夜鶴

 フフ、と愉しげな、大層愉快そうな笑い声が空気に混じる。つるはその笑い声を口から発し、上機嫌で椅子の背に腰かけている男を見上げた。大きな口を上げてひょいひょいと茶菓子をその中に放り込むようにして食べている。綺麗に食べていないのは意図的かどうか、ばらばらと焼き菓子が机の上、椅子の座席に落ちる。
 一つ溜息をつるは吐いた。つるの溜息をその耳に聞き、ニタニタと嗤いつつ、これはすまねぇと反省の意を髪の毛ほども込めていない謝罪をつるへと贈る。言っても聞きもしないやんちゃ坊主(というには随分と年嵩であるし、四十手前の男なのだが)につるは頭を押さえる。長い手が机に伸び、用意されていた茶をだばりと口に落とした。飲み方一つなっていない。
「…ドフラミンゴ」
「フッフッフ!フフ、フッフッフ!なんだい、おつるさん」
 その巨体を覆い尽すピンクのコートをもさりと揺らし、白い歯が見せられる。上機嫌。もとより感情表現の豊かな男ではあるけれども、ここ最近はやけに、戦争の後始末に追われているこちらからすれば不愉快極まりないのだが、大層、かなり相当、驚くべき程に機嫌がよい。口笛を吹いて歩いていることもままあるし、忙しいさ中の普段ならば欠席上等であった定例会議も参加している。まるで、そう、まるで、目をつけられまいとするかのような行動である。尤も彼の奇行は反対に目立っていると言っても過言ではないのだが。
 つるは子供のように笑うドフラミンゴを眺めながら、何かを思う。彼の姿に何かを見る。その笑い方、態度は言うならば子供のようだった。欲しがっていたおもちゃをようやく与えられて浮かれている子供そのものである。
 ドフラミンゴ、とつるは男の名をもう一度呼んだ。呼ばれたことが嬉しかったのか、男は、なんだいおつるさんと先程と一言一句違わぬ答えをつるに返した。つるは老い、皺の寄った肌の中に埋もれている双眸でドフラミンゴを探るように見つめる。この男が隠している何かを探るように、じぃと。乾いた唇を一舐めして湿らせてから、言葉を舌に乗せる。
「何か、良いことでもあったのかい」
「例えば?」
「そうだね、例えば」
 欲しがっていた玩具を手に入れたとか。
 つるの唇に乗せられた言葉にドフラミンゴは笑みを深いものにした。そして、何がおかしいのか肩を揺らして止まらない笑いを弾けさせる。フフフ、フッフッフ、と大層おかしそうに笑い続ける。片足フラミンゴは体を揺らし、しかし椅子から転げ落ちるような馬鹿な真似は晒さない。
 ドフラミンゴの笑いが止まるまで、つるは次の言葉を発さない。ただ静かに待つ。おかしさと笑いがようやく引き、ドフラミンゴは傾いたサングラスを指先で直す。ひぃひぃと今もまだ笑いは上手く止まっていない。
「フッ、フフ、フッ、フおつる、フッ、さん!おつるさん!欲しがっていた玩具、ねぇ、フフフフフ!このおれが!おれが!玩具で満足する年頃に見えるかい?可愛くてちっちゃなバービー人形は握りつぶしちまうお年頃だぜ」
「アンタの趣味は聞いてないよ。バービー人形でなければ…等身大の」
「ダッチワイフを抱くなら女を買うね。ま、ダッチワイフよりかはラブドールか」
「やれやれ」
 片手を振ったつるにドフラミンゴは顎をさすり、両口角をずりりと持ち上げた。口元に大きな皺が寄る。つるはまだその瞳をドフラミンゴから離すことはない。老兵の視線を肌に感じながら、コートを揺らして男はニタと笑った。長い舌がべろぉりと上唇を舐め上げる。
「ダッチワイフにしろラブドールにしろ、玩具は入用じゃねェなァ。オナホールなんて詰まらねェ玩具でイく趣味はねェよ、おつるさん。アンタが後…三十年くらい若けりゃおれもおっ勃ててた」
「守備範囲の広い男だね」
「まぁ、イかしたアンタの姿を見せてくれるなら、今のアンタでもおれは十分に楽しめるぜ?」
「アタシの方が壊れちまうよ。遠慮させとくれ」
「フッフ」
 笑みが深まったドフラミンゴにつるは肘に預けていた体重を椅子の背に掛け直す。一度外れた視線が、ドフラミンゴが茶を飲み干した湯のみを机に戻すことで、再度合わされた。口元の笑みはそのままに、ドフラミンゴは大人しく詮索の瞳を受けた。
「奴隷かい」
「奴隷も女も金で買える。おつるさんおつるさん、おつるさん!」
 三度、しつこい程に老兵の名前を繰り返し、ドフラミンゴは顎を持ち上げ上を向いて大笑いした。がたがたと座っている椅子が揺れ、今度ばかりはその重みを支え切れないとばかりに倒れた。ドフラミンゴの巨体もそれに合わせて倒れるかと思いきや、その体はふわりと宙を舞い、こけてしまったいすの座席の一面に足を器用に乗せる。片足で立つ姿はまさにフラミンゴ。桃色の姿はオオフラミンゴそのものであった。
 フッフ、とドフラミンゴはいつもの笑いを音に乗せて、ああと愉快気に両手を広げて、まるで今飛び立とうとするような姿勢を見せた。
「おれはな、おつるさん」
 この男は人の名前を文章の最後につけるのが好きなのだろうかと疑う程、ドフラミンゴはつるの名を呼ぶ。サングラスの奥の瞳が、歪む。
「金で買えるものにゃ興味がねェんだよ。直ぐに飽きちまう。従順で純朴な生物なんて面白くねェだろう?何の刺激にもなりゃしねェ」
「…お前を食い殺せる猛獣でも捕まえたのかい」
「さぁて、どうだと思う?おつるさん。海軍大参謀のアンタとしては、どういう推理をする?」
 探るような視線を受け、ドフラミンゴはくきんと首を傾けた。
 ニタニタと嗤う笑みの奥底に底知れぬ、否、単純なる子供の独占欲をつるは垣間見た。そして、今まで目を背けてきた事実を直視する。唇が微かに震えた。お前、と真偽を定かにするための言葉を紡ごうとつるは口を開いたが、その乾いた唇にドフラミンゴの指先がそっと乗せられる。老いた鶴を若いフラミンゴが片足立ちで見ていた。サングラスに映った己の表情につるは軽くそれを強張らせる。
 しィ。
 内緒話をする子供のように愛らしくドフラミンゴはかすれた音を噛みあわせた歯から発生させた。
「おれは、まだアンタたちと仲良くやっていきたいんだぜ…?足並みそろえて。なかよしこよし。ナァ。アンタたちはまだ、おれの力が必要だろう?ヒューマンショップと同じさ、おつるさん。何が一番賢い選択なのか、アンタなら誰よりもよく分かるはずだ。アンタなら、な。アンタは夜鶴か?フフ、フッフッフ」
 耳に障る笑い方でドフラミンゴはつるとの距離を詰めた。色の濃いサングラスの向こうにつるは愉しげに細められているドフラミンゴの瞳を見る。
「アタシの子じゃァないけれど」
「子も子、手塩掛けて大切に育てた可愛い部下だろ?おれは確かに聞いたぜ?戦場で。アンタの悲痛な叫びをな。うっかり疼きそうになっちまった」
「…鳥の舌を抜くためにはどうしたらよかったかね」
 静かに、静かに鎮まり収縮されていくつるの気配を感じながら、むしろ反対にそれを愉しむかの如く、老兵の神経をドフラミンゴは逆撫でした。
「およし!だったか?おつるさん。おおっと、洗うのは無しだぜ?折角のコートがおじゃんになる」
 ぶくりと泡立ったつるの手にドフラミンゴはさっさと両手を上げて降参のポーズを取った。中身は何一つ反省はしていなかった。感情は表面に乗せられていないが、表情が落ちたつるの表情はいっそぞっとさせるものがある。得たり、とばかりにドフラミンゴはフフと笑いをまたこぼす。
「ドフラミンゴ」
「なんだい、おつるさん」
 最初のやりとりに言葉が戻る。つるは米神に手を添えた。もう彼女の中で答えは出ている。
 彼が手にした「猛獣」を取り上げるという行為がどれだけの損害を海軍にもたらすのか。白ひげは死んだ。だが海軍もマリンフォード破壊に伴い手酷い損害を被った。今これ以上この状況を混乱させるわけにはいかない。七武海もクロコダイルを先陣に、ティーチ、それからモリアまで欠番となっている。
 賢いつるは、悔しげに唇を噛んだ。
 かなしいこ。あわれなこ。何のために生き、何のために死のうとしたのか。海軍と言う組織の中では一片たりとも楽しそうに笑うことをしなかった子。ガープへと、お世話になりましたと伝言を預けた子。世話になった自覚があるのならば、自分の口でそれを伝えにおいでと怒鳴りつけてやりたかった。海賊でも脱走者でも構わない。その時はまた捕まえるだけだけれども、お前の口で言いにおいでと。何度も何度も、思った。初めて見たあの冷たい目をした子。クロコダイルにだけに心を許したその姿は、多少羨ましくもあり、アタシでは駄目なんだねと母心をついつい出した。拾ったのが自分だからか、手を取ったのが自分だからか。まるで我が子のようだった。心配ばかりかけさせて、手のかかる子だった。
「ドフラミンゴ」
「なんだい、おつるさん」
 壊れたビデオのように繰り返される。
 頼むから。
「猛獣を『殺す』ような真似は、するんじゃないよ」
 ようやく絞り出したつるの結論にドフラミンゴは笑った。もともと一つしかない答えではあった。彼女の地位と立場から考えれば、それしかないのである。
 フッフ、とドフラミンゴは口から声をこぼして落とす。
「ああおつるさん。おれァ、物は大事にする男なんだぜ?こう見えても。おっと、そろそろ餌の時間だ。しっかり食わせてやらねェとな。おつるさん、心配すンなよ。ペットの飼い方の本だって、この間しっかり読んだばかりなんだからな」
 笑い声と共に、大きな羽毛のコートが揺れて部屋から消える。大きな体が部屋の半分程を埋めていたように感じ、広がった視野と部屋につるは息を大きく吐き出し、皺くちゃの掌に顔を埋めた。
 馬鹿な子。馬鹿な子。
「ミト」
 子を零した鶴は一声、鳴いた。