思春期だから―入室時にはノックしましょう―

 掛け声の合図とともに、二人の繋がれた手は肘を視点として両側、相手の腕を押し倒そうと力を込めた。ぐぐ、と一瞬緊迫の空気が作られたが、五秒も経てば、大きながっしりとした手首の方の腕が、そちらと比べるとまだ細いが、それでもかなりしっかりとした腕をボスンと倒した。
「はい、セオの負けー」
「…そもそも、ジーモと腕力比べして勝とうなんて思うことの方がかなり無謀に思えるんだけど」
 倒された腕をぐるぐると回しながら、セオはむっすと顔を顰める。それに審判役をしていたドンは言い訳しないんだよ、とセオをせせら笑った。腹の立つ笑い方だが、もう慣れたものと、どちらとも反応はしなかった。そんな二人を眺めながら、勝者のジーモはにこーっと緊張感のない笑顔で微笑んでいる。まったく平和である。
 しかしドンの言葉を聞きながらセオは思う。大体ジーモは武器があの一体何キロあるのかと問いたいほどの大刀である。その超重武器をまるで細い鉄棒を扱うかの如く、自分の体の一部のように振り回しているのだから、かなりの力があるはずなのだ。それに限らず、彼の趣味は家庭菜園で畑作りなどと称した訓練(?)で日ごろ鍛えている事を考えれば、負けても不思議ではない。さらに言えば、自分はそんな筋肉バトルを敵に対して仕掛けるつもりなど毛頭ないので、別に負けても―――――否、悔しい。
 どん、とセオは肘をもう一度床の上に置いてジーモをぎろんと睨みつける。元から目つきが悪いので、意図的に睨みつければ、なお悪い。
「ジーモ、もう一戦」
「…えーぇと…俺、テスト勉強教えに貰いに来たんだけど…」
 そう言ったジーモたちの前には机が一つ置かれており、ノートと教科書、それから筆記用具が散乱している。万年首席のドン、それから上の下あたりのセオに勉強を教えてもらおうと下の下の頭のジーモはこうしているわけである。
 困り果てたジーモに、それを眺めていたドンが助け船を出した。その手には教科書とプリントがひらひらと溢れている。
「やめなよ、セオ。何回やっても負けは負けなんだからさ。体力の無駄遣いだよ。俺としては、ジーモにそんなことに使う体力をもうちょっと頭に回してほしいところなんだけど。はい、これ間違い」
 ドンはぱしんとジーモの前に赤九割、のプリントを返した。その真赤さ加減には流石のセオも眉をひそめて、プリントの内容を覗き込む。
「…こりゃ、ひどい」
 絶望にも近い言葉がセオの口からこぼれ、ジーモは難しいんだよなぁと他人事のように笑った。他人事ではないが。ドンは深い溜息をついて、ここね、とかつんとボールペンの先ではっきりと赤がつけられているところを指した。
「これは昨日やった公式使って解くんだよ――――――って、俺教えたはずなんだけどね」
「ごめんなー。でもその公式、よくわかんなかったんだ」
 馬鹿を見る視線が二つ、ジーモに向いた。そんな冷めた目線二つにジーモはあははと朗らかに笑う。ドンとセオは視線を合わせ、そしてがっかりと肩を落とした。どうしようもない馬鹿である。
「ジーモもセオ同様体で覚えるタイプだから、数を解かせれば大丈夫だって思ったんだけどね…無駄だったみたい」
「ちょっと待て。ジーモと一緒にするなよ!俺はちゃんと解けたら理解してるんだからな」
「どーだか。ま、俺は頭で理解してるから、問題ないけどね。大体セオって頭の前に体で理解してるでしょ。完全に筋肉馬鹿タイプ。最終的に理解してるから問題ないと思うけどね」
 褒められているのか貶されているのか、どちらか迷う様な表現を聞きながらセオはお前は、と口元を引き攣らせた。ドンは全くそれを気にする様子もなく、ジーモが回答したプリンを片っ端から目を通し、半分ほどセオに押し付ける。それにセオもああと溜息をついてからゆるゆると赤ペンをとって目を通し始めた。
 静かになった部屋でかりかりとペンの音だけがやけに大きく長く響く。それに耐えきれなくなったのか、それとも採点に飽きたのか、セオがなぁ、と口から言葉をこぼす。目線の下にあるプリントは見事に訂正で真赤になり果てていた。それはドンの手元も同様である。
「ジーモって、ひょっとしなくても…頭と体同時に使わないと覚えられないんじゃ…ないのか…?」
「…俺も、少しそんな感じはしてたけどね…。辛うじて丸がついてるところって、反復練習を俺と一緒にやったとこだけだし。これはあれなの?俺にジーモと一緒に夜を明かせって意味?そんなことしなくったって余裕で全問正解の俺に?」
 そういうことなの?と問いただされて、セオはそうなんじゃないか、と最後の問題にチェックをつけて机の中央に放り投げた。  プリントを、それは勿論ドンが作ってきたものだが、を全て解いて机に突っ伏しているジーモの気力は既にない。体力馬鹿ではあるが、知力馬鹿ではないのでこの作業は相当きつかったようである。そしてセオとドンも自身が理解している問題を嫌というほどにチェックし直していい加減に疲れ果てていた。
 ああ、とセオはごろんとその背中を床につける。全く、疲れた。ふとそこにドンがねぇと声をかけた。
「セオってさ、弱いところってあるの?」
「弱点?どうだろ…取り敢えず思い当るところは克服してるつもりではあるけど」
 うん、と頷いたセオに疲れ切っていたジーモが顔をあげて、簡単だよ、と笑った。ないと言った矢先にそんなことはないと言われて、少しばかりセオは腹を立てる。
「何だよ」
「ラヴィーナとかさ。ほら。いつだったかなぁ…部屋に立ち入り禁止にされて凄く落ち込んでただろ?」
「あーそんなこともあったよね。何と言うかさ、魚が死んだ目してて、正直気持ち悪いかったよ」
「俺の古傷えぐってそんなに楽しいか」
 お前ら、とセオは頬を引き攣らせたが、ドンはこれ以上ないほど爽やかな笑顔で勿論、と返した。
 そしてドンはふら、と何を思ったか、セオの腹にすとんと抱きついた。状況が読めないセオは軽く首をかしげただけに終わったが、途端、ひぃと顔を青ざめさせる。シャツとズボンの隙間から背筋を、冷たい素手がとんとんと背骨を数えるように這いあがった。
「おおおおお、お前!放せ!馬鹿!気色悪い!」
 セオは抱きついたドンを引きはがそうとするが、一方ドンは愉しげににやにやと笑いながら、やっぱ筋肉質だよねと口端で嗤うだけだった。がっしと抱きついた状態で服に手を突っ込まれるセオは始めは青ざめていたが、ふっと一拍置いて、ぶ、と吹きだした。
 そしてドンはてえやと転がったセオの上に馬乗りになって、服から手を引き抜く。ありがちに、それから腹を擽った。
「あ、ひゃ、ひゃはははっぁ、はっ!ばばば、ばか…っ!くすぐ、ったい…!ぶっは」
「腹筋もあるんだ。へー、ジーモ、ジーモ。ほら、セオ押さえて」
「え!?え、ええ…?う、うん?」
「ほらほら早く早く」
 突然何を、と思ったがジーモはせかされるように言われたので、慌ててドンの顔を下から殴りかかろうとしたセオの手を押さえつけた。もともと力の強いジーモに押さえつけられては、セオも動くに動けない。腹を思う存分擽られ、窒息しそうなほどに笑う。ばたついた足も腰から下なので意味をなさない。
「いやー意外と腹とか弱い人って多いからさー、セオはどうかと思ったんだけどやっぱりか…。しっかし面白いよね、こうまで笑ってくれるとさ。擽りがいがあるっていうか」
「うるっせふぶっく、ひゃひゃ、あは、ははっひっはは!」
「えー聞こえないよー?」
「お前ぶっこははは!」
 ジーモ何か聞こえた?と爽やかに微笑まれて、ドンはセオの手を押さえつけまま、青い顔をして首を横に振った。これはもう手を離した時点で自分の方にも拳が飛んで来るのが明確である。テスト云々の前に生きて無事に帰宅できればとジーモは切実にそう思った。
 笑い転げるセオをなおも擽りながら、そういえばさ、とドンはにこっとこの上ないほどに綺麗で美しい笑顔をその顔に浮かべた。その笑顔にはいっそ悪意さえ感じられるものすらあるのだが、幸か不幸か、その笑顔を見ているのはセオとジーモだけである。
「足の付け根とか、膝小僧とかも擽るとすごくこしょばいって聞いたことがあるんだけど、それ本当かな?」
 どう思うセオ、と笑いつつ、ドンの手はセオのベルトにかかった。さしものセオも頬を引きつらせて、待て、と待ったをかける。既に上のブラウスもたくしあげられた状態でこしょばされていたので、ズボンまではぎとられてはとんだ痴態である。それにドンのことを考えると、パンツまで一緒にはぎとられる気がして仕方がない。
 さっと青ざめて、セオはジーモ放せ!と強い調子で命令した。ジーモはふっとそれに反応しかけたが、おろと慌ててドンを見る。慌てたジーモをドンは優しい調子で放しちゃ駄目だよ?と天使のような頬笑みを浮かべた。セオにとっては悪魔の笑みだったが。
「おい!ドン!マジでやめろって…!というか、ズボン脱がす必要がどこにあるんだ!」
「素肌の方が敏感ジャン。なんというか、セオの慌てるの面白いし」
「それが理由
 か、とセオは言いかけたが、それは扉の開いた音でふと止まった。
 何か色々嫌な予感がしながら、セオはこくんと頭を扉の方へと向ける。ジーモの巨体が少し視界をふさいだが、見えない角度でもない。  そこでふとセオは今の自分の姿を頭の中で再確認する。手をジーモに押さえられ、腹の上だったドンの体はベルトをはずすために太腿の上に。そして先程まで擽られていたため、上のブラウスは胸の上までたくしあげられている情けない状況である。さらに言えば、今現在、ドンはズボンを引きずり下ろすため、こちらのベルトをはずし、そしてチャックに手をかけている瞬間。
 セオは扉を開いて、そんな光景を呆然と眺めている淡い茶色の髪をした自分の大切な妹を見つめた。その手には、いつぞやのように林檎ジュースと、それから今度は軽食が乗っていた。勉強会のために、とマンマが作ってくれたことは間違いない。
「あ、ラ」
 ヴィーナ、と最後まで言わせることはなく、ラヴィーナはぎこちない笑みを口から下の出ている部分に浮かべて、そっとトレーを床に置き、そして扉を閉じてしまった。ぱたん、と無情な音がその部屋に響く。ドンはさらっとそんな光景を一瞥して、これは完全に誤解されたね、と笑う。
「誤解?」
「いや、あれじゃない?ラーダも結構な御年頃じゃん。所謂俺たちがゲイとでも」
「ららら、ラヴィーナ!ちょ!お前らどけ!ぶっ殺すぞ!」
 下に組み敷いた体が激しく揺れて、ドンはひょいとその上から退く。それは実際のところ、暴れたからという理由ではなく、セオのその腕に憤怒の炎が僅かに灯ったからである。無論ジーモも言われるまでもなくそれに気付いて、ぱっとセオの手から自身の手を放して解放した。
 セオはがばりと慌てて立ち上がると、閉じられた扉を凄まじい勢いで押しあけ、開けられたチャックとベルトを片手で押えたまま部屋から飛び出した。無論追いかける声は、またこのパターンか!である。そのセオの最後の言葉にジーモは軽く首を傾げた。
「また?」
「え?ああ、随分前に同じようなことがあったんだよ。いやー懐かしいね。あ、暫くしたらボスがセオの頭に拳を落とすに10EURO」
 にこっと微笑んだ友人の顔を眺めたジーモは、ようやくセオに申し訳ないことをしたとそっと心の中で謝った。そしてふ、と思い出したようにドンに尋ねる。
「…勘違いって…言ってたけど、ドン、結構セオに過剰なスキンシップはかってないか…?」
 少し青ざめた感じのその表情にドンはひらりと手を振って冗談じゃないと肩をすくめる。
「何が嬉しくてセオのかったい胸触って喜ばなくちゃいけないのさ。女の子の柔らかい胸に挟まれるなら大歓迎だけどね。それにセオは根っからのマフィオーゾでしょ。そんな、男を好きになる、なんて最もマフィオーゾらしくないこと、するわけないじゃん」
 そんなドンの言葉にジーモはああなるほど、と頷いた。
 そしてそのマフィオーゾには自分たちも含まれていることに気付いて、ならばあの誤解はすぐに解けるだろうとほっと胸をなでおろした。これで誤解が解けなければ、カビの生えたセオの相手をするのはこちらなのだから始末が悪い。
 ジーモは開け放たれた扉を眺め、それから机のプリントの山に目を戻した。それから一つ溜息をついて、テストのための勉強を再開した。

 

「ラヴィーナ!ご、誤解だって!そ、そんな変なことしてないから!待って、って」
 ラヴィーナ、と足の長さと身長、それから身体能力上、ラヴィーナよりも速いので、その背中にセオは追いつくと、ラヴィーナの片手を取った。ようやく足を止めたラヴィーナは慌てた様子で、ぶんぶんとセオの手を引きはがそうと上下に振る。
「ラヴィーナ…は、話聞いてくれよ…。俺、別に゛、ぃ、で…っ!!!」
 ごっと鈍い音がして頭上に激しい痛みが落ちる。セオはあまりの痛みにふらつきながら、ラヴィーナのつかんでいた手を放す。無論この痛みが誰から与えられたものか、考えるのはたやすい。ふらつきながら、セオはくるりと体を反転させて、バッビーノ、と父親を呼ぶ。赤い目はぎらぎらと光り、鬼のような形相をしていた。そしてラヴィーナはいつぞやのように、ぱっとXAXNSUの背中に隠れる。
 あ、とセオは片手をラヴィーナに伸ばしたが、その手は父親の手によって綺麗にはじかれた。
 完全に怒っている雰囲気をひしひしと肌で感じ取りながら、セオはバッビーノ、と口元を引き攣らせる。この鉄壁の守りをかいくぐらなければ妹の誤解を解くことはできない。
 セオのそんな内心など知ってか知らずか、XANXUSはちらと背中に隠れているラヴィーナへと目をやった。そして何があった、とばかりにその小さな存在を睨みつける。父親の視線を感じ取って、ラヴィーナはポケットにしまってある小さなメモ帳にかりかりと誤解されている内容を書き記した。
「…男と乳繰り合ってた、だぁ…?」
「乳繰り合うなんてどこでそんな言葉覚えてきたんだ、ラヴィーナ…っ!!」
 父親に怒られることよりも、妹がそんな単語を覚えていたほうが激しくショックだったらしく、セオは愕然とする。しかしはっと父親のきつい視線を感じて、慌ててそちらを向くと、誤解だよ!と即座に弁明を図る。
「ちょっと遊んでただけで…プロレスみたいな、そんな感じだったんだって!俺、女好きなんだから!」
 ある種激しい誤解を招きそうなカミングアウトをしながら、セオは必死になる。そんな息子の必死の弁明を父親は煩わしとばかりに吐き捨てるようにして話を切った。
「るせぇ。んな男が好きなんざ、胸糞悪ぃ性癖に育てた覚えはねぇ」
「…バッビーノ…」
 それは暗にラヴィーナの誤解だと言うことを認めている一言であったので、セオはほっと胸をなでおろす。だが、それもつかの間、鈍い衝撃がどごりと鳩尾に入った。XANXUSの持ち上げた膝が凄まじい勢いで腹をへこませる。強い衝撃と痛みに体をくの字に折りながら、セオは二三歩たたらを踏み、後方へと下がる。それに追い打ちをかけるようにして、側頭部を大きな手がわしづかみ、そのまま横の壁へと叩きつけた。ぐらりと脳味噌が揺れる。
 あ、と短い声を発して、セオはそのまま崩れ落ちた。その倒れたセオの頭に父親のブーツ底が乗せられて、ごりんと床に顔を押し付けられる。
 赤い、綺麗などこまでも美しいルビーの瞳が、怒りの一色を灯してセオを見下していた。ぞっと腹の底から冷えるような怒りにセオは銀朱の目を強張らせる。地獄の底から響く、震える低音がセオの耳から入り、体の奥をぞわぞわと恐怖で震えあがらせる
「―――――――――だが、ズボンの前全開でチビカス追い回すような餓鬼に容赦はしねぇ」
 いや、これはとセオは弁解しようとしたが、さらに強い力で床に押し付けられて言葉を発することができない。起きろ糞餓鬼、と命令されているにもかかわらず、頭を床に靴で押さえつけられているのでどうにもならない。一拍二拍おいてから、ようやく足が外されてセオはむっくりと心の中で号泣しながら立ち上がった。だが、その拍子にベルトで止めていないズボンがずり落ちる。慌ててずり落ちたズボンを押さえたが、パンツは丸見えである。
 父親の向こう、背中側でラヴィーナがきゅぅと顔をうずめたのが分かった。
「い、いやだって、そ、そんな立ち上がったばかりだし!い、今止めるか、」
「―――――――――薄汚ぇもん見せてんじゃねぇ!糞餓鬼が!」
 怒声と共に頭に落ちた拳にセオは本気で泣きたくなった。そして、部屋に無事に帰ることができたらドンを一発殴ろうと、そう、心に決めた。