42:狼煙 - 1/7

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 天井は高く、天を囲う木は表面を美しく磨き上げられ、光沢を伴っている。豪華な、しかし決して華美ではないシャンデリアが上から吊るされている。今時蝋燭で灯すタイプのそれは、柔らかな光を部屋へと落としている。部屋は広すぎもなく、しかし決して狭すぎもせず、天井が高いというただ一点を除いては、完璧に計算された美をようしており、縁取られた天井と柔らかで上質な絨毯にて上下を構成され、壁は天井と同じ材質を持つ木と白塗りの壁で作られている。静謐な箱がそこには出来上がっていた。床から天井まで伸びるような大きな窓が二つ三つ、庭に面しているが、それらは全て、黄金に縁どられた厚手の濃緋によって視界を遮られ、外から中は覗けないようになっていた。
 そして、臙脂色の、人の形を吸い込むようなソファに赤い、まるで宝石のような目を持つ男は座っていた。彼は体重をソファの背凭れに遠慮なく預け、長い足を机の上に放り出している。背凭れに腕まで預け、リラックスした体勢ではあるものの、男からは一種殺意とすら取れるような、常時張り詰められた警戒心が解けることはない。煙草を好まない男と、そして男の前に座る、いくらか幼い面持をした男の間に灰皿は置かれておらず、それは、対面の男が煙草を吸わないことを意味した。
 ソファにいっそ横柄にすら取られる態度で座っていた男は、ボンゴレファミリーと言う名のマフィアの独立暗殺部隊の頂点に君臨する男であった。軽く首を傾げれば、若かりし頃よりもずっと伸びた黒い髪の毛が赤い瞳を檻のように隠していく。額にある傷はその前髪で隠れていたが、体全体に残る、真っ先に人目につく頬の傷は隠れようもなかった。しかし、対面座るボンゴレファミリーのドンはそれを気にする様子はない。
 XANXUSは一つ、呆れの色も含めて息を吐いた。
「くだらねぇ」
 二人しかいない部屋に落ちた声は、はっきりと部屋の中に響いて消える。気怠さを帯びた声とは別に、黒髪から覗く赤い眼光だけがただただ鋭く、スーツで体を固めている男へと注がれる。男にしては随分と線が細く、柔らかな髪質が体を軽く動かせば小さく揺れた。細めの首を毛先が擽る。
 XANXUSの素っ気ない、獄寺隼人がそこに居れば激怒しそうな態度を沢田綱吉は享受していた。それが彼であり、どうしようもない彼自身なのであることを綱吉は自覚していた。それと同時に、この男が一生自分を認めないことも知っていた。そう。唇が動く。
「君なら、そう言うと思ってたよ」
「そんな馬鹿げた話の一体どこが信用できる。くだらねぇカスの妄言に耳を貸してる暇があるなら、その乳臭さをどうにかしたらどうだ」
「俺は信じてる。だから、行動してきた。それに何より、俺は、あの時代の俺と俺の仲間を信じてる。彼らなら、自分を他人扱いするのもおかしな話だけれど、やり遂げてくれる。今の俺では、決してなしえないことを。一番の可能性を持った、俺…いや、俺達なら」
 揺るがぬ瞳が赤い目の中に飛び込む。煩わしささえ感じるほどの純粋さを、XANXUSはソファに埋もれたまま感じていた。
「それに、正一君が人生の全てをかけて来るべき日のために準備をしてくれた。今ここで、俺が決断しなければならない。だからXANXUS」
「断る」
「命令は、したくない」
 命令をすれば、この男が従うことを綱吉は知っていた。それしか打つ手がないことを知っているならば尚更である。俺も随分と肝が据わったなあと真剣に対峙しながら、しかし頭の隅でそんなことを綱吉は思う。十年前は、見るだけで震えあがっていた。この真っ赤な、血と暴力を連想させる双眸に睨みつけられただけで、足が震えた。それも、戦いを経て変わりはした。
 結ばれた口は言葉を紡がず、ただ張り詰めた空気だけが部屋に一本、ぎりぎりの緊張感を生み出す。吐息ひとつすらひどく重い。吐き出した二酸化炭素は革靴に落ち、柔らかな絨毯に包まれる。唾を飲み、沈黙を破り続ける。
「俺だけでも、正一君だけでも駄目だ。過去の俺達は何も知らないまま、ただ嵐に放り込まれる。四方八方から一斉砲火を浴びれば、敗北は必至だ」
「気まぐれの綱渡りに、てめぇはこのボンゴレの全てをかけようってのか」
「そうだ」
 言い切った綱吉にXANXUSは眉間の皺を深くする。
「勝てる確率は、ほんの僅かしかない。それでも俺は信じる。信じるしかない。この道しか、白蘭を止める道は、ない」
「…過去のてめえを巻き添えにすることに、そうだな、はっ、罪悪感はねえのか?」
 嘲笑を帯びた声に綱吉は一瞬奥歯を噛み締めたが、膝の上に乗せた拳を固く握りしめる。これしかない。これしかないのである。何億も何兆もの確率の中で、この道しか、残されていない。これしか、ない。
 日本人故か、幼さを残した面を上げる。XANXUSは軽く傾むけている頭の双眼でそれを見た。
「覚悟は、できてる」
 息を吸い込む。吐く。
「野次られる覚悟も、恨まれる覚悟も、幻滅される覚悟も、軽蔑される覚悟も全部、できている。今の俺があらゆる全てを失っても、白蘭を止める覚悟はできている」
「何を犠牲にしても、か?クソ餓鬼」
「何を犠牲にしてもだ。XANXUS」
 会話が再度途切れ、沈黙がシャンデリアの蝋燭の火を揺らす。息を吸い込む音だけが鼓膜を震わせ、綱吉は乾いた口内に唾をためる。
「俺は、ボンゴレファミリー十代目だ」
 進みたくはなかった道を、リボーンに小突かれながらよたつく足で進んだ。幾度もこのボンゴレファミリーをぶち壊そうとすら思った。弱者を守ると言いながら、弱者を恐怖政治による暴力で食い物にしているという見方が付きまとって離れなかった。それは今もまだ、頭の隅にこびりついている。一生、その罪悪感は消えることがないだろうと綱吉は思う。
 膝の上の拳を強く握りすぎているため、内側に爪が軽くめりこみ痛みを生じる。
 それでもなお渇望するのは、平和な、誰も虐げられることの無い未来である。
「俺は、俺の肩にかかる責任を知っている。目を背けられないことも、逃げられないことも。だから、せめて昔…みたいに、追い立てられて仕方がなくそれに立ち向かうんじゃなく、俺が選択したい。決めたのは、俺でいたいんだ」
 綱吉の言葉にXANXUSは肩を揺らし、一つ嗤う。
「少しはまともになったかと思えば、相変わらず乳臭ぇままか」
 放り投げていた足を絨毯に戻し、XANXUSは足先へと体重を移動させると、体を起こして立ち上がる。黒い、しかし以前とは異なり腕や脇の辺りに淡い色の入った隊服が動きに合わせて、のっそりと左右に動いた。
 綱吉はXANXUSの視線を追うように顔を上げる。
「俺はてめぇを十代目だと認めてねぇ。てめぇを守るつもりも欠片もねぇ。ただ、カス共にボンゴレファミリーは潰させるつもりは、ねぇ」
「辛い戦いになる。沢山、死人も出る」
「死体の山に及び腰になってんのは、てめぇらみてえなカスだけだ」
 愚問とも呼べるそれであったが、綱吉は会話を途切れさせなかった。
「今になって、お前の立場の恐ろしさが分かる気がするよ」
 立ち、座っている男を真っ赤な瞳が見下ろす。見下ろされた視線に合わせるように、綱吉は視線を上げた。
「怖い、とても。失うことが怖い」
 十代目としての重責はひどく圧し掛かる。誰にも零せない弱音がある。皆に心配をさせないように、本当の本当の思いは胸の小箱にしまっておかなくてはならない。それでも、自分を認めていないこの人間の前では、綱吉は自然を弱音を零せた。彼は、自分が弱いことを知っているからである。そして、この男は自分を十代目として扱わないからである。
 ただ黙って、ボンゴレファミリーが最強であることだけを、望んでいるからである。
 綱吉は膝の上で握りしめていた拳をほぐし、両手を合わせた。まるでそれは祈りのようにすら見える。
「覚悟してても怖い。守れる確証が、今度ばかりは得られない。相手は俺達じゃない。関係のない人間を容赦なく巻き込む。俺は、愛する人を守れるんだろうか。守れなかった時、彼女の人生全部を、たった一人、俺のためだけに駄目にしてしまったことを、彼女に後悔させやしないだろうか。傍にいてほしいけれど、危険からは遠ざけたい。怪我もさせたくない。怖い思いもさせたくない。お前は、人を殺す立場にあるから沢山怨まれたり、狙われたりするんだろうな。…東眞さんが、危険にさらされていることも、承知でここにいるんだろうね。でも、怖くないか?俺は、怖いよ。すごく」
 自分が傷つくことよりも、自分の大切な人が傷つく方がずっと怖い。怖くて怖くてたまらない。足が竦む。手が震える。
 綱吉の答えにXANXUSは目を細めた。
「それを全て承知で、あいつも俺の隣にいる」
「俺が思ってたよりもずっと、この世界は恐ろしいよ。悲惨な最期を迎えさせてしまう可能性だって、ある。最近、よくそれを感じる。脅威、が現れたからかな」
「全部だ」
 言葉の真意が理解できず、綱吉は怪訝そうに眉をひそめる。全部だ、とXANXUSは珍しくまっとうな、暴言が入っていない会話を続けた。
「拷問されようが強姦されようがなんだろうが、あいつは俺の妻であることを誇りに死ぬ。その覚悟があの女には、ある。そして、俺がボンゴレが最強であることを一番にしていることも、何もかも納得ずくの上だ」
「ボンゴレが、そんなに大事なんだね。俺には、きっと一生理解できない。俺は、俺が守りたい人を守れるだけで、それだけでいいんだ」
「だから俺はてめぇを認めねぇ。暴力なくして暴力的な世界の安寧は為しえない。核兵器の発射ボタンに指を乗せている人間にてめぇは世界平和と愛を説くつもりか。自分を殺そうと武器を向ける人間に暴力は駄目ですよと修道者のように自分が殺される道を選ぶのか。それができるのは、空想の世界か自殺志願者とトチ狂ったカスだけだ」
「説得が可能なら、俺は暴力なんてない方がいいと思う」
「暴力には暴力で対抗するしか方法はない」
「そうかな。俺は、今でも、いやきっとこれからも、説得をすることをやめない。誰も傷つかないのが一番だと思う。だから、お前が俺を認める日は来ないよ」
 でも。
「俺もお前のその方法を、もう、否定はしない。ミルフィオーレを、潰す」
 手をかけ、立ち上がる。立ち上がったドンボンゴレはVARIAの隊服を身に纏った男よりも身長は随分と低い。そして男は顔を歪め、酷く辛そうに、しかし視線だけはまっすぐにXANXUSへと注ぎ、逸らすことをしない。
「立ち止まりはしない」
 上から、XANXUSは綱吉を目を僅かに細めて見下ろした。
「ボンゴレは最強でなくてはならねぇ。常に、全ての頂点に君臨する必要がある。カスみてぇな脳味噌に少しでも叩き込んでおけ」
 そう言い残すと踵を返し、黒い隊服を翻しながら部屋を立ち去った。
 ただ一人残された部屋で、綱吉は糸が切れたように座り込んだ。見上げた天井はやはり高い。十代目、と隼人の声が扉を開く音と同時にこだまする。
「獄寺君」
「なにもされませんでしたか!?お怪我は!失礼なことは言われませんでしたか!」
「…何もされてないし言われてもないよ。相変わらず心配性だなぁ。山本は?」
 苦笑を浮かべながら、心配の色を濃くしている友に綱吉はほっと胸を落ち着ける。
「京子ちゃんは、無事に?」
「はい。CEDEF二名を護衛に安全な場所まで」
 安全な場所という単語に綱吉は目を細めた。安全な場所など、きっともうどこにもないのだ。ミルフィオーレとの抗争は日増しに激しくなっており、死傷者ともに増加し続けている。
 あ、と思い出したような声がぽかんとあいた口から零れる。
「どうされましたか、十代目」
「…東眞さんにもCEDEFをつけるって話…し忘れた。でもまあ…到着したら、伝えてくれるだろうし…一応書面も送ってるから大丈夫かな」
「あのシスコン野郎のところですか」
 修矢のことを相変わらず隼人はそう呼ぶ。喧嘩でもまたしたのだろうかと思いつつ、綱吉はソファに座り直しながら首を横に振る。
「あっちも、攻撃の手が伸びてるみたいだ。同盟は組んでないけど、どちらかと言えば、桧組も俺達に近いしね。京子ちゃんたちと一緒に居てもらおうかと思ってる」
「…わざわざ、XANXUSの妻にそこまでする必要が?十代目。戦力は、今は一人でも欲しい時期です」
 獄寺君。
 綱吉は少し困ったような、しかし言葉を選ぶようにして笑みを作る。
「VARIAだって、俺達のファミリーだよ」

 

 食器棚から、各種一つずつ食器を取出していく。それはもう、必要のないものであった。棚に飾ってあるのに埃をかぶっているだけのような気がして、東眞は段ボール箱と新聞紙の上にそれらを置いていっていた。
 マーモンが死んだ。
 それだけをXANXUSの口から聞かされ、分かりましたと返事をした。戦いの中で果てたのであれば、それはやむを得ないことである。VARIAが如何に最強の部隊といえども、負傷者は少なからず任務の内に出るし、殉職者も出てくる。それはこの職業を生業にするのであれば、当然のことであるし、避けられないことでもある。最後のマグカップを取出し、新聞で包んでいく。
 初めて会った時も、このマグカップを彼は使っていた。小さな手と口で、牛乳を飲んでいた。どうやら幹部にはそれぞれ自分用のマグカップがあるようで、しかしそれも時々割れたりするのだが(特にXANXUSのマグカップの取り換えは頻繁に行われ、主にスクアーロの頭にぶつけられるのが要因であった)、人数分、食器棚にある様子を見ていると、何故だか家族みたいでほっこりした。
 新聞紙に包み、段ボールの中に収めながら、東眞はただ無言で作業を進める。
「マーモンの、しまっちまうのかよ」
「ベル」
 ふわふわと金色の跳ねた髪が視界に入る。柔らかな髪の中には黄金の王冠が埋まっていた。
 振り返り、東眞は、王子様の名を呼んだ。細い指が新聞に包まれたカップを取り、目の高さまで持ち上げると矯めつ眇めつ見る。
「ふーん」
「もう、使いませんから」
「…まー使わねーな。マーモンも、ばっかで」
 目は長い髪の毛に隠れて相変わらず見えることはない。
「ばっかで」
 ベルフェゴールは再度同じ言葉を繰り返し、手にしていた新聞紙をダンボール箱に戻した。小さめの段ボール、その中に新聞紙に包まれたカップに収まる。視線が随分と高くなったベルフェゴールを見上げ、東眞は眉根を僅かに下げた。
 東眞ー、とベルフェゴールは懐くようにその体重を背中から自身よりも背の低い体に掛けた。
「しまうの」
 もう一度同じことを尋ねる。それに東眞はしまいますよと同じように返す。
「もう、いないのですから。マーモンは」
 言葉にすれば、マーモンはやはりもういないことを再認識する。それは幻術ではない。かくれんぼですらない。探せば出てくるようなことではなかった。探しても尋ねても呼んでも、マーモンはもう帰ってはこない。どこにも。
 最後の食器を新聞紙に包み、段ボールに詰め終わる。蓋を閉じ、ガムテープで止める。最後に食器棚の戸を閉めた。一つずつ食器の減った食器棚は、どこか寂しく感じられる。
「何してる」
 空気を割るように入ってきた声に、ベルフェゴールは慌てて東眞に体重をかけるのを止めた。両手を上げ、にっと笑う。
「おっかえりーボス。どーだった」
「…どうもこうもねぇ。…ベル、俺はてめぇにマーモンの後任の面倒を見ろ、と言ったが」
「あーだってあいつムカツク。大体、あの被り物もムカツクし」
 自分で強制的に被せたにもかかわらず、ベルフェゴールはそう不満を零したものの、XANXUSに睨まれて笑いを引き攣らせて終わる。だったら、と壁の方からするりと体には随分と不釣合いな大きな蛙頭を覗かせた、眠たげな眼をした少年が気配もさせず壁際に立っていた。ベルフェゴールは躊躇することなく、その姿に向けてナイフを投げつける。それは命中したものの、少年は何事もなかったかのようにナイフを抜いて放り投げる。
「ミーも暇じゃないんですよーセンパイ」
「うっせ。マジむかつくんだよ、お前」
 さらに数本が重ねるようにして放たれる。扇を描くような軌跡を辿り、そしてやはり被り物と、その細い胴体に深く突き立った。が、しかし結果はどれも一緒であった。東眞はもう驚くこともせずにそれを眺めている。これも見慣れた光景の一環である。
 少年は思い出したという風に、どこからともなくマグカップを取出し東眞に差し出し、そして見せた。
「場所空いたなら、ミーのカップも入れてくれませんかー。誰かの勝手に使おうとすると怒られるんですー」
「…ええ、どうぞ。入れておきます」
 一瞬の間を持たせ、東眞は少年のカップを受け取り、食器棚のガラスを開けて中に置いた。空いた隙間が埋まり、寂しげな感じがしなくなる。
 棚の扉が閉まるとほぼ同時にXANXUSは少年とベルフェゴールを容赦なく睨みつけた。それでも、発作的に段ボールを二人に投げつけるようなことはしなかった。それを見て取ったベルフェゴールは頭の後ろで手を組み、ショートブーツを鳴らす。そういやさ。そう、話を切り出した。
「ボスに手紙届いてたぜ。サワダツナヨシから」
「…貸せ」
 乱暴にポケットに入れていたのか、くしゃくしゃになった手紙をXANXUSは受け取り、中の手紙も破ってしまいそうな勢いで封を切る。鈍い音がし、死ぬ気の炎の印がなされた手紙が出て来、中にはイタリア語ではなく、慣れた日本語で綴られた文面が現れた。それをXANXUSは東眞の視線よりも僅かに高いところに持っていき、中身が見えぬように読む。読み終えると同時に、手紙は憤怒の炎で灰になった。こっえーと白い歯を見せながら、ベルフェゴールは口を開けた。
 封筒までもが灰に帰し、XANXUSはベルフェゴールへと視線をやる。
「ガキ共を呼んで来い」
「…俺をお使いに使えるのなんてボスだけだぜ?」
「センパイ、お使いですか。だっさー」
「うっせ」
「てめぇもだ、フラン。ラーダを呼んで来い。行け」
 じゃー俺Jr.かとベルフェゴールは頷き、そしてフランの脹脛を蹴り飛ばす。悪態を告ぎ合いながら、足早に二人はその場を後にし、命令を遂行しに行った。命令、と言う程のものではないのかもしれない。
 東眞はそんなやりとりを見終えた後、段ボールをよいと抱える。一人でも十分にもてる重さであるそれは、然程重たくはなかったものの、すぐに腕から消えてなくなり、隊服で隠すようにXANXUSの脇に抱えられた。
「有難う御座います」
 しかし、礼を言い終われるや否やXANXUSは今度は容赦なくその持っていた段ボール箱を放り投げた。正しくは、投げつけた。投げた先には銀色の髪が流れている。頭部に直撃したそれは、中空で一回転し、そして被害者の腕の中にしっかり抱え込まれる。落とさないのは彼なりの優しさかそれとも反射なのか。
 耳を劈くような大声が壁に反響して、さらに大きく聞こえる。
「う゛お゛ぉ゛おおおい!!何しやがる!」
「うるせぇ、ドカスが。倉庫に持って行け」
「…ッそれが人にものを頼む態度か、ボスさんよおぶ、ふッ!」
 横脇腹にブーツをはいた足がめり込んだ。くの字に折れ曲がった体はそれでも段ボール箱を放していない。いつものことながら、スクアーロの防御力はすごいと東眞は感心した。止めないのは、それらが彼らの日常だからであり、止めたところでXANXUSが止めることもないからである。
 攻撃の衝撃をどうにか耐えきった後、スクアーロは抱えていた段ボール箱を天地逆さにして眺める。
「こりゃ何だぁ?」
「マーモンの、食器です。もう使わないので」
「あ゛ー…そうかぁ。まあ、そうだよなぁ。倉庫、だったかぁ」
「二度言われねぇと分かんねぇのか。ドカスが」
 容赦なく飛ばされた罵声にスクアーロは分かってらぁと口をへの字に曲げた。そのなんだ、とそして続け、東眞へと視線を向ける。言い忘れていたことを今更になって言うような気まずさをスクアーロは感じたが、一応口にしてはおこうと喉を震わせた。
 マーモンの葬式は簡素なもので、VARIA幹部のみで行われ、他の誰が集まることもなかった。その葬式すらほんの二三十分で終わるようなものである。もっと短かったのかもしれない。最期の別れとしてはあまりにも寂しいものだが、しかしそんなものだとスクアーロを始めとした幹部は割り切っていた。それどころか、葬式などが挙げられたこと自体が驚きである。戦場で果て戦場で朽ち、誰に看取られることもなく死に、死体は烏か野良犬か、あるいはひっそりとどこかの土に埋められるものだと思っていたから、それに参ることがあるとはスクアーロも思っていなかった。ファミリーの構成員であれば、身内による葬式も行われるであろうが、何しろVARIA、暗殺部隊である。そんな常識が当てはまるようには思えなかった。墓の場所など誰も知らず、ひっそりと土になっていくのだと、だからこそマーモンの葬式は意外であったし、驚きでもあった。
 葬式に東眞が参列(と言う程の人数はいないが)しなかったが、本部に帰ってきた時の、どこか疲れた表情はスクアーロの印象に残った。泣いては、いなかった。泣く機会を逃したのだろうかとすら思った。
「こんなのは、日常茶飯事だぁ。気に病むんじゃねぇぞぉ」
「そうですね、有難う御座います」
 言葉とは裏腹に返ってきた言葉は存外あっさりとしていて、スクアーロは虚を突かれた。しかしそれ以上聞くことも躊躇われ、そうかぁと言葉を濁すに終わる。以前、ルッスーリアが言っていた言葉がスクアーロの脳裏を過る。彼女は、自分たちの誰が死んでも泣かないだろう、と。泣けないのではない。泣かないと彼女は、彼は言った。
 間違いではない。スクアーロは視線を逸らし、腕の段ボール箱を抱え直した。新聞紙か何かで包んでいるのか、音はしなかった。
「行くぞ」
「はい」
「う゛ぉお゛い、ボス」
 スクアーロは背を一度向けた上司の背に声をかけた。ただ、不思議に思うことがあった。
「、」
 しかし、
「何でもねえぞぉ」
「…ドカスが」
 こちらの心情を察したのか、あるいは興味がなかったのか、XANXUSは暴力をふるうこともなくスクアーロとは反対方向に歩き始めた。それに伴い、東眞もスクアーロに軽い会釈をし、その背を三歩ほど下がった場所で追いかける。
 段ボール箱は軽い。
 東眞を避難させるのか。
 聞きそびれた、正しくは聞かなかった疑問をスクアーロは銀糸を泳がせて考える。
 ミルフィオーレとの戦いはこれからより激化する。東眞がここに居た場合、足手纏いにしかならない。中途半端な治療、それこそ家庭療法など邪魔なだけである。ここが襲撃された場合、人質にされた場合、足手纏いになれば切り捨てはするだろうが、正直を言えばそれは現実的ではない。初めからそうなることが想定されているのであれば、避難させるのが常套である。
 石畳の床をブーツが叩く。以前とは異なる隊服、脚の両脇を走っている淡いラインが目立つ。
 沢田綱吉の女は既に避難させたとスクアーロは風の便りで聞いていた。巻き込める女と、巻き込めない女がいる。それもまた事実である。XANXUSにとって、東眞は果たしてどちらなのだろうかとスクアーロは思う。しかし答えは容易く、まともな戦闘もできない東眞を巻き込めるはずもない。彼女が自分の身を守れるのは、あくまでも、一般人、あるいは通常の武器で襲い掛かられた場合だけの話である。屈強な、自分たちのように戦闘のために日々神経を研ぎ澄ませている人間と戦えば、彼女は死ぬだろう。
 死は、つきものである。
 スクアーロは今更ながらに笑いがこみあげてくるような事実に唇を歪めた。手に持っている段ボール箱が、ずしりと、重たく感じられた。勿論、何が増えているわけでも、なかった。