43:柔らかな屍 - 1/2

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 靴紐が切れた。
 一昨日血塗れになったスニーカーは昨日綺麗に洗って陽の下で干してしっかりと乾かしたため、いつも通りの色を保っていた。はたから見たそれは一般人のそれと全く変わらない。
 新しい靴紐を靴棚から引っ張り出す。切れてしまった靴紐を引き抜き、新しい靴紐を通し、結ぶ。
 玄関扉に手をかけ、背中にかけられた声に引きかけた手を止める。
「藤堂さん」
 最初は捻くれて敬語の一つも使わず、苦い顔をしてどうにか言葉を正していたあの少年が、かくも立派に成長した。
 藤堂は暫し、名を呼ばれるなどという他愛もないことに深い感慨を抱いた。
「仕事ですか」
「ええ、少し出てきます」
 現在、ミルフィオーレの暗躍で街中、特に裏路地に一本に入っただけで十分に危険な状況となっている。言外に滲ませた心配に、藤堂は修矢には見えぬように口元を緩ませた。
 新しい靴紐を通した靴をサイズを合わせるように爪先で床を叩き靴の履き心地を確かめる。いつもと遜色ない。
 修矢が十分に育ったのち、組を後にする予定だったのだが、情が移ったのだろうか、医大を卒業した青年の唯一つの寂しさの染みついた感謝の言葉につい足を止めてしまい現在に至る。
 他人に対しては恐ろしく冷酷だが、一度懐に入れてしまえば情の深さが滲み出る。
 そして何より、彼はどうにも愛情に飢えている。
 悟らせぬように悟られぬように上手に隠してはいるが、身近な人間であれば、すぐに分かってしまうほどに彼は隠し事が下手である。
 前体制から継続して居残っている年配の組員はそのためか、修矢のことを、坊ちゃんと呼ぶ。本人はそれに苦言を呈しているが、本人があれではその癖が直されることはない。特に、彼の側近に至っては死ぬまでその呼び方のままであることは、火を見るより明らかだった。
 修矢は一拍置き、藤堂に視線をしっかりと合わせた。
「依頼が、あります」
「依頼。それは、正式なものですか」
「そうです。あくまでも、俺の、個人的なものですが」
 御遣いですかと茶化すような真似を藤堂はしなかった。修矢のそれが、目を見れば至極真面目な依頼であることは手に取るように分かったし、もとより若者をからかう趣味を藤堂は持ち合わせていなかった。
 玄関の方へ向けていた体を反転させ、藤堂は修矢と向き合う。互いに年を取った。そう、藤堂は思った。
 自分には皺が増え、弟子には精悍さが備わった。
 藤堂は要件を、と修矢を促す。
「沢田たちを、鍛えてやってほしい」
「と、言いますと」
 敬語を強制はしなかった。藤堂は修矢に依頼の真意を聞く。
「間も無く、沢田の絵が完成する。沢田は過去の自分に賭けてた。俺も、強力を要請されちゃいるが、どうにも誰かに教えるってのは俺の性分に合ってない。場所や金銭面においての援助はできるし、それは沢田に言ってあった」
「成程。それでは、私は子供たちを教育すればよろしいわけですか」
「受けてくれるか」
 死神と、と藤堂は唇を人差し指と長指でさすり、破顔する。
 くしゃり、と皺の増えた顔にさらに多くの皺が寄った。初めて会った時、淡い茶色だった髪はもう随分と白髪交じりになっている。
 藤堂は斜め掛けしていたリュックから能面と一つ取り出す。
 最初に出会った時、つけていたのは翁面だった。最初に名乗ったのは、本名ではなく、佐藤清隆という偽名だった。最初に触れたのは手ではなく、殺意だった。
 死神と呼ばれたこの身に。
「運ぶのは死ばかりと思っていましたが、貴方達は、私に次代の命を守る依頼をする。なんとも滑稽で、ですが、嬉しいものですね。報酬はひと段落してから私の言い値で払っていただきます」
 身内割引はありません、と藤堂は修矢に釘を刺した。それに、修矢はつられるように笑い、分かっていますと敬語に戻した。しかし、藤堂は構いませんと続ける。
「いや、でも」
「私に依頼ができる年に、立場に、分別を貴方は身に着けた。もう、私が教えることなどありません。貴方は私の弟子ですが、最早貴方は私と対等の立場にある。好きに話しなさい」
 渋った青年の胸板を一つ拳で叩いて、壮年の男は翁面を顔に被せた。
 ただそれだけの行為で、纏う空気がいっぺんに変わる。そこにいるのかいないのか、圧倒的な、存在感のなさ。翁面をかぶっているのはただただ異様であるのに、それを異様と認識させないほどの希薄さ。
 黒い皮手袋が老いを感じさせる手に被せられ、玄関の引き戸にかかる。
「あの」
 本日二度目になる引き留めに藤堂は再度足を止めた。返事はせずに、首の動きだけで代わりとする。
「いや。いや、気を付けて」
「はい」
 修矢は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
 切れた靴紐が靴箱の上に置かれていた。帰ってきたら捨てるつもりであろうが、修矢はそれを手に取り、階段下のゴミ箱に放る。
 藤堂が出て行った玄関は、まるで朝方から一つも動かされていないかのように静かに閉じられたままだった。

 

 この女の青白い顔を見たのはいつ振りか。
 XANXSUは細い管から機械に繋がれた東眞の姿を眺め、目を眇める。
 心電図は正常な数値を示しているが、機器に繋がれた女の瞼はピクリともしない。一夜、明けた。指先の一つ反応はない。ただただ、か細くはあるが規則正しい呼吸で胸が上下するばかりである。
「ボス」
 白い壁の下、銀色の髪が波に揺られるように左右に揺れた。かつては両目が見えるように切りそろえられていた前髪は、今は随分と伸び顔の片側を隠すほどになっている。
 機械音と呼吸音しかしない部屋に、スクアーロの声はぞっとするほどこもって響いた。
 赤い瞳が黒髪の隙間を縫うようにゆるりと動く。ゆっくりとした動きは、唾を一つ飲み込むには十分な時間だった。
「行け」
「…ボスは、どうする」
 分かり切っている答えをスクアーロは敢えて聞いた。XANXUSは東眞の頬に触れていた指を離し、背筋を伸ばす。ルビーのような光を放つ瞳が瞼の奥に隠れる。
 喉仏が上下に動き、一度閉じられた瞼が、先程の柔らかな眼光から鋭く切裂く様なものへと変わり現れる。
 ブーツの底が病室の床を叩き、スクアーロの真横を通り過ぎる。それが、それこそが回答だった。
 スクアーロは白い病室の真ん中に横たわる唯一の上司の女を横目で眺める。
 彼女は夫がここで留まることを望まない。息をし、瞼を押し開け、言葉を発せられるのならば、彼女は言うだろう。ただ一言。そう、ただ一言。
 いってらっしゃい。
 そう、言うに違いない。
 スクアーロは意識のない女へ背を向けた。銀糸が海を泳ぐ鮫のように揺れる。
 XANXUSの背を追えば、背後で耳を立ててようやっと聞き取れるくらいの電子音を鳴らし、扉が左右から中央へと閉まる。
「先に行くぜぇ」
 速度を速め、スクアーロはXANXUSを追い抜いた。
 煩わしいほどに長い銀糸が角を曲がったところで視界から消えた。XANXUSは一度足を止めかけ、しかし止まることはなく前進する。
 指先に残るぬくもりを確かめるように拳を握り締めた。少なくとも、死んでいない。
 肩で風を切る。果たして、帰って来た時に、己を迎えるのは棺桶か、それとも柔らかな笑顔なのか、そのどちらかは判断がつかないが、それでもあの病室で留まることが己のすべきことでないことは、何よりも明らかである。
 目下の目的はミルフィオーレをぶっ潰すコト。
 後ろ髪が引かれることなどない。XANXUSは懐に入れている匣兵器と特殊銃の存在を確かめた。
「ジャン」
『なにかな、ボス。奥さんの容体を逐次報告かな?』
 僕の二コラに不可能はないよ、と聞きもしないことをパソコン中毒者は述べた。この施設内において、この中毒者が把握していないことなどほぼないに等しい。
 安い挑発に乗ることはせず、XANXUSはジャンに静かに命令を下す。
「ジェロニモを動かせ。カス共が潰したメローネ基地から一人浚ってある」
『ははあ、気の毒にね。一緒に消滅していれば随分と楽だったろうに』
「無駄口をたたくんじゃねえ」
『Si,si. ただいま』
 そう了解し、ジャンは無線を切った。
 今ここで引き返し、病室に戻れば少なくとも死に目を逃すことはない。しかしそれはしない。そのような行動を誰が一番望まないのか、XANXUSは誰よりよく知っている。
 アレは、そういう女ではない。
 XANXUSは一度目を瞑り、ゆっくりと瞼を開けた。行く先はもう決めた。後ろを振り返ることはもう、ない。風を孕んだコートは大きく揺れた。