次こそ

 頬を伝った汗を手の甲で拭う。ゾロは肺胞内部の二酸化炭素全てを吐き出すかのように、大きく深く息を吐いた。そして瓦礫の上に悠然と座って、さも楽しげな笑みを口に乗せている女へと視線を移す。
 一体いつからいた等々質問は多くあるが、それ以上に不愉快という感情の方が勝り、眉間に力が籠められる。強くなった男の眼光に女は目をすがめ、久々だなと当たり障りない挨拶をした。全身の筋肉の緊張が空気を介して女へと伝わっていたが、しかし女はその不機嫌さを知りながら相手にしようとしない。
「何をしているんだ?」
 その代わりに、ゾロが握り持っている刀に興味を示した。そこに至って、ゾロはようやく女の周囲に自身が苦戦を強いられたヒヒの姿が見当たらない事実に気が付いた。そして女の身体には傷一つなく、さらに息一つ乱れていない。
 目元に力が入り、下瞼が微かに痙攣する。からからに乾いた喉に音が擦れ、ゾロは言葉を発した。ヒヒは、
「ヒヒは、どうした」
 一度倒したその動物は、手を変え品を変え、進化と呼ぶに値する攻撃を城壁から一歩出れば仕掛けてくる。そのような意味において、連中はゾロにとって格好の訓練相手であった。その相手が、考えてみれば今朝から姿を現さない。異変を感じるべきであった。
 ゾロの言葉に女はああ、と唇を親指でなぞりあげる。そして、回答としては非常に単純明快なものを返した。単純、というべきか、それは初めからにたくしかありはしないのだから、質問はすなわち愚問でもあった。
「転がっているぞ、後ろに」
 瓦礫の山。そのうちの一欠けらが音を立てて崩れ落ち、男の足元まで雪崩を起こす。幸いそれは全体においては微々たるもので、交代する必要もなく、ゾロは両足を砕けた煉瓦の上に置いたまま、動きはしなかった。
 成程とゾロは理解し、そして携えていた刀を構えた。三本目は上下の歯で噛み締め、固定する。発した声は多少くぐもったが、それでも十分に女に聞こえる範囲である。
「おれと戦え」
「お前の稽古相手になれか?」
「刀を抜け」
「うぅん」
 女が唸ったと同時に、重たい音を瓦礫と擦りあわせ響かせながら門扉が開かれた。扉に対してひどく小さく、壮年の男、ジュラキュール・ミホークは見えたが、実際のところ、男は普通の成人男性と比較しても大きい部類の人間であった。
 フリルが首周りを覆った格好で、ミホークは刀を構える男とそして瓦礫の上にしゃがんでいる女をそれぞれ一瞥した。
「やめておけ」
 そうして吐かれた言葉はそれであった。ゾロはミホークの言葉に納得がいかないといったように眦を釣り上げたが、ミホークは意に介さず、ゾロへとさらに言葉を投げつけた。
「己の力量も図れぬ男ではあるまい。それともその女に勝てると、そう思っているのか。不遜」
 傲慢よ。ミホークの言葉に女は呵呵大笑した。そして、ゾロの申し出に対し、首を縦に振った。見開かれた瞳は挑発的な色で爛々と輝いている。半ば、戦闘狂のような印象さえ持たせた。
 瓦礫の上に立っていた女はゾロと、そしてミホークが立つ高さにまで滑落し、粉塵を散らして停止した。下から見上げていたせいだけではなく、同じ高さに立っても、その女の背は十分に高かった。頭一つより高い位置までゾロは顎を持ち上げ視線を合わせる。
「以前約した勝負だが…どうにも果たせなかったからな」
「約束?お前が約束などできたのか」
 ミホークの言葉に、ミトは失礼だなと顔を歪ませ苦笑を浮かべる。
「海賊の約束などあってないようなものだ。とりわけ、お前のような海賊は」
「一理あるが、私も守る努力はしている。そう邪険にしてくれるな、鷹の目。それとも何か。お前の可愛い弟子に手を出すのは気に食わないか」
「弟子ではない。教えを請われているから教えているまでのこと。なに、おれを倒すと豪語した男を己の手で育てるのも一興」
「相変わらず変な奴だなあ、お前。まあその気持ち、分からんでもない。戦うのは、楽しいからな」
 ゾロは会話が完全に自身を置いて行っている事実に気が付き、おいと声を荒げる。視線が丁度二人分注がれ、一度たじろいでから、ゾロはおれとの勝負はどうしたとすっかりそれてしまっていた話を本筋に戻した。
 男の言葉に、そうだそうだと思いだしたように軽い返事がなされる。それに対して顔を顰めたゾロを半ば咎めるような響きさえ持って、ミホークはその名を呼んだ。
「ロロノア。その女は剣士ではない」
「だったら」
「剣士ではなく、海賊だ。お前が海賊であり剣士であるように、女は海賊であり剣士でない。それでも、勝負して構わぬのか」
「…強くなるためならな」
「勧めぬ」
 ミホークは女が腰に帯びている刀へと視線を注ぎ、そしてその柄へと伸びている女の腕を見て、そう断言した。ゾロの抗議を強い言葉でさらに押し潰す。
「勧めぬ。女は、剣士ではない。もっと、えげつないものだ」
「…コイツからそんな言葉を引き出すなんざ、てめえ一体何なんだ」
「えげつないとは言葉が過ぎるんじゃないか。私は一介の海賊だ。そうだな、ただ、剣士にとっては最悪の相手かもしれん。何しろ刀の打ち合いができない」
「他に何か言い様があるのか」
 女の言に、ゾロはかつて船上にてミトと刀を合わせた際のことを思い出した。
 刃に食い込んだ刃。一切の抵抗を感じさせずに、鋼の鍛え上げられた刃に、石でできただけの刃が斬り立った。髪の毛一筋程のものであったが、当時手に覚えた感触を、ゾロは鮮明に思い出すことができた。
 ミホークの言葉は正しい。剣士は剣など、刃を持つ武器で戦う。けれども、それを根底から無視するような、同じ刃を手に持ち戦うというのに、戦い方をされては、確かに剣士としての相性は最悪である。
「稽古をつけるならば、普通の打ち合いなら相手になれる。真剣で斬らずに済ますこともできるが、それは嫌だろう?」
 手加減をされているようでと最後に付け足された言葉に、ゾロは不承不承ながら頷いた。
「当然だ。手加減なんざされてたまるか」
「では、どうしよう。あの時よりも、お前がもし強くなっていると感じているのであれば、真剣勝負もやぶさかではない。私は、構わんぞ」
 挑戦的な視線を下げられ、ゾロは応えるように不敵な笑みを返した。少なくとも、眼前の女と刃を交えた当時よりも力をつけていることに関しては確信が持てた。門の下では、ミホークは諦めたようにかぶりを振っていたが、ゾロは腕の黒衣を頭に巻き、後頭部で両端を引き絞る。体に自然と力がこもった。
 男の仕草を横目で見、ミトは腰の柄に手をかけた。軽く足を後ろに引き、僅かに腰を落とす。女の開かれた双眸にゾロは全身の筋肉に力を入れた。細く息を吐き出し、口に構えていた三本目、そして両手に二本を女へと振り定める。ゾロの足元から立ち上る剣気にミトはぶるりと肌を震わせた。その面に戦いを好む色が一瞬で塗りたくられる。
「いつでも、来い」
 好戦的なその一言に張りつめた空気と、そして太腿の緊張した筋肉が弾ける。瓦礫の破片が宙へと吹っ飛んだ。
 先に攻撃を仕掛けたのは、ゾロの方であった。激しい剣圧を伴った一撃が筋力と共に振り下ろされる。しかし、振り下ろされた刃をミトが受けることはなく、半歩体をずらして回避するに終わる。
 刀が振り下ろされたことにより空いた腕目がけて一本の白い刃が容赦なく迫る。ゾロは三本ある刀の内、自由に動かせる二本、左の刀で振り下ろされた刀を防ぐため刃を翳したが、背筋に走った悪寒に刀を受けることを止めて、地面を蹴ることにより刃を避ける。それを追うようにミトは腕を突き出した。高身長から繰り出されるリーチの長い攻撃を、通常の相手であればそれは受け止めていたが、ゾロは足捌きによりそれを避け続けた。
 斬られる。
 悪夢のような一戦は、未だゾロの脳裏に焼き付けられていた。刀で受ければ斬られ、しかし刃を出してそれを防がれても同様に斬り捨てられる。どうすりゃいいんだと、啖呵を切り勝負が開始された後にゾロは窮地に陥った事実に気付いた。無論、どうすればいいかなど答えは一つしかなく、相手の刃が自身の攻撃を防ぐ前に、その刃が相手の身体に届けばいいだけの話である。言わずもがな、それができれば苦労はしない。それどころか、相手から繰り出される剣戟を避けるだけで精一杯である。
 息を吐き出し、視界の隅に映ったミホークの表情にゾロは眦を鬼神の如く吊り上げた。失望したかのような、嘆息に近い動き。
 くそ。くそ。クソ。
 強くなるために刃を振るっているというのに、振るえば振るうほど、己が弱くなったように錯覚する。女は男の焦燥を嗅ぎ取ったのか、獣染みた笑みをその顔に乗せた。挑発するかのように言葉を弾ませる。情け容赦のない攻撃の嵐を避けながらも、ゾロは女の唇の動きを確かに捉えた。
「脚が小鹿のように震えているぞ。海賊狩り」
「これは、武者震いだ!煉獄、ッお」
 言葉は続かなかった。
 ゾロの目が視認したのは、全く、到底理解しがたい光景であった。
 大業物21工が一口。その怖ろしいまでの硬度を持ち味にした乱刃大逆丁字。もう片方の手に持たれている雪走よりも腕にずしりとくるその刀に、正しくはその刀身に、白い刃が突き出ていた。柄に近い部分に一口の白が、刺さっている。
 かつて刃を交えたバギー海賊団の一人、思えばあれが海賊としての初めての相手だった男であった。あの男であれば、手品かと怒鳴って冗談で済ますこともできたが、現在相対している女に限ってそのようなことはありえない。
 男の驚愕など知らず、白い石の刃は音もなく抵抗もなく、まるで夢現の一瞬のように動いた。ゾロは腕の力を逆方向にしようとしたが、それよりも相手の刀の方がより速い。
 緊迫した空気を飲み下し、青筋の浮いた腕に筋肉が盛り上がる。刀を相手の切っ先の外へと逃がそうと引くが、しかしミトはさらに踏み込み、斜めへ内へと刃を滑らせる。二股の槍のように、白が黒を斬り捨てていく。根元から切っ先へと、刃が完全に通り抜けた。秋水、と感傷に浸る暇なぞ与えず、ゾロの柄を握る骨張った手の上に女の大きな手が重なり、ゾロはいつの間にか距離を詰めていた女の目を直視する。
「一本、奪ったぞ」
 吐息を奪われるようなその一瞬。好戦的な瞳が大きく見開かれ、まるでこちを飲み込まんとしているばかりであった。
 上から押さえつけられた手が指先を立て、男の指を引き剥がそうとしたが、男はそれを力任せに引き剥がし、脹脛から太腿その裏まで一気に力を加え、怪物のような女と距離を取る。
 背筋を氷のような冷たい足がしたたたり、服へと湿り消える。決して肉体的な疲労は感じていないが、ゾロは肩で呼吸をした。上下に激しく揺れ、ぶつと肌は泡立った。
 次が来る。
 ゾロは手に握る秋水の重みより、女の一挙一動に獣のように反応した。本能的な防衛反応が働く。しかし、その行動は深みのある声によって妨げられた。同時に女も踏み切ろうとした足から力を抜き、妨害者へと視線をやった。
「待て」
「鷹の目。おいおい、真剣勝負だ」
「勝負はついている。おれはこの男を強くするという約束をしている。無論、強くなるかどうかはその男次第だが、早々に芽を枯らされては話にならん」
 ミホークの言葉に抗議をしたミトだったが、返された回答に唇をへの字に曲げ、分かったと刀を鞘に大人しく戻した。そして、呆然と佇んでいる男へと首を傾けた。刀を握る手は微震し、耳には小さな音が断続的に鼓膜を叩いた。
「次を楽しみにしよう、海賊狩り。しかし先程仕掛けてきた技、未完成だろう」
 心臓が止まった。正しくは、心臓が止まったような気分に、ゾロは陥った。見透かされている事実に羞恥と屈辱が一気に襲いかかる。それを知ってか知らずか、女は最後まで刀を鞘に納めてから、話を続けた。
「完成するのが待ち遠しいぞ。次こそは、お前の信念と私の信念」
 赤い舌が戦いを好む言葉を紡ぎだす。ぞっとするほどの、それは自身すらも戦いの場へと強制的に引きずり出さんばかりの気迫が足元から立ち上っているようにすら見えた。
 懸けようじゃないか。
 たったそれだけの言葉が、大した声量でもないというのに、どの音よりも明瞭に、ゾロの耳には届いた。
 張り詰めた緊張の糸を紡いだのも、それを解いたのもまた女であった。ミトは鷹の目へと旧知の友のように気さくに話しかける。
「鷹の目、今日はお前に用件があってな」
「詰まらんことならば断わる」
「詰まらんことか。いやな、前に立ち寄った島で手に入った酒が殊の外旨くて、お前にもやろうと」
 そう言い、ミトは腰にベルトで固定してあるバックの小さな小瓶を取り出し、ミホークへと投げた。放物線を描き、酒瓶はミホークの手の中へと落ちる。淡い桜の色をした酒を瓶の口を持ち、ミホークは軽く振る。
「ふむ、貰っておこう。しかし風の噂だが、絶刀、お前をドフラミンゴが捕まえていると聞いていたが」
「いつまでもいるような人間に思うか?」
「思わんな。やれ、あの男も気の毒なことよ」
「どういう意味だ」
 軽口が叩かれ、ミトは軽く口角を持ち上げる。それに呼応するように、ミホークも口を三日月へと歪めて見せた。
「貴様のことだ。大暴れしたと推測する」
「海に生きるモノを閉じ込めるからそうなる」
 酒は貰っておくとミホークは酒瓶を片手に下げ、これからどうするかを女に問うた。それに女は意を得たりとばかりに満面の笑みを顔に浮かべ、両手を空へと広げた。流れゆく白雲の隙間から一点、白い雲が地面へと追突せんばかりの勢いで空気を切り裂き、着地した。それは女の愛しい鳥であり、世界でも稀有な鳥類であった。
 立派な体格のカヤアンバルを見上げ、ミホークはその背に颯爽と乗った女の答えを呵呵と笑う。
「いずれどこかで」
「ああ、機会があればまた、海で」
 酒があれば最高だと付け加え、女はあっという間に空に消えた。巨大な鳥は激しい風を地に叩きつけ、その姿を空へと飛ばす。青の中に白が一点。雲に混じり、それは分からなくなる。
 ミホークは勝負を妨害してから黙ったままのゾロへと視線をやる。
「刀は無事だろう」
「あ、」
 言われた意味が分からず、ゾロは手元の刀へと視線を戻した。しかし、確かに斬られた感触と視覚はあったはずだというのに、秋水は傷一つなく、自身の手におさめられている。訳が分からず、その刀を両手で持ち直し、矯めつ眇めつ見るが、やはり刀に傷は一つとない。それは、硬度を誇る刀そのものであった。
 言葉をなくしている男にミホークは、故にと言葉を投げた。
「あの女は絶刀と呼ばれる」
「意味が」
「手品でもなければ幻覚でもない。あれは完全にものの呼吸を読み感じ、その境地にある剣だ。絶つということにだけ特化したそれだ。あの女は、やろうと思えば、お前の心臓、それだけを斬り捨てることもできるだろう。しかし何度も繰り返すが、あの女は剣士ではない。あの女と剣士としての戦いを望むのは土台無理な相談だ。戦うことはできるが、それは剣士のそれではない。全てを絶つ刀というのは、ある種魅力的だが、お前がそれを手本とする必要はない。それを学ぶ必要もない。自分の剣を信じられぬものは、やがて自分の剣に伏すこととなる。ロロノア」
 強くなれ。
 己にしかと向けられた言葉に海賊狩りであり海賊であり、そして剣士である男は、言われずともと頷き、本日のメニューへと戻った。

 

 にたにたと頬を緩めっ放しにしている女へとクロコダイルは呆れた様に嘆息した。
「何笑ってやがる」
「ん?うん、いやなに。楽しみだなと思って」
 何が。クロコダイルはミトの理解の及ばぬ思考に対し、怪訝そうに眉を顰めた。相方の態度もそこそこに、ミトは頬杖を突き、満足げな、しかしどこか欲求不満な感覚を残しながら舌先で上唇を一舐めする。
「楽しみだ」
 男の問いに女は正確には答えない。
 しかし、クロコダイルにはそれだけでも充分であった。歪んだ口元に、手持無沙汰のその指は親指の腹と人差し指がそわそわと擦りあわされている。今すぐにでも、刀を片手に敵陣に突っ込んで行きそうな、そんな雰囲気である。
 中てられたか。
 それが自分でないことに多少の不満を感じつつ、しかし至極、大層楽しげな、今にも痺れを切らしてしまいそうなその生きている顔をクロコダイルアは好んだ。
「楽しみだよ、本当に」
「そうか」
「そうだ。待ち遠しい」
 肌に残る戦いの感触と、そして剣士たるに相応しい剣気の凄まじさに胸躍らせる。かの男は強くなる。間違いなく。その事実に体が歓喜で打ち震える。戦える相手が増えたことに身を捩るような恍惚が襲った。一日千秋なんとやらとは言うが、果たして待てるのかどうかが怪しい所である。ミトは舐め上げた唇を指先でなぞった。
 あの男が海にとち狂っているならば、この女は海とそして戦いに身を焦がしている。クロコダイルは言葉にしてそれを指摘することはせず、目の前に注がれたワインを味わった。そして、女はワインボトルを逆さにし、まるで水のように飲み干した。