26:振り回されて三回転 - 1/5

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「―――――――――ボス」
「何だ」
 書類を片手に、スクアーロは目の前の光景に絶句したい気持ちを抑えつつ、男の呼称を呼んだ。男の方は悪びれる様子一切なく(実際ないのだろうが)全くもって横柄な様子でそう返事をした。返事をするのはいい。構わない。スクアーロの視線はその腕の中に注がれている。
 そう、構わないのだ、別に。
「…その餓鬼いい加減に東眞に返してこいぃ…」
「るせぇ」
 赤子を片手に今宵の任務内容に目を通している姿は、とても奇妙である。
 あの強面を上にしてびくりとも泣かず、その指先をしゃぶっている姿は非常に――――――――非常に、不気味である。涎で指がべとべとになっているのを気にしていない上司、Xをその名に二つ持つ男も珍しい。明日はレヴィが謀反でも起こすかもしれない。
 だがしかし、思うにこのままこんな乱暴かつ粗暴な父親の姿を見て育ったならば、とスクアーロの背がぞっと冷える。想像したくない。まだその外見は幼いせいかとても愛くるしいが、が、気のせいか(気のせいであって欲しい)外見が、目元辺りなど、似ている。誰にとは言わない。スクアーロはまさかの将来を想像して眩暈を覚えた。割れるグラスと頭痛と請求書が二倍である。泣きそうだ。
 そんな心配事に心のうちでそっと涙を流しているスクアーロをよそにXANXUSは渡された書類に最後のサインをしてスクアーロに突き返した。そう大きな任務でもないので、徹夜はせずに済みそうだとスクアーロはそれを受け取って二つに折る。そこで珍しく手招きをされているのに気づいて、そちらに近づけば、その涎で見事に汚れた指を服になすりつけられた。唖然としてスクアーロは一瞬言葉もなかったが、すぐに我に返って何しやがる!と怒鳴りつける。
「ハ」
「て…っ、てめぇええええ!!!このクソボスが!!!」
 いい加減に、と怒鳴りつけようとしたその瞬間、スクアーロはXANXUSの腕の中にいる赤子の顔がふぇ、と潰れたのを目にした。ひくりと小さなしゃくりあげがその場にいた二人の耳に聞こえた。そして、勿論次の瞬間には、
「ァア――――――――――!!!」
 耳を劈く泣き声が響いた。子供は泣くのが仕事と言うが、実際に泣かれると喧しい。その泣き声を間近で聞いている男の眉間に大量の皺が寄っている。そもそも煩いのは嫌いな男なので、仕方ないとも言える。
「…どうにかしろ」
 ぐい、とまるで猫でもつまむように押し出された赤子にスクアーロは、ふざけんなぁ!と怒鳴り返した。その声に反応して、赤子はさらに大声を張り上げる。
「てめぇの餓鬼だろうがぁ!てめぇでどうにかしろぉ!」
「るせぇ!泣かせたのはテメェだろうが!ドカスが!」
「ドカスドカス言うんじゃねぇ!こいつが言い始めたらどうする気だぁ!!」
「はっ!ドカスはドカスでいいじゃねぇか」
「良いわけがあるかぁ!!」
 二人の言い合いに挟まれるように、未だ宙ぶらりんの赤子はさらに声を上げた。
 互いの言い合っている声すらもまともに聞きあえないほどの大声にさしものXANXUSも赤子を机の上に座らせた。まだ首が座っていなので、ころんと横に倒れてさらに泣く。
「ど、どうにかしろぉ、ボス…!」
「知るか」
「…知るかってなぁ…てめぇの息子だろうがぁ…こう、好きなもんとか…」
 まだハイハイができないので、この机の上から落ちることもないだろうが、万が一のことも考えて、スクアーロは机に放られた子供を抱き上げる。尤も、泣き声の距離が縮まったということで、さらに喧しく耳が壊れそうになったが。
「あやせ」
「てめぇがし、
 ろぉ、と言いかけたが、ここで怒鳴りつけるとさらに泣くのは目に見えているので、スクアーロはぎりぎりと胃痛を覚えながら、本で読んだように軽くゆすってみる。しかしながら効果は全くなく、あぁん、と喧しい泣き声が続く。
「は、腹が減ってんじゃねぇのかぁ」
「授乳ならさっき済ませた」
「てめぇがやったみてぇに言うんじゃねぇ…想像すんだろうが…」
 気色悪い、とスクアーロは顔を盛大に引きつらせたが、その顔面を拳にたたき割られる。二三歩よろめいたが、赤子を取り落とすことなく、スクアーロは溢れた鼻血を押さえた。
「い、いい加減にしろぉ!」
「うっせぇ。ふざけたことぬかしたてめぇが悪ぃ」
「何でもかんでも俺のせいにしてんじゃねぇ!」
「黙って泣きやませろ」
 どこまで横暴なんだ、と自分の我儘な上司にスクアーロは泣きそうになった。既に泣いているかもしれない。
 腕の中の重みは一向に軽くならず(なるはずもないが)泣きわめく声はひたすら大きくなるばかりである。その様子にXANXUSは大きく一つ舌打ちをして、一言、スクアーロに施しを与えた。
「役立たずが」
「――――――てめぇの不始末を俺に押し付けといて言うセリフがそれかぁ!」
「餓鬼一人泣きやませられねェとはな」
「てめぇだって泣きやませてねぇだろうがぁ」
「るせぇ、死ね」
 あんまりだ、とスクアーロは全人類が死滅したような顔で項垂れた。何が悲しくて、ここまでずたぼろに言われなくてはならないのか。その由縁を是非とも知りたいところである。
 ここまで来てスクアーロはふとようやく、と言うべきだろう、この腕の中の母の存在を思い出す。
「母恋しさかぁ」
 泣き始めた原因は自分たちのやりとりであるにせよ、泣きやまないのはその可能性が高い。原因が分かって、スクアーロはほっと胸をなでおろした。後は東眞さえ探し出せば話は終わる。任務も心おきなく出られるというものだ。
 だがしかし、目の前の男に背を向けた瞬間、その後頭部に鈍い痛みが走って、ごとんと絨毯の上に鈍いものが落ちる音がした。痛みを堪えて、スクアーロは強い眼差しをXANXUSに向けて、睨みつける。
「何しやがる!」
「…泣きやませろ」
「だから、今東眞をだなぁ、」
「ここで泣きやませろ」
「…何言ってんだぁ、ボス」
 はて、とスクアーロは首をかしげる。泣きやませるのは分かるのだが、ここで泣きやませる必要性は見いだせない。椅子にどかりと腰掛けて、セオが泣きやむのを睨みつけて待つXANXUSにスクアーロは軽く言われたとおりに腕をゆする。尤もそれくらいで泣きやめば全くもって苦労はしないが。しかしながら、十分ほどそうしていると、泣き疲れたのかどうなのか、ようやく軽くしゃくりあげる程度にまで落ち着いた。
 ほっと胸をなでおろしながら、スクアーロは全身の力を抜く。銀色のカーテンの隙間から見下ろせば、朱銀の瞳が涙できらきらと輝いていた。泣きやんでいる姿は可愛らしいのだが。
 スクアーロは返せ、と労いの言葉一つなくスクアーロにそう要求したXANXUSに溜息をつきながら赤子を返した。はなから期待はしてないが。軽くなった腕を軽く振りながら、スクアーロはまた赤子を腕に抱いてゆったりと椅子に腰かけている男に目をやった。
 大きな男と小さな赤子の絵柄は一見ほほえましいのだが、男の方の眉間に皺が寄っているのが玉にきずである。相変わらず寡黙なためか、口を閉ざした男はもうそれ以上のことを口にしようとしなかった。
 そしてスクアーロはかちんと秒針が一つ動いたのを契機にその部屋を後にした。

 

「そんなことがあったの?」
 ごきりと骨が砕ける音が消えた後、ルッスーリアは首の骨が折れてもうピクリともしない骸をその場に落としてそう返事をした。対してスクアーロは刃に付着した血を振り払ってからまぁなぁ、と溜息交じりにそう答える。
 生き残りはいないか、それだけを最終確認してから、スクアーロとルッスーリアは何事もなかったかのように後始末を部下に任せてそこを出る。
「東眞呼んだ方がもっと早く泣きやんだぜぇ。それをここで泣きやませろだぁ、全くふざけてやがる」
「泣きやんだんだからいいじゃないの」
「そうは言うけどなぁ。お陰で仮眠取り損ねたぜぇ」
 書類整理で疲れた目に休息を与えたかったのだが、とスクアーロは本日何度目になるかわからない溜息をつく。
「東眞、Jrにべったりよねぇ、いつも。だからかしら?」
「そうなら、俺に押し付けるかぁ?」
「…ああ、そうね、成程」
 一人で納得してしまった同僚にスクアーロはどういうことだぁ!と大声で説明を求める。その喧しさにルッスーリアは肩耳をふさいで、そう喧しくしないのよ、と肩をすくめると軽く指を振ってから答えを述べた。
「逆の見方をすれば、Jrが東眞にべったりなのよねぇ。それ」
「…おいおい、餓鬼に嫉妬ってかぁ?流石のボスもそこまでは…、」
 ねぇ、と言いかけて、言いきれずにスクアーロは頭を悩ませる。ありうる辺りが、らしい。
 つまり、仕事が忙しくて側にいられない→いられないが息子は側にいる→気に食わない→手元に置いておけばいい、という段階を追ったのだろうか。全くそれが、リアルに想像できてさらに頷けるのだから恐ろしい。
「…ま、殴らねぇ辺り、あいつも父親ってことかぁ…」
「微笑ましいわよねぇ」
 くすくすと笑ったルッスーリアだったが、スクアーロの匂いをくんと嗅いで、ところでと話を切り替える。一体何だとスクアーロは瞬きを一度だけして、ルッスーリアの言葉の方に耳を傾けた。
「アナタ、ちょっと乳臭いわよ」
「…」
 俺が乳臭いならあの男はそれ以上だろう、とスクアーロは確信した。そしてきっと今頃、赤子を寝付かせている東眞の隣で、不機嫌そうな顔をしている上司の顔がありありと瞼に浮かんで、
「やってらんねぇぜぇ…」
 報告書を持って行った時に八つ当たりをされるのだろうと、もう吐きあきた溜息をもう一度吐いた。