左手薬指にはめられたシルバーの指輪が光る。
武骨で、しかしクォーターバックの兄の指はすらりと爪先まで綺麗に伸びている。不器用で生真面目な兄をテーブルを挟んで座る。阿含は少々照れ気味に頬を染めている双子の兄にそこから先の言葉を聞かずとも内容は自然と推測された。例え天才でなくとも、兄の考えていることは手に取るようにわかる。それは、幼少のみぎりからの慣例に近いものである。
雲水の考えていることは、良いことであれ悪いことであれ手に取るように分かる。
その、と雲水が厚みの薄い、自分と同じ形の唇を小さく動かす。小さいころから全く変わらない坊主頭から見える地肌すら赤く染まっている。最も身近な兄弟に、血を分けたどころか細胞も分けている肉親に報告を今更恥ずかしがることはない。しかし、阿含は雲水を揶揄することも急かすこともせず、ただ兄の言葉を待った。
それは、決別の言葉である。
それは、欣喜の言葉である。
金剛阿含という弟は金剛雲水という兄にとって、劣等感であり目標であり血と細胞と、母の胎であらゆるものを共有した唯一無二である。兄の隣には、弟がいた。それは前であれ横であれ、兎に角、雲水の傍らには良かれ悪しかれ阿含がいた。
兄は、常に隣にいた弟をたった今、今から至上の幸福に満ちた言葉で離れようとしている。
それでも、歪んだ兄弟関係が改善された高校2年生以降のことを考えれば、この不器用な兄の幸福を祝ってもいい気にはなる。勿論、手放しでは喜べそうにない。何しろ半身が居なくなるのだから。
「阿含」
「あによ。真面目なおにーちゃんがアメフトの自主練サボってまで俺を呼び出したんだ。それなりの理由だろうなァ、雲水」
理由などとうの昔に知っている。
店に入る前、緊張した面持ちで椅子に背筋を伸ばして座っている兄の左手薬指に光るモノを目にした段階で分かった。雲水は、そういったアクセサリーを着けるタイプの人間ではない。そもそもつける場所が問題なのだ。
俺も兄離れしねーとなと阿含は腹の内でほくそ笑む。
「話すなら、お前が一番最初だと思った」
嬉しいことを言ってくれる兄だ。
才能に恵まれた天才の弟にあれだけ打ちのめされてなお、この兄は金剛阿含という弟をそれでも慕って、傍らにいてくれる。
サングラスの奥で目を細めた阿含は口元をゆるく許可の意味で持ち上げて、雲水に見せる。反応を見とめ、雲水はブラックコーヒーの入ったカップをソーサーに戻し、息を一度大きく吸い込み吐き出すと、阿含と目を合わせる。渇いた唇を舌先がなぞる。
「結婚した」
「いつ?」
「驚かないな」
「左手薬指に指輪嵌めて、神妙な顔して真面目な話があるなんて連絡されたら誰でも分かるっての」
「そうか。それで」
一度は目を丸くした雲水だったが、阿含の答えに謎が解けたとばかりに頷いて、先程の問いかけに続けて答える。
「婚姻届は、今日出した」
「あ゛?」
「だから、出した。もう、結婚した」
待て、と阿含は先程の雲水の言葉を頭の中で繰り返す。
結婚した。
雲水は確かにそう言った。した、と言ったのだ。する、ではなく、したと。
意外にも冷静さを欠いていたのは自分の方だったと阿含は額を押さえて溜息を零す様に呻く。兄の交際は両家合意のもとであったし、大学2年から同棲していたので、卒業後結婚するものだと阿含も思っていた。
結婚後報告を受けるとは阿含も思いもよらなかった。兄は時折突飛な行動に出る。
取り乱された平静を阿含は落ち着き、机を人差し指で二度ほど叩く。
「…てっきり、卒業後かと思った」
「子供ができた」
阿含は一瞬、その神速のインパルスという才能をもってしても、兄の一言を理解するのに数秒をゆうした。最も、計画性がないなど兄に最もふさわしくない言葉である。
雲水は驚きを隠せず、ぽかんと口を開けている阿含に分かりやすいように言葉を添えて再度繰り返す。
「郁に、俺の子供ができた」
「冗談きついぜ」
そう口にするも、阿含は雲水は決して、特にこの手のことで冗談を言う性質ではないことは重々承知していた。案の定、雲水からの返事は、阿含の想定通りだった。
郁の不貞を疑っても構わなかったが、阿含は郁がアホみたいに雲水一筋であることは知っていたし、そういう不貞を働くような女であれば、即雲水の隣から排除していた。そうでないから、郁は雲水の隣にいる。
何か月?
阿含は喉から声を絞り出した。俺、おじさんになるのねなどとありきたりな言葉しか口から出ない。阿含の動揺を知ってか知らずか、しかし雲水は憎たらしいほどに平静である。目に見えるほどはっきり動揺しているこちらがいっそ哀れにすら思えた。
「二か月。郁の両親にはこれから話に行く」
「何?おい、雲水。お前まだ、あいつの親に話に行ってねーのかよ!俺の方が先っておかしいだろーが!大体、婚姻届出す前に親に相談しろっての!」
順番を考えろ、と阿含は常識はずれの行動を取った兄に思わず声を荒げる。
順番は、確かに違う。何が違うかと、何もかもが違う。結婚するより先に子供ができたことも、それを報告する相手も。ああしかし。阿含は忌々しいほどに嬉しかった。先程の雲水の「お前が最初だと思った」と、あの言葉は、全く何の嘘偽りもなく、口元が自然と緩み、情けない表情を浮かべてしまう程に嬉しかった。
一気に話したせいで息が僅かに上がった阿含に雲水は優しく微笑みかける。
「そう言うな。俺は、お前に最初に話したかったんだ、阿含」
「…知らねえぞ。つーか、大学どーすんだ」
「大学は卒業する。もう内定も決まってるし、貯蓄は意外とあるんだ」
「まあ、そうだろうな」
阿含は納得で頷く。雲水は守銭奴というよりも、散在することをしない部類の人間である。本当に必要なものにしかお金は使わないため、必然的に貯金は増える。出産費用の心配はいるまい。
大学卒業まで五か月。腹が目立つ頃に郁は卒業する計算になる。卒業して、それからしばらくしてからの出産である。
雲水は腕時計へと目を落とし、もうこんな時間かと、カップに残ったコーヒーをすべて飲み干し、レシートを手に取って立ち上がる。
「すまんな、阿含。これから郁のご両親に挨拶に行くんだ。会計は済ませておくよ」
「待てよ」
そう言って、阿含は目にも止まらぬ速さで雲水が手に持ていたレシートをぶんどった。結婚祝いはまた後日ということにして、まずは世界でたった一人の兄に言うことがある。
「おめでとう、雲水」
支払いは前祝いだ。
有難うと安心したように破顔した兄を両手一杯にきつく抱きしめて、阿含は声を立てて笑った。
郁はサングラスをかけて、だらしのない格好でソファに腰掛けている阿含の前に温かい日本茶を置くと、その横に座り、テレビをつける。興味のないテレビだけが流れていく。
雲水は現在夜御飯の買い出しに出ており、室内に彼氏である雲水の双子の弟である阿含と郁は二人きりであった。
どちらも口を利かない沈黙を先に破ったのは阿含の方であった。彼はもとより沈黙は好まない性質である。
「つーかよ、てめーの両親も案外簡単に納得したな」
「これが阿含だったら反対だったろうけど、雲水だもの。そりゃ順番は違ったけど、雲水となら私どんな道でも歩いて行けるよ」
「殺すぞ、ブス」
最初の一言に過敏なまでに反応すると、阿含はすさまじい速さで郁を罵倒した。郁の両親は、大人にしては珍しく雲水のことをよく褒めていた。誰もが、両親でさえも己の類稀なる才能に目を奪われている中で、彼らは雲水のことを本当によく見ていた。あの両親の子供だから、郁は雲水の良さに惹かれていたのかもしれないと阿含はそう思ってやまない。
中学の時に外を遊び歩いていたら、郁の両親に見つかって実の両親でさえ叱らぬ天才を激しく叱り飛ばされたのは記憶に懐かしい。雲水と郁は結婚したのだから、双子の弟である身としては、あの親と親戚関係になるのかと思えばげっそりとするが、そう悪い気もしなかった。少なくとも彼らは、己と比較して雲水を傷つけることはない。
阿含は出された茶を口にし、不味いと、口の中に優しい味がしたにもかかわらず、そう評価した。
「雲水はおいしいって言ってくれるからいい」
「てめーは口開きゃ雲水雲水って、ガキの頃からそうだった」
「雲水かっこいいもの。小さいころから私のヒーローで、憧れで、大好きなの」
さらりと、流れるように惚気られ、阿含は顔を顰めて口をとがらせる。
「これから雲水と二人で一日一日歩いていくんだなって、そうやって考えるだけで本当に幸せ。阿含にもあげたいくらい」
「いらねーよ」
そんなもの。いらない。
阿含は憎まれ口の中に、一片の寂しさを噛ませて口にした。
まるで、三人の中でたった一人置いて行かれたような、一人ぼっちの寂しさが心臓を襲った。両手に二人の手を掴んで、真っ先に遊びに出ていたのに、自分が繋いでいない方の手は、二人ともいつの間にか繋がってしまっていた。
「寂しいの?」
「あ゛?寂しかねーよ、ざっけんな。おい」
女性の、柔らかな手が阿含の頭を撫でた。高校二年のアメリカで丸刈りにされた頭も、もうすっかり長さも元通りでドレッドにしている。
くしゃり。
柔らかな指先が、地肌を押すように撫でた。呼吸が、止まりそうになる。心臓が早鐘のように打つのを、誰にも聞こえないことを阿含は祈った。
郁、と名前を呼びかけて阿含はそれを喉元で押しとどめ、そのまま嚥下した。今、名前を口にしては何もかもが崩れてしまうような気がしてならなかった。
「変わらないよ。私も雲水も。結婚するし、出産もするけど、阿含との距離は一緒だよ」
暖かな言葉に阿含は頭にかかった手を振り払うことを忘れた。
「雲水の右隣は貰うけど、左隣は阿含のまんま。雲水は私の旦那さんだけど、阿含のお兄さんなのは今までもそうだったように、これからも変わらない」
安心していいよ。
と、そうや笑い声が耳を擽る。うるせぇブスと阿含は額を郁の肩に乗せて呻くようにして呟いた。長く伸びた縄のような髪の毛は表情を覆い隠し、情けないほどの朱色に染まった耳すらも郁の目から見えなくした。
阿含は思う。
雲水は、雲水にとって最高の女を手にしたと。
郁は他の愚鈍な連中と違って、自分と雲水を才能の差で差別はしない。郁の両目はただただ雲水の良いところを一つずつ掬い上げて見つけ、その柔らかな両腕は実のところ傷つきやすい兄の心を包むことだろう。
羨ましかったのだ。阿含は、郁が雲水を助けに走った高校一年生の秋を思い出す。電話越しに聞いた悲痛な叫びは、ただ雲水の名を呼ぶだけのものだったのに、心臓に突き刺さった。助けに走って、そこかしこにいた連中に再起不能になるまで暴行を加え、両手を返り血に塗れた姿で倒れている二人の姿を見たときは心臓が潰れるかと思った。気絶していた雲水はまるで死人のようで、背筋が凍りついたのも生々しいほどはっきりと覚えている。
ただそこで、郁が口にした言葉を阿含は珍しく、金剛阿含という男にしては全く珍しく、記憶していた。
阿含もよかったと、怪我などするはずもないのに、純粋な心配だけを向けられて、どうしようもなく青臭い子供のような恋心を今更ながらに自覚し、同時に失恋したのだと、阿含は生まれて初めて経験した比較による劣等感を覚えた。
阿含はすごい。阿含は天才だ。雲水はお兄ちゃんなのに。
最後の一言で顔に引き攣った、悲しげな笑顔を浮かべた兄の背中を阿含はいやというほど見てきている。しかし、どうでもいい連中の中傷など一体どれほどの意味があろうか。塵も積もればとばかりにその言葉は兄を責苛んだ。
けれでもその瞬間、阿含は思った。救急車を携帯電話で呼びながら、兄はもはや弟を最強にする以外、自身の価値をないものだと想っているが、それは違う。
雲水には、ただ郁がいる。
ベッドに横たわる気を飛ばしたままの雲水の顔を眺めながら、阿含はその事実を羨ましく、しかし兄を追い詰めている元凶は他ならぬ自分だという現実に、幾度となく繰り返した溜息を零した。
雲水をここまで追い詰めたのは自分のこの才である。ならば。ならば、雲水を苛む全てが望むように、自分は才能の世界に傲慢に君臨し続け、才能こそが最強であることを証明し続ける。才能がない者は虫けらのように踏み潰し、二度と立ち上がれぬようにする。そうしてこそ、雲水が救われるし、報われる。
それが天才と呼ばれ、雲水をどこまでも追い詰めた己の意義である。
しかし、そこはひどく寒い場所だ。
阿含は最後通牒を突きつけられたあの日に至ってようやく、何を言われても必死に努力して頑張って前を向いて隣を歩いていた兄の存在がいかに大きかったかを知った。
雨と涙で頬を濡らす雲水の願いに是と答える以外の選択肢を阿含は持たなかった。
雲水はその日から阿含の隣にいるのをやめた。傍にはいてくれたが、隣にはいなかった。
少し離れた場所から眺める雲水の表情は、阿含にはいつも歪んで見えた。難儀な性格をしている。それでも、雲水の隣には郁がいた。雲水の目には映っていなかったが、郁はそこにいた。
ただ、何も語らず、ただそこにいた。
「幸せになれよ」
「もう十分に幸せだって」
俺にはそれが、何より、羨ましかったんだ。
朗らかに笑う郁の声に、阿含はつんとした目の奥の痛みを押しつぶし、小さく笑い返した。