38:Capomafia o Padre - 1/8

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 Hallo、と見なれない女性に声をかけられた。普段耳に触れるのはイタリア語か日本語だけなので、英語などついぞ久しい。東眞はそう思いつつ、Halloと言葉を返した。そして声をかけてきた女性をへとその黒味が強い灰色の瞳を動かした。周囲には、子供を迎えに来ている母親たちがわらわらと通り過ぎて行く。
 女性は大層、控えめに見ても十分に美しい。透き通るような金髪に高価さと高貴さを併せ持った宝石のような碧眼。僅かなウェーブを描いているその絹糸のような髪は真っ白な肌の上にかかると、なお女性の美しさを際立たせる。女性特有のライン、しかしそれはさらに強調されており、出るところは出ており、締まっているところは申し分なく締まっている。通りかかる男の目を思わずひきつけてしまう様なボディラインを形成していた。
 これが世に一般で言われる美人と言う部類に入る人間だろうと東眞は率直にそう思った。そう思わせるだけの気品と美を、声をかけてきた女性は持ち合わせていた。ふっくらと美味しそうに見せるルージュが引かれた形の良い唇が大きく動く。メリハリのある唇を大きく動かすそれは、日本語にはないものである。
「Nice to meet you, Ms. I’m Emma=Howard. Do you know Howard family which is one of the best Mob in the USA?」
「Well……モブ?Excuseme, I can’t understand what you say. Could you speak more slowly?」
 べらべらと通じて当然とばかりに話しかけてくるその英語はかなり早い。英語に耳慣れていない東眞にとって、彼女が何を言っているのか、十分の一も理解できなかった。聞き返してきた東眞に、エマと名乗った女性はあからさまに馬鹿にしたような目を向けた。この程度の英語も理解できないのか、と言わんばかりの表情であった。自分の英語が拙いのは、イタリア語も日常会話がせいぜいなのだが、重々承知なので、東眞は向けられた目に関して腹を立てることもなかった。こういうことに付き合って馬鹿を見るのは自分である。
 しかしモブとは何であろうか、と東眞はよく分からなかった単語の意味を尋ねるために、エマのスピードとは比べ物にならないほどに遅い英語で話しかけた。
「What is モブ? So sorry, I don’t know what’s means モブ」
「You DON’T know!? You don’t mean that, do you? Oh!」
「…So sorry, please tell me what is モブ」
 ここまであからさまに馬鹿にされるとあまりいい気はしないのだが、東眞も持ち前の性分でそこをぐっとこらえて大人しくもう一度理解できなかった単語の意味を問う。
 それにエマは勝ち誇った目で東眞を頭の先から足の先まで観察するかのように見てから、鼻を一つ鳴らした。
「Mob means mafia」
「ああ」
 成程、と東眞はそこでようやく女の言いたいことを理解した。つまり、彼女はマフィアの人間であり、おそらくその娘か妻で自慢をしたかったと言うことなのだろう。どこの世界にでもこういう人間はいるものだ、と東眞は結論付けた。しかし、東眞は彼女に下げる頭を持ち合わせていなかった。
 にこやかに頬笑み、東眞は軽く会釈程度のお辞儀をした。
「Nice to meet you Ms. Emma. My name is 東眞」
 それだけで東眞の自己紹介は終わった。自分がXANXUSの妻であることを東眞から明かすことはしない。言うまでもなく、マフィオーゾの妻であることすら東眞は口上に乗せることはなかった。英語で話しかけてきたこと、それからUSAという単語が出てきたことから、彼女はアメリカンマフィアであろうと東眞は見当をつける。アメリカからイタリアにまで、手を伸ばしてきたのだろうかとそこまで考えてみたが、その辺りは裏付けすることも不可能なので、考えるのを止めた。
 にこと愛想笑いを浮かべた東眞に、やはり勝ち誇った笑みを浮かべたエマは豊満な胸を見せつけるようにして腕組みをする。肩が凝りそうな胸だと、全く関係ないことを東眞は思う。
「I have a son, Logan――――日本語でお話しした方が宜しい?」
 なら初めから日本語で話してくれればよかったのに、と少々白けつつも東眞はそちらの方が助かりますと笑顔で答えた。しかし自分の英語力のなさは致命的な事実にも気付かされ、これは英語を勉強し直した方がよいのかもしれないとそんなことを思う。
 滑らかな腰のラインを揺らしてエマは笑った。
「あなた、お子さん一人だって聞いたのだけれど」
「ええ。一人ですが」
「その後の予定とかはないの?もう五つになるのに―――夜の方はさっぱりなのかしら?」
 顔から表情が落ちそうになるのを東眞は辛うじて堪えた。この程度で切れる堪忍袋の緒ではない。それに、自分の容姿が一般的なのは(ボディラインがどうこうは気にしない)XANXUSと結婚する前から知っていることだし、時折連れだされるパーティーで今でも時々向けられる「お前程度」の意図を含んだ視線には慣れている。今更、何を怒ることがあるだろうか。
 東眞は顔をあげて、黒髪をざらつかせた。宝石の瞳をまっすぐに見据える。エマはほっそりとした指の先にある華やかな手入れを施された爪をふっと吹いた。その姿一つですら様になっている。
「あなたは、お子さんはローガン君一人ですか?」
「いいえ。来年三つになるレイフがいるわ。私たち、マフィアの妻の女の仕事は夫を支え―――子供を立派なマフィオーゾに育てることですもの。あら、ひょっとしてあなた、そんなことも、知らなかった?」
「子供は子供の行きたい道を行かせて支えてやるのが、母の仕事だと思っていますから」
 その答えに、エマはぷっと体を曲げて笑った。嫌な笑い方をする、と東眞は軽く眉間に皺を寄せる。
「そう、そうなの。まぁ、そうね。子供に恵まれない女の言うことなんてその程度。たった一人の息子すらマフィオーゾに育て上げることができない情けない女が、あの九代目実子の妻だなんて…ごめんなさい。笑ってしまったわ」
「あの人を侮辱するのは止めてください」
「侮辱させている原因は誰?悔しかったら、あなたの子供も立派なマフィオーゾにしてごらんなさい。でも、子供もまともに産めない女が夫に愛想尽かされるのも分かりものね。一人息子だからなおさら溺愛して、危ないところには出したくないと言うところかしら。ボンゴレファミリーの次代がその程度なら、私たちが力をつけるのもそう遠くない日ね」
 かつん、と高いヒールの音が東眞の横に並ぶ。金糸がゆらめいて視界から消える。
 東眞は腹を押さえていた。きっちりと切られた爪、マニュキアはしていない。水仕事をはじめとした家事を繰り返しているから手も少しばかり荒れている。だが、容姿程度のことはどれほど言われても構わなかった。その程度は、気にならない。セオの育て方はXANXUSと相談して決めたことだから、これも同様に何を言われてもいい。しかし。しかし、と東眞は腹の上、子宮の上に置いた手に力を込める。
 だがその時、マンマ!と明るい声が響いた。そちらを振りかえると、立ち止まっている金糸が太陽の光を浴びて神々しく光っている。美しいそれはまるで女神すら思わせる。
 ルッスーリアを引っ張るようにして現れた、黒髪の少年は顔をほころばせて大きく手を振った。
「んもう、Jr!そんなに急がないのよ、こけちゃうわよ!」
「平気だよ!大丈夫!」
 華やかな髪型ときっちりとした体を形成するラインだが、ルッスーリアは男である。しかし女性にすら劣らない、むしろ女性と思わせるほどの女性らしさが備わっている。そんなルッスーリアを見たエマは、くっと東眞に聞こえる程度に笑った。
「あんな程度がボディーガード?オカマなんて情けない人間…次代じゃなくて、今のボンゴレファミリーの格もしれたものね」
 あからさまにルッスーリアを貶められて東眞は眦を吊り上げたが、その前にエマはかつんとヒールと高く鳴らしてその場を後にしていた。ルッスーリアたちの少し後ろにいる、明らかに屈強なボディーガード、黒いスーツに身を包んだ男とその下でそばかすを散らした少年の元へと歩いて行った。
 東眞はぽすんと足元に衝撃を受けて、視線を下げる。
「マンマ!帰ろ!」
「―――ええ、そうですね」
 怖い顔をしないようにと東眞は先程のことを意識の奥に落として、穏やかな笑顔をセオに向けた。母の笑顔にセオはさらに笑顔を大きくして、だっことねだる。それにルッスーリアは苦笑しながら、後ろからひょいとセオの両脇に手を差し込んで持ち上げた。
「わ」
「ほーら、私にもちゃんとおねだりしなさいな。ちょっと傷つくわよ?」
「ルッスーリア高い!でも、レヴィの方が高いよ?」
「そりゃね。高いわよ、レヴィは。でもルッス姐さんの肩車だって高いじゃない?Jrはまだまだおチビさんだものね」
 笑ったルッスーリアにセオはぷぅと両頬を膨らませて、そんなことない!と機嫌を損ねた。そんな二人のやりとりを眺めながら、東眞は思わずつられるようにして笑いをそこからこぼす。嫌な気持ちが吹き飛ぶ。
「私も、ルッスーリアの高い世界を見てみたいですね」
「あら。ならボスにおんぶでもしてもらえばいいんじゃない?」
「していただけると思いますか?」
「ないわね」
 明るく笑うルッスーリアに東眞は目を細めて、帰りましょうかと手を伸ばした。上に伸ばされた手にセオはきらきらと目を輝かせて、ルッスーリアの両肩の上で器用に立ち上がるとぱっと東眞の手の中に飛び移った。途端に、五歳児の重さが一気にかかるが、どうにか持ちこたえ、東眞は腕の中から一度下してセオを背に上げさせる。
 セオは母の背中に耳をくっつけながら、落ち着いたように目をつむった。
「俺、マンマの背中大好き。温かくって、とくとくって音がすごく好き。マンマと一緒って感じがする」
「…いつでも、セオと一緒ですよ」
「ルッス姐さんも一緒よー!」
「わっ!」
 背中から抱きつかれて東眞は思わず声をあげて笑う。サンドイッチで押しつぶされたセオはぷぎゅと小さな声を上げたが、すぐに明るい笑い声を弾けさせる。
 何を気にする必要があるだろうか、と東眞はその笑い声で消えてしまった不快感から目を背けた。
 子供が産めなくても、愛してくれる人がいる。子供を産めなくても、愛する我が子がいる。子供を産めなくとも、自分を大切に思ってくれる友人がいる。それを恥じることは、自分を大切にしてくれる人たちに対する失礼に他ならない。気にすることなど何もない。
 セオはサンドイッチの状態からするりと隙間を通って、地面に足をつけて、たんと走り出す。
「あそこまでかけっこしよ!俺いーちばん!」
「あら、そんなフライングは卑怯よ!」
「二人とも速いんですから、少しは手加減してください!」
 そう笑って東眞は駆けだしていく二人の背中を追いかけた。

 

 今日、とセオは父親の隣に立ち揺れ動く的をじぃとその銀朱で見ながら口を動かした。二歳の時に渡した銃はもう手に合わず使い物にならないので、新しい大きめの拳銃が握られていた。その銃口の先には黒白、中心部に赤い丸が描かれた的。セオは一度狙いを定めて引き金を引き絞った。力を込めれば簡単に引ける引き金が完全に引かれると、その反動が腕に直接伝わってくる。びり、と走ったその振動を堪え、セオは揺れ動く的を見た。真ん中よりも少し左に穴が空いている。
 ごん、とセオの頭に軽い衝撃が走った。痛いと文句を言おうとしたが、それを言えばさらなる痛みが待っているので、セオはそこで口をつぐんだ。
「カスが。無駄遣いするんじゃねぇ」
「…でも」
「口答えすんな、糞餓鬼が。的に合わせて撃つんじゃねぇ。的の動きを予測して撃て」
 こうだ、とばかりにXANXUSは自分の拳銃を取り出して、そのまま片腕で引き金を引いた。銃口の大きな銃はそれだけで反動が凄まじい。それを片手で撃つ父親にセオは目を丸くしながら、穴の空いたところを見た。赤い部分が綺麗に消え去っている。
「撃て」
「Si」
 もう一つの的が持ち上がり、セオは両腕で銃を支えて、的の動きに集中しながら引き金を引く。両腕に拡散された衝撃を受け止めてセオはまっすぐその先を見る。赤い点が消えていた。やった!と声を上げたが、それしきで喜ぶんじゃねぇと見事に叱咤された。自分の父が自分を褒めてくれることなどないのではないかと、セオはそんな風に思う。
 銃弾の残数が0になったので、セオは弾倉を落として新しいものを銃に手なれた様子で取りつける。二歳から、勿論当時は玩具のようなものだったが、それを毎日繰り返していればいい加減に体の一部になるくらいには覚えると言うものである。
「それで」
「え?」
 椅子に足を組んだまま座っている父親の言葉にセオは、目をそちらに向けて怪訝そうに返した。XANXUSは、今日と言葉を紡いだ。
「何かあったんだろうが」
「…うん。今日ね、新しい子が来たんだ。名前なんて言ったっけ…えーとえーと…えーと…」
「人の名前一つ覚えられねぇのか、てめぇは」
「そんなこと…ない…もん。あ、そう!ローガン!ローガン=ハワード!」
「ハワード?」
「うん。ハワードだって言ってた。なんだかすごく自慢げにハワードファミリーだとかなんとかって」
 言ってたような、とセオはおぼろげな記憶を探る。どうでもいい記憶は今一思い出しにくい。
 考え込んでいるセオを他所に、XANXUSはハワードと言う名前を記憶の戸棚から引き出す。確か、最近アメリカで急成長を果たしたファミリーだったように記憶している。麻薬を始めとした銃火器の販売、売春、政治にも癒着しており、急成長の裏で流れた血は多いと言う話である。尤も、それはこちらも大差はないのだが。
 アメリカ生まれの粗忽者は、イタリアのコーザノストラの本当の恐ろしさを知らない。どうせ馬鹿でもしでかして勝手に消えることだろうとXANXUSはそう考えをくくった。おそらくそれは、間違いではない。アメリカからわざわざイタリアに来たのは余程の自信があってのことだろうが、そんなくだらない自身と経済力だけで大手を振って歩ける程ここの地面はコンクリートで整備されたものではない。年長者に対する礼儀も弁えずにやりたい放題できる場所ではない、ということだ。
「バッビーノ?」
「いや。おい、手が止まってるぞ」
「あ、それとね。俺、マンマにおんぶしてもらったんだ!」
「…」
「わ!」
 弾丸がセオの眼前を通り過ぎて黒髪がひと房食いちぎられる。睨みつけてくる瞳にセオは軽く肩を寄せてぶぅと頬を膨らませる。
「だって」
「今死ぬか」
「だって」
「うるせぇ」
「俺、マンマの子供なのに」
「糞餓鬼が」
「…バッビーノそればっ
 か、と言おうとしたセオだったが、言葉は最後まで続けられずに、拳銃が収められていた箱を顔面に直撃させた。ふら、と足がふらついてそのまま後ろに倒れる。尻餅をついて、セオは痛い、と涙目になりながら、膝の上に落ちてきた銃の箱を手で持ち直す。鼻血は出ていないが、結構な衝撃であった。
 むすぅ、とセオはムスくれて父親を見やる。
「バッビーノ、マンマがおんぶしてくれないからっでっぇ…!」
「誰がしてもらいたいなんざ思うか、カスが」
 したらしたで押しつぶされるのは女の方である。そんなことにも頭が回らないのか、とXANXUSは一つ舌打ちをして立ち上がると、座っているセオの頭に容赦ない拳を落とした。いい音がしてセオは頭を抱え込んで小さく呻く。数秒そうやってじっとしていて、セオはふっと顔を上げた。
 そういえば、とその口がことばを紡ぐ。
「俺、変かなぁ」
「ああ」
「…」
「変だ」
「俺、あのローガンあんまり好きじゃない。あと、ローガンのマンマも、好きじゃない」
 XANXUSの言葉を聞かなかったかのように、ローガンのマンマとは話したこともないのに変だよね、とセオは自問自答するように口を動かす。
 確かに珍しいことだ、と考え込むセオを赤い目で見ながらXANXUSは思った。セオは基本的にあまり人を嫌いだと言わない。勿論それを口にすることもあるが、それは結局一時的なものであり、何らかの理由がある。だがここにおいて、セオはそのローガンとやらとローガンの母親ともまともに口を聞いたことがない。にも関わらず、不快感をあらわにしている。子供は感受性が大人よりも鋭いからそう言った部分も作用しているのであろうが。どちらにしろ、珍しい。
 黙って見下ろしているXANXUSの表情を気にすることなくセオは続ける。
「マンマがね、多分ローガンのマンマだと思うんだけど、一緒に居たんだ。マンマ怖い顔してた。それに、」
「それに」
「悲しそうな顔、してたから。俺、あのひと嫌い。ローガンは、何かわかんないけど、好きじゃない。嫌な感じ」
 好きじゃないから嫌いにまで降格したローガンの母親たる人物をXANXUSは頭の中で思い描く。セオとXANXUSはほぼ同時にふっと扉の方へと目をやった。人の気配が近づいてきている。扉が開かれ、話の中心の人物が姿を現した。
「セオ。ルッスーリアがホットケーキ焼いてくれましたよ」
「ほんと!?バッビーノ、俺食べに行ってもいい?」
「勝手にしろ」
 はしゃいだ子供にXANXUSは、的を見てそれからセオを見て、溜息をついてから軽く追いやるようにして手を振った。セオはきらきらっと目を輝かせて部屋を飛び出した。東眞もそれについていこうと背中を向けたのだが、腕が強い力で掴まれており、それ以上前進することはできなかった。
 自分の腕をわしづかみにしている大きな手を見て、東眞はどうされたんですか、と声をかける。それに赤い目がじろりと灰色の瞳を見下ろす。溜息が一つつかれて、その後に低い耳に心地よい声がこぼれた。
「何か、言うことはあるか」
「いいえ。ありません」
 その返答にXANXUSは空いている片方の手で東眞の髪を頬をそうようにして耳までかきあげる。ゆっくりとした仕草に東眞はくすぐったく目を細めた。心配させたのかと笑う。
「セオにまで気を遣わせてしまいましたか」
「遣わせてろ。構いやしねぇ。本当に、ねぇのか」
「―――甘やかしすぎじゃ、ないですか?」
 眼鏡の奥で笑った目をXANXUSは不愉快そうに見る。これは甘やかすとは言わないのではないかと言いたいのだが、言葉はついぞ出てこない。溜息を混じらせれば、東眞はその大きな胸にことりと体を寄せてもたれかかった。
「いいんです。貴方の言葉があれば、それで」
 本当にと東眞はとくとくと耳に伝わる心音を聞く。セオが言っていた言葉が思い起こされて、成程と思う。確かにこれはとても落ち着く。
 寄せられた細い体にXANXUSは腕をまわして、少しばかり腕に力を込める。折らない程度に。泣き声は聞こえないが、きっと泣いているのではないだろうかとXANXUSは思う。いつも、思う。この女は常に涙を流さない泣き方をする。この二つの腕が一体何のためにあるのか、今一度彼女は知るべきである。
「なら、俺の言うことだけを信じてろ。下らねぇ言葉なんざ気にするんじゃねぇ」
「はい―――…はい、はい」
 ささくれ立った心が少しずつ痛みを失っていく。温かい、と東眞は思った。そしてもう暫くだけこの腕を占領することを許してほしいと、自分の両腕でその体に抱きついた。大きな体は二つの腕では足りず、背中に回した指先が合わさることはない。
 自分の心臓よりももう少し高い位置にある心臓。それはきっとどんな言葉よりも、東眞を落ち着かせた。ドカスが、と小さく落ちてきた言葉に東眞はそうかもしれないと思いつつ、自分の力では到底潰れない体を強く強く抱きしめた。
 そしてXANXUSは先程まで部屋の外に残っていた気配が消えたのに目をちらと動かして、そして細い体に込める力をもう少しだけ強くした。