところでのそのそ歩いていても仕方ないし、もっと急いだ方がいいだろうし、その、イルマは女の子だから」
「だから」
「だから、その、うん、伝えてきた相手は男だったんだろ?だったら、余計に危ないって言うか…。イルマは女の子だし心細いだろうから、きっと怖いだろうし、セオは早く行った方がいい」
「それ途中の考察全然必要ないよね」
 しどろもどろのジーモの言葉にドンは綺麗に突っ込んで、皮肉るように鼻で嗤う。
 巨体の男がおたおたと慌てふためいている様子ほど滑稽なものはない。ドンは落ち着き払っているセオにちらと愉しげな視線を向けた。あまり好きではない視線にセオは僅かに眉間に皺を寄せる。そんなセオの表情の変化にドンはこきんと首を鳴らした。
「でもさ、何で助けに行こうとか思ったわけ?普段なら絶対行かないのに」
「だから」
「呼ばれたから?違うでしょ。いつものセオなら、絶対に行かない。だってどうなってもいいんだもんね。興味がないから。たかだかクラスメートの一人や二人痛くも痒くもない。掴まったほうが悪い、でしょ?違う」
 違わない、とセオは思う。確かに、普段ならば林檎ジュースを飲んで、林檎を食べて、それで授業に出て家に帰って任務に行って。そのサイクルのはずだったのに、何故だかこうしてイルマの元へと向かっている。
 セオが黙ったのを見て、ドンはさらに畳みかけるようにして言葉を繋いだ。
「イルマは別?好きだから?愛してるから?一度は体を重ねた仲だから?それともイルマが愛してるって言い続けてくれるから?」
 それは、とセオは思う。ジーモにせっつかれて駆け足になっているが、それは分かっている。
 一拍の後、セオは違うと短く返した。
「それはない。イルマは俺にとってそういう対象じゃないし、ならない。イルマは、違う」
 多分行くのは、とセオはそこで押し黙る。そして、ああ成程と小さく笑った。
 ドンはセオのその行動の意味を察して、気の毒にと呟いた。そしてジーモはそんな二人の行動がさっぱり分からないまま、その後を追っていた。
 きっとそうなのだろうとセオは思う。イルマとは振り返れば随分と長い時間を共にしてきた。年数だけ数えるならば、それはジーモやドンよりもはるかに長い。初めて好きだと言われたのはいつの日だったか、セオはよく覚えていない。初めて体を重ねたのは確か中等二年目だったように覚えていた。そう言う対象に見ていないと言っても、それで構わないとイルマは言っていた。抱いて、何が変わったのかと聞かれれば、結局何も変わらなかった。変えるつもりもなかったし、変わるつもりもなかった。
 イルマは、結局自分にとっての恋愛対象にはならない。絶対に、とそう、言いきれるだけの確信がある。何故確信があるのかと聞かれれば、そう言う感じがしないからだと珍しく合理的でない答えを返さなくてはならない。が、違うものは違うのである。何度愛を囁かれようとも、何度体を重ねたとしても、それは、違う。変わらない事実。
 しかし、とセオは思う。もうこの関係も終わりだと。
 イルマは、自分にとってとても長い間を過ごしてきた。時間の長さが全てではないが、こうやって走る自分がいる。答えはそれに直結していた。何だかんだと考えたところで、答えは体が一番よく知っている。それは本能に近い。
 きゅ、と指定された場所について、セオをはじめとした三人は足を止めた。しかし想像していたような光景は眼前にはなかった。ただ、誘拐されたと言われたその人本人が、ドラム缶の上にちょこんと座っていた。
「Ciao!セオ!」
 イルマはすとんと何事もなかったかのようにドラム缶の上から飛び降りて、セオの方へと嬉しげに駆け寄った。何、とセオは状況を飲み込めないまま、イルマにそんな通常の問いかけをする。そんなセオにイルマは笑顔で答えた。
「嘘よ!セオ、騙されたの?やっぱり私を目の前にしないと嘘って分から
 ないのね、と言おうとしたイルマの言葉は、消えた。銀朱の瞳に一瞬で怒りと苛立ちが灯され、そしてイルマはその右頬に強い衝撃を感じた。体が吹っ飛ばされる感じ、否、実際に両足は地面から僅かな時ではあったが、離れた。飛んだ体は、音を立てて地面に激突する。
 ジーモはその光景を見て、セオ!と悲鳴じみた声を上げる。しかしながら、近づくと女性が苦手な体は硬直してしまうので、近づくことができない。そんなジーモとは正反対にドンはやれやれといった様子で軽く肩をすくめて、セオの背中と倒れたイルマを静かに見ていた。
 殴られた、とイルマは頬に触れてあまりにも強い痛みに自然に右目から涙があふれた。平手などではなく、拳で思いっきり殴られたのは生まれて初めてである。尤も、殴られて喜ぶ趣味はイルマにはない。声を出そうとすれば、殴られた頬が酷く痛んで上手く口が動かせず声が出せない。う、と小さな声が漏れ出た。
 イルマが代わりに見上げたセオの目は、怒っていた。怒っている、としか表現しようがなかった。食いしばられた歯と眉間にきつく寄せられた皺と釣り上がった眦、それら全てがセオが怒っていると語りかけていた。そんなに怒ることないじゃない、とイルマは殴られた頬の痛みをこらえながら、ぐっと心の中で思った。
「セオ、何も拳で殴らなくったって…イルマに悪気はないわけなんだから」
「黙ってろ、ジーモ。顎砕かれないだけましと思え」
「でも」
「黙れ」
 流石に殴り飛ばすのはあんまりだとイルマを援護しようとしたジーモだったが、その目で睨まれ、気配に飲まれて口をつぐんだ。そしてセオはその目をイルマへとまた向ける。あまりにも冷たい色をしていた。二度と、とその唇が動く。

「―――――――くだらねぇ嘘吐くんじゃねぇ」

 心配して損した、とそれ以上何も言うことはなく、セオはイルマにくるりと背を向けるとそのまま、かつかつと靴を鳴らしてきた道を引き戻して行く。ジーモはセオとイルマを一度交互に見合わせてから、セオ、と慌ててその背中を追った。
 遠ざかって消えてしまった気配にイルマはとうとう左目からも涙をこぼした。何よ、と恨み事が口をつく。喋るたびに頬が痛んだが、恨み事の方が先にあふれ出た。
「なに、よ…っ!いいじゃない…いい、じゃないの…!だって、心配してもらい、たかっ、た、ん、だもの…!ばか!ばーか!セオ、ちっともこっち見てくれないし…っ、少しくらい、私の方、向いて…うぇ、え、」
 ええーん、とイルマは押し殺したような涙声でしゃくりあげた。それに一人残っていたドンが、馬鹿だなぁと笑う。泣く女を前にして、笑うドンをイルマはぎりと睨みつけた。
「何が、可笑しいのよ!」
「いやーだって、ねぇ。ホント、馬鹿だよねイルマ。馬鹿選手権に出たらきっと特別賞までもらえる勢いだと俺思うけど」
 山程の嫌味を含んだ言葉にイルマは殴られて、座っていた状態からすっくと立ち上がり、きっとドンを睨み直した。まっすぐに睨みつけてくるアメジストの瞳にドンは自分の目をゆっくりと細め、そして先程までイルマが座っていたドラム缶に腰を下ろした。
「馬鹿だよ、ホント。ねぇ、あのセオが、ランチのデザートの林檎食べるのやめて来たんだよ。わざわざ。どうでもいい相手だったら、絶対に林檎ジュースとか林檎とか、きちんと食べきってるのにね。というか、そもそも来ないし。折角セオが動いたのに。そりゃ嘘だったらセオも怒るさ。自業自得ってまさにこのことだよねぇ」
 それに聞いた?とドンは呆然としているイルマにさらに続けた。
「心配したって。よかったじゃない、セオ、絶対に心配とかしない性質でしょ?セオはさ、『友達』はちゃんと心配してくれるんだよ。クラスメートから友人に昇格、おめでとう」
 昇格、とイルマは自身の殴られた頬を優しく包み込んで、ドンを睨みつけていた目を地面に落とした。そして違うわよ、と小さくぼやく。
「降格よ。友達なんかなりたくないもの。私は、恋人に、なりたいの」
「それは無理な相談ってもんじゃない?セオ、イルマは違うって断言してたし」
「そんな言葉、何回だった聞かされたわよ!ええもう、そりゃ耳にたこができるほどにはね。でも、でも私は―――――――――――友達じゃ、嫌なのよ」
「我儘」
 ハンカチいる?と尋ねたドンにイルマはいらないわよ、とつっけんどんに返した。そしてドンはくすくすと笑って、くるりとセオたちの後を追った。