The last word - 1/2

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「海は良いな、綺麗だ」
 扉に乗った場所から見えた光景に、ミトはそう呟いた。クロコダイルは一歩前に出たために見えるミトの背中へと視線をずらす。この女は一体何を見ているのだろう、とクロコダイルは思う。海を見て綺麗だと良いと言葉を紡ぐのは、まるで口癖のようだった。だが、今先程口にされた海を褒める言葉は、まるで。
 まるで。
 ミトたちはジンベエに扉ごと投げ飛ばされ、体はそれと共に潮風を受ける。懐かしい香りに目を眇めながら、ミトは腰に帯びている刀の柄に手を掛けた。強く、波の反発を扉越しの足の裏に感じながら、膝を折り、力をためた。隣で騒いでいるバギーの声が集中と共に遠のいていく。耳に聞こえるは風の音、肌に触れるは潮の色、鼻に匂うは硝煙と爆撃、それから海の風。
 掌に感じる刀は自分の腕と一体化している。落下を感じ、一足早く扉という地面を蹴りつける。能力者というハンデ(というのもおかしな話だが)がないので、海水をいくら浴びようとも問題はない。背に、いくらかの水滴を感じる。落下方向にぎりぎりと体を引き絞りながら、空気を蹴った。まさに空気を蹴る。
 どう、と足元で空気がはじけ飛び、一足早く身体は宙を走り抜けた。相手が引き金を引くよりも速く、足は甲板へと降り立つ。准将、とうろたえた声が耳に残ったが、それに対して反応をするような真似はしない。鞘走りで速度を上げながら、刀身を鞘から引き抜くと同時に、目の前にあった銃を真っ二つに裂く。剃と月歩を使い分けながら甲板を走り抜け、落ちてくる扉へと向けられていた銃を使い物にならなくした。銃が使い物にならないのならば、と抜かれた剣すらも、ミトは絶ち切る。
 気をつけろ、と声がはじけた。
「准将の二つ名は絶刀だ!」
「元だろうがぁ!手加減するな!」
 全くその通りだ、とミトは薄く笑う。それと同時に、海が背中から流れ込んだ。水圧に流されるのを防ぐため、刀をしまい、一度月歩で体を宙に踊らせる。全員が全員流されたと言うわけでもないが、ある程度の人間がその波にさらわれて海に落ちた。
 三人、戦闘になるのは二人が甲板に着地したのを見届け、ミトはクロコダイルへと声を掛ける。億劫そうに視線を持ち上げたクロコダイルへ、ミトは声を投げた。
「私は他の艦隊を数隻沈めてくる!」
「乗り遅れるんじゃねェぞ」
「お前たちと違って海に落ちてもおぼれ死ぬと言う心配もないからな。お前もしっかり奪えよ」
 誰に向かって口をきいている、と言葉をしっかり耳に入れる前に、その声は風の音になった。地面ではなく、大気を蹴る感触で少し離れた軍艦に降り立つ。ジンベエは反対側の軍艦の邪魔をしているのだから、こちらは反対側を仕留めるべきだろう。
 引き金が引かれる前に剃で移動し、同様に銃を駄目にしていく。頭を潰せば烏合の衆となるのは、基本的にどの艦隊でも似たようなものである。そこからの立ち直りがいかに早いかでレベルが分かれる訳だが、中将以上は全てマリンフォードに居る訳だから、そこまで統率力の高い人間は残っていない(と考えるのが定石である)どちらにせよ、頭を一度潰せば統率は崩れて、攻撃態勢を立て直すのには時間がかかる。砲台を一つずつつぶしていくよりも効率的なのは間違いがない。
 銃弾が耳の横を掠めたのを、感じながらミトは側に落ちていた剣を拾い上げ、ぞるり、と銃を斬り抜いた。そして攻撃手段を失って、一瞬慌てた海兵の肩関節ぎりぎりを刺し貫く。細胞の隙間を縫うかのように突き抜けたそれは、反対側に姿を現した。骨の抵抗すら感じられず通された刃に、海兵は驚いたように刺し口を眺め見る。え、と一言驚きの声が口から溢れる前に、ミトはその刃を抜き取り、男の腹を蹴り飛ばした。傷口が自然と閉じられたかのように、赤い液体は零れない。ぱたぱたと海兵は驚いた表情でミトが刺したそこに触れた。だが、何もない。しかし、
「動か、ねぇ」
 腕が、と男は刺された側の腕を持ち上げようとしていたが、指先一つ動いていない。どん、とミトはその男を海へと蹴り落とした。動かない腕は重力に従って、ほんの少しだけ上に残り、仲間の伸ばした手を掠め、しかしそれを掴むことはできずに海へと落ちる。どぱんと波が飛び散った。周囲はまるで奇妙な生き物を見るかのように、恐れを滲ませた視線をミトへと注ぐ。
 能力者か否か。
 能力者であれば、と身が震え足が竦む。手も足も出ない化物と対峙しているのと同じである。その一瞬の、恐怖という名の躊躇が隙を生むことをミトは良く知っている。震えた銃口が自分からそれた瞬間に、剃でさらに距離を稼ぐ。ひるむな、と叫んだ男は間違いなく司令塔であろう。隊服も異なる。甲板を踏みしめ、そのまま体を空中に放り投げるようにミトは跳び上がった。そして大気を蹴りつけて、号令を飛ばす男の肩に飛び降りる。降りる、というよりもほぼ蹴りつける形でのしかかった。体重では負けるが、それに合わせた脚力と勢いでその体をぐらつかせる。それだけで十分であった。納めることをしなかった、刃をすいと空気すらも薙ぐように振るう。するりとそれは足を両断した、かのように見えた。だが、足は斬れていなかった。ただ、司令塔の男は正義のコートをはためかせて、そのまま前方に倒れ込んだ。少将!と悲鳴じみた声が上がる。
「何を…っ」
 した、と男が最後まで言葉を紡ぐ前に、ミトはその体躯を海へ向かって投げ飛ばした。そして、甲板へ残る海兵へと笑みを向ける。
「いいのか?溺れ死ぬぞ?」
 口元を歪めた笑みは大層悪い。片眉を持ち上げ、口角を吊り上げる。上から見下ろすその動作だけで、まるで悪魔のようにすら見える。
 足が動かぬ男は腕でばたつくしかない。いくら泳ぎ達者な海兵とは言え、足が動かなければ手を動かすしかなく、圧倒的に溺れ死ぬ確率は高い。その上、あの重たい正義のコートを羽織っているのだ。放置すれば間違いなく死ぬ。
 迷いが生じた甲板をミトは一気に駆け抜け、手薄になった砲台を刀一つで駄目にしていく。大砲そのものを全て駄目にすると、ミトは次の艦隊へと乗り移った。鷹の目のように軍艦そのものを駄目にする剣技があればよいのだろうが、そのような剣技をミトは持ち合わせていなかった。タイプが違う。その代わり、とミトは薄く笑って、次の艦の甲板に足をつけた。
 その代わり、自分には全てを絶つ腕がある。
 ぞるりと刃を大砲を並べてある土台に滑らせる。まるでケーキカットをするかのように刀が滑って行く。斜めに斬り落とせば、自重でそれは崩れ落ち、使い物にならなくなる。牢獄に閉じ込められていたせいか、多少運動機能は劣ったが、刀の腕は一切鈍っていない。甲板と足の裏で摩擦を起こしながらブレーキを掛け、体勢を低くして銃弾を避ける。銃を全て破壊しても良いが、実際問題、個人を攻撃する銃よりも、艦を駄目にする大砲の方がより問題である。
 一つ二つと駄目にしながら、ミトはふと正義の門が、と唖然とした声を聞き、頃合いか、と大気を蹴りつけて空を駆けた。別に門が閉まろうとも、月歩で門を越えて船に乗ればよいだけなのであまり問題はない。一つ、追ってきた銃弾が腕を掠め、体がぐらついたが大した怪我でもないので、ミトはそのまま大気を蹴りつけて宙を走った。
 門が閉まる方が早いと踏んだのか、そのまま上空に向けて体を蹴り上げると門の最上部に足をおろしてほんの少しだけ体を休める。そしてそのまま落下した。ひょうと落ちて行く感覚は、ヤッカに乗って落ちて行く感覚とよく似ている。
 ヤッカが近くにいれば、即座に分かる礫が今は手元に無い。本来人の口笛で呼ぶことができるヤッカだが、無論、音が届く範囲でしか呼ぶことはできない。カヤアンバルは非常に耳がよく、半径100km四方の音であれば、どんなに微かな音でも聞きとることができる。そして、自身の嘴の欠片で己の位置を示すことができる。半径100km以内にその嘴の持ち主が居た場合、嘴がどういう構造かは知らないが、僅かに振動し、熱を持つ。さらに、その嘴でできた礫に穴を開け笛状にしたものであれば、どこに居たとしても、カヤアンバルはその音の元へと居場所を突き止めて戻ってくる。
 ぴゅい、と試しに口笛を吹いたが反応は無い。もとより、この戦にヤッカを参戦させる気など毛頭ないが、最期に一目見ておきたかったな、とミトは落ちながらそんな事を考える。
 主としていたわけでもなし、親として居たと表現した方がずっと正しい。自分が拾い上げてしまった命。親から奪い取ってしまった。人の臭いをつけ、親を奪ってしまった。だから、自分はヤッカの親なのだと思う。餌をやり、慈しみ、愛し。およそ船長が自分に与えてくれたものをそのままヤッカに注ぎ込んだ。流石に飛び方を教えることはできなかったが、流石と言えば流石だろう、ヤッカは気付けば自分で空を飛ぶこと覚え、餌をとることを覚えた。時折、甲板に海王類が転がされるのだから、皆で笑ってそれを食べた。ヤッカも、生ではなく調理したそれを好んで食べていた時期もあった。
 ああそうだ、とミトは笑う。親は子よりも早く死ぬものだ、と。
 ヤッカは実際もうひとり立ちをしているし、自分が手を掛ける必要もない。私が死んでも、そう、自分が死んでもヤッカは生きていける。大空を羽ばたいて、海を駆け抜けて。どこまでも自由に。
 小さく笑い、ミトは落ちて行く先に甲板を見た。流石にこの距離から激突すれば死んでしまうので、落ちるかと思われた頃合いに大気を蹴りつけ衝撃を緩和した。そしてすとんと甲板に降り立つと、そこから見えた光景に、溜息を洩らす。ふらふらと引き寄せられるようにして、「船の上から」見える光景に息を飲んだ。
 何て綺麗なんだろう。
 広がる水平線は誰にも邪魔をされずに、ただただ広く、そこに広がっている。海はいつ見ても自由にそこにある。腰に帯びている刀を、船長が持っていた時も同じように広がっていた。
「きれいだ」
 ぽつん、とミトは呟いた。
 この海を見て、死ねるとは思わなかった。
 そう、ミトは思う。潮風を顔に受け、波の音を聞きながら死地に向かう。自分の死に場所へと歩みを進める。波を走り、波を歩き、波を感じながら。それは何よりも幸せなことである。海に死ぬ。皆の元へ帰れるのだと、体の力が抜ける。ひゅぅと息を吸えば、そこから海になれるような気がした。
 だがその思考を一つの声が遮った。
「お前」
「何だ、麦わら」
 笑ったミトの顔を見ながら、ルフィは眉を顰めた。
「エースを、理由に使うなよ」
「…ほう?」
「エースを、お前が死ぬ理由には、使うなよ」
 黒い瞳が射抜いた。ミトは一瞬言葉を失い、そして悪いなと返す。
「悪い。そうだな、その通りだ」
「生きる死ぬってのは、おれが口出す問題じゃねぇけど」
「麦わら」
「ん、何だ」
 綺麗な目だ、とルフィの目を眺めながら、ミトは笑う。そして、柵の上に腰かけてゆるやかに目を細めた。
「お前の兄を助ける手助けはしよう。それから後の事は、関わってくれるな」
「…お前さ、」
「何だ?」
「今の顔、鏡で見てみろよ」
 ひでぇ顔してる、とルフィは口にした。残念なことにここに鏡は無い。ミトは薄く笑って、どんな顔だとからかうように言った。それにルフィは馬鹿にするなよと少し喧嘩口調に唇を引き絞った。
 ミトはルフィに背中を向けて、柵の向こうに広がる海を眺める。
「何で諦めるんだ?」
「生きることを?」
「そうだ」
「初めから、死んでいるからさ」
「それはさっきも聞いた。お前、さっきから、言い訳ばかりだ。お前、ただ死にたいだけだろ」
「そうだな。死にたいだけだ。もう、終わったから」
「終わってねぇだろ。何も」
「何も?全て終わったさ。やりたいこともやるべきことも」
「なら、何で今死なねぇんだ」
 短い、しかし的を射た言葉にミトは数回瞬きして笑った。高く大きく笑った声は、空に突き抜ける。ルフィはその笑い声に不満げに顔を顰めた。ミトは柵に座ったまま、ルフィに背中を向けたまま、ゆっくりと言葉を返す。
「死ぬことも、疲れたんだ。生きることも死ぬことも、投げ出してしまいたい程に、疲れた。私にはもう、」
 もう。
「何もない」
「作れば、」
「作る気力も、ない。見つける気力も私には残ってない。麦わら。私はもう疲れたんだ。お前のように諦めないことも、頑張ることも、踏ん張ることも、手を伸ばすことも、何もかもに疲れた。私が今ここにあるのは、私を今動かしているのは、白ひげへの恩と、それから私の死に場所を探しているだけのことだ。お前の力にはなるよ、麦わら。エースを助けるために、私は身を放り出してもいい。それだけは、約束しよう。だからお前が考えるのは、火拳を助ける、ただそれだけでいいのさ。それだけを見ていろ。死者の事など気にするな。生きることに疲れた人間など放っておけ。お前の言葉で、」
 私はもうどうにもならない、とミトは海面のきらめきを眺め、そう言葉を落として会話を断った。ルフィは何か言おうと口を開きかけたが、麦わら帽子を深く被り直し、そうか、と一言返すとそのまま背を向けて遠ざかった。