兄に彼女

 双子の兄には彼女が、正しくは、この性の乱れた時代に朴念仁の兄を一途に想っている女がいる。しかしはたから見れば一緒にいる姿はどうみてもただの兄と妹である。尤も二人に年の差はなく、学校こそ違うが同級生なのだ。

 雲水は中学二年に彼女から告白され、それを見事に双子の弟である俺、金剛阿含へのものだと勘違いし、一世一代の告白を玉砕させたのである。後日、雲水にチョコレートを渡した幼馴染にブチ切れたところ、その旨が発覚したが、雲水に伝えることはせず今に至る。

「また喧嘩したの?」

 呆れ果てた女の声が響く。裏路地の向こうへとサングラスの奥から目を向ければ、兄を想う幼馴染が学生鞄を片手に立ち尽くしていた。

 また喧嘩、など言わずとも、足元に転がる死屍累々を見れば一目瞭然である。

「あ゛ー?見りゃ分かんだろうが」

 阿含は険しい顔をしている郁を押しのけ、元の人が行き交う通りへと足を踏み入れる。そのまま雑踏へまぎれようとしたが、ポケットに突っ込んだ左腕に細い指先がかかって引き止める。

 振り払ってもよかったが、阿含は顔をひねり、足を止めた。

「手、出して」

「…チッ」

 言い出したら融通の利かない幼馴染の性格は阿含とてよく知っている。

 阿含は素直に諦め、捕まれた手を出した。差し出した手の拳の関節の部分は殴って半殺しにした連中の返り血と、それから歯に当たったのか軽く擦り剥けていた。郁は学生鞄のほかに背負っていたリュックから水の入ったペットボトルを取り出し、その中身で血を洗い落としてハンカチで叩く様にして拭く。傷の部分に絆創膏が貼られる。

 郁の手が阿含の手から離れる。指先から伝わった温度はなくなる。

「雲水にあんまり心配かけないのよ」

「んなヘマしねえよ」

 服に飛び散った返り血は女のところへ行って洗濯を済ませてから寮に帰るつもりだった。

 雲水はあの性格だから喧嘩を決して是とはせず、一度相手の返り血がべっとりついた胴着で寮に帰った際、ひどく心配された。怪我は本当にないのかと、鬱陶しいほどに確認され、それ以来喧嘩をした後は身綺麗にするまで兄の前に帰ることはなくなった。

 雲水は。

 阿含は心底思う。この幼馴染の瞳がただ一人、兄に向いていることを知ったらどんな顔をするだろうと。本日に至るまで、雲水だけを見てきた女は、郁を覗いて他にはいない。雲水は良くも悪くもいろんなものを諦めてしまった。主に自分が原因である。だから、阿含は雲水を幸せにしたい。原因である自分が願うのも本末転倒な気がして仕方ないが、いつの日か雲水が弟という鎖を断ち切って自分の隣で自然にいられる環境を夢見てやまない。

 それでも、郁に兄を渡すのは癪に障る。今まで自分がいた場所をとってかわられるのは気に食わないものである。

「雲水によろしく」

「死ね、ブス」

 憎まれ口を叩いて、阿含は返り血に汚れた胴着を洗うため、女のところへと向かった。

 全く。

 郁は阿含が消えてしまった方向とは逆方向に歩き出す。雲水に会えればそれはさぞかし幸運なのだろうが、腕時計を確認しても残念ながら部活動の時間にあたっているため、雲水と会える可能性はほぼないに等しい。否、ない。

 阿含と違って雲水が練習をサボることは決してない。その真面目な所がいいのだが、街中を歩く時間帯に雲水がいることは滅多にないからそれは少しばかり寂しい。阿含と遭遇する可能性はあっても雲水とはない。悲しいかな。郁は頬に手を添えて深い溜息を吐いた。

 溜息を吐いた分だけ雲水と出会える確率が高まればいいのにと郁は心の底からそう願ってやまない。その願いが届いたのかどうなのか、郁は視界に見間違えるはずのない坊主の横顔を発見した。端正な面持ちは確かに双子の弟と瓜二つだが、郁からすれば月とすっぽんである。天と地ほどに違う二人の顔を見間違えることはない。

 郁は未だに片思いを続けている相手の名を呼ぼうとして、その姿が細い路地に消えたことで口を噤んだ。ひどく焦った面持な上、人混みをかき分けるように走っていたので追いつけるはずもない。

 必死になって雲水を見かけた場所までたどり着くものの、坊主の姿は既にない。

 ここで諦めてもよかったが、郁は稀にしか会うことのできない雲水が街中にいるのだから探さない手はないと確信し、両手に拳を作り握り締めると、雲水が消えてしまった路地の中へと入りこむ。そこは、先程阿含が佇んでいたような場所で、一歩入れば薄暗く、外の暖かさとは一線を画した寒さが肌をなぞる。

 暮れ始めた日は空気を冷たい物へと変え始める。

 寂れた路地裏に怪しいネオンがちかちかと光っている。郁は心許無く両肩を寄せた。雲水、と小さく呼ぶも返事はない。暫く歩いた先で、鮮やかな看板が下がっている扉の奥から激しく物が壊れる音が響き、郁は咄嗟に足を止めた。薄い扉なのか、中の喧噪は手に取る様に分かった。

 近付かないようにするのが吉とばかりに郁は足早に扉の前を去ろうとしたが、騒ぎ声の中に聞き知った名前が届き、自身が止めるよりも早く手はその扉にかかっており、勢いよく開いた。

 明らかに分かるゴロツキ、あるいは素行不良の連中の中心、店の奥で壁に寄りかかって転がっているのが誰なのか、郁には手に取るようにわかった。

「やだ」

 着慣れているスウェットから両手が力なく垂れており、坊主頭は首から落ちている。余程手ひどく殴られたのか、口の端が切れて血が滲んでいる。

 やだ、と郁は繰り返す。周囲は扉の鍵をかけていなかったのは誰だと怒号が上がった。

 人の群れをかき分けるように郁は走り、雲水の傍へと持っていた学生鞄を放り投げて名前を叫ぶように呼ぶ。

「雲水!雲水、雲水」 

 反応がない幼馴染に最後は声はか細く泣きそうになる。両肩を柔らかく包むように掴み、郁は雲水の鎖骨あたりに額を乗せた。心臓はまだ動いており、その確かな鼓動だけが郁の助けである。

「きゅ、救急車」

 思い出したかのように、郁はリュックから携帯電話を取り出し、119番を押し、通話をしようとスライドさせたが、手が電話ごと蹴り飛ばされたことで電話はかけられずに終わる。床の上を携帯電話が滑った。

 靴先で強く蹴られた手の甲は真っ赤に腫れる。痺れるような痛みに郁は反対の掌で冷やす様に押さえる。一時、呆然と掌を見下ろしていたが、郁の視線はゆっくりと自身を囲んでいた連中へと移った。

 太い手が伸ばされ細い腕が掴まれると、体が力任せに宙に浮かされて雲水から離れる。尻餅をつく様に体は背後から転がった。

 やっちまえ。

 周囲が騒ぎ立て、郁の眼前の男が鉄パイプを笑いながら振り上げた。耳にうるさい音が頭の中にがんがんと響き渡る。力なく垂れた体は未だに反応がない。

「やめて」

 後ろに引き倒された体を足のばねで引き起こし、郁は背負っていたリュックを思いっきり振り被った。中に入っているのは学生鞄に入りきらなかった英和辞典に水が半分程度入ったペットボトル、ペンケース、タオル。遠心力で一層の重みが増す。

 目を瞑り、郁は振り被ったその腕を勢いに任せて振り下ろした。鈍い音が腕に振動となって伝わる。気持ちの悪さに郁は歯を強く食い縛った。

 男が握っていた鉄パイプが床に落ちて反響音が一瞬静まり返った室内に響く。同時に男は膝から崩れ落ち、リュックで殴られた後頭部を押さえて倒れこんだ。

「う、雲水に、これ、ここ、これ以上何かしたら、ゆる、許さないから!」

 膝はがくがくと笑い、リュックを垂らした腕は小刻みに震えている。歯の根はかみ合わずに目の奥はひどく熱い。今すぐこの場から逃げ出したい。しかし、郁は決死の覚悟で踏みとどまり、素早く雲水の前に陣取り鈍器と化したリュックの背負い紐を握りしめた。

 女の気迫に周囲は一瞬たじろいだものの、それはほんの僅かな、瞬きにも満たない時間だった。そして、次の瞬間郁の視界は真っ赤に染まり、くわん、と高い音が耳から脳味噌を突き抜けたのを聞いた。笑っていた膝が硬直し、何が起きたのか一瞬理解できなかった。大きくたわんだ視界に、先程頭を殴っていた男と鉄パイプはない。それは、大きな影となって郁の眼前に立ちはだかっていた。

 ひゅ。

 息が冷たく喉を通過する。

 守る。

 守るから。

 郁は力の抜けた足を叱咤した。怒りで顔の歪んだ男が前にいる。右手で振りかざされた鉄色のパイプの上から三分の一の位置には真っ赤な液体が付着している。それが自身の血液だと理解するには再度頭を衝撃が襲い、尻餅をつく様にして倒れてからだった。雲水の身体に背中からあたる。気絶をした雲水の身体は柔らかく、クッションのようにたわむ。

 リュックは手から離れて床に落ちた。やべーんじゃねーの、と頭の上から声が落ちてくる。額から粘り気の強い液体がどろりと皮膚を伝って鼻先を濡らす。このまま死んでしまうのだろうかとすら、思えた。

 立ち上がろうと体に力を込めるが、指先が痙攣するだけで、薄く開かれた瞳の先に汚れた靴先が見えるだけで体はちぃとも言うことを聞かない。背中に感じる力の抜け切った雲水の体だけが、ひどく温かく感じた。

 死ぬかも。

 命の危機とは、こういうものを言うのかもしれない。

 身綺麗にして帰寮した時、珍しく部屋に明かりがついていないことに阿含は気付いた。

 風呂かとも考えたが、雲水は部活と鍛錬が終わったらまず風呂に入る。大体寮の風呂の時間は決められており、壁時計を確認する必要もなく、周囲の暗さからすでにその時間はとうに過ぎていることが知れた。

 しかし、兄にしては珍しく汗臭い洗濯物がバックに入れられたまま放置されている。珍しいなどというものではない。考えられない。部屋は、違和感に満ちている。

 雲水は部活が終わった後はスウェットで走りに出かけ、小一時間走った後風呂に入って洗濯物を回す。その間に宿題と翌日の予習復習を済ませる。空いた時間は言わずもがなアメフトの研究に費やされている。全く娯楽のない面白味の欠片もない、規則正しい毎日を送っている。

 それを阿含は誰よりも知っていた。仮に他の連中の部屋に行ったのであれば、少なくとも部屋は片づけられているはずである。

「雲水?」

 兄の名前を呼び、この時間帯であれば布団が敷かれている部屋に入る。しかし、布団は畳まれたまま部屋の片隅に座っていた。

 電話をかけようとポケットに手を突っ込むが、携帯電話がない。どこかで落としたのだと阿含は気付く。だが、それよりも先に阿含はバッグの傍らに放り投げられた携帯電話を見つける。雲水のものである。

 落ちていた電話を拾い上げ、スライドさせればロック画面すら表示されず、簡単に中身が見られた。防犯意識のない兄に後日ロックのかけ方を教授しようと阿含は決める。

 まずは自分の携帯電話を探すかと阿含は履歴を探す。電話は昨日雲水に一度架けており、電話帳で探すよりも余程楽である。指先で画面をいじりつつ、阿含は通話履歴を開き、サングラスの下で目を見開き固まった。

 最終履歴は金剛阿含。午後6時15分。

 この時間に、電話は架けていない。そもそも今日は雲水に電話を架けていない。つまり。そう、つまり。

 全身が総毛立ち、阿含は部屋の扉を乱暴に押し開けた。心臓が耳を塞ぎたくなるほどに喧しい。指の先端まで神経が張り巡らされたように痛い。

「う、わ!あ、阿含さん」

 帰ってきてたんですかと一休がひどく驚いた表情で押し開けた扉の先に立っていた。

「あの、雲水さんもう帰ってますか?ちょっと今日の宿題で聞きたいところがあって、ぐ」

 阿含の手は恐ろしい速さで一休の胸倉を掴み、きつくきつく絞り上げる。サングラスの奥で鈍く光った怒り狂う阿含に一休は肝を冷やす。

「あいつ、どこいった」

「や、おれ、俺も知らないっス。ひどく、慌てた様子で走って出てって」

「…」

 片手で吊り上げた一休の体を放り投げ、阿含は大きく舌打ちをする。片手で自分の携帯電話から発信された履歴の残る雲水の携帯電話を壊れるほどにきつく握る。

 阿含さん、と走り出した背中で声が上がったが、すでに耳に届かない。寮を走り抜けて、長い階段を一気に駆け降りながら雲水の携帯でタクシーを一台呼びつける。こういう時こそ女を呼び出せばよかったが、どうでもいい女の携帯電話番号など覚えてなどいない。

 最後の階段を降り切ったところで、次のバス停まで走る。バス停に着いた頃にはタクシーは到着しており、阿含は扉が自動で開けられるのも待てず、壊さんばかりに乱暴に扉を開いてタクシーに乗り込むと駅までと口にする。

 恨みを買うには十分すぎるほどの行為を繰り返してきており、誰がなどとは阿含にすら見当もつかない。ヒル魔とつるんでいた時は、絶対的弱みをあの男が手にしていたためこのようなことはなかった。相手を叩きのめす時は、復讐などできないほど圧倒的なまでの力の差を見せつけ、二度と絡んでこないようしてきたつもりであったが、思惑は外れた。

 カス共が。

 身震いするほどの怒りが全身を、神経の一筋すら支配し眼前が赤く染まっていく。今こうして、大人しく座っているのは奇跡に近い。

 覚えがあるとすれば東京都内である。阿含にとっての遊びの場は東京であるし、神奈川で女とつるむことは滅多にない。今まで擂り潰してきたカス共もその八割は東京にいる。

 駅に到着したタクシーを降り、電車に乗り込む。特急快速。一席を陣取り、腰を落ち着ける。阿含が放つ殺気立った気配にその傍に寄ろうとする者は誰もいなかった。

 阿含はふと今まで気付かなかった自分を珍しく責めた。こんなことに気付かないなど、余程焦っていたのが手に取るようにわかった。

 電車内にもかかわらず、阿含は雲水の電話の最終履歴を叩いた。電話を架けたのは自分の携帯電話である。呼び出し音が耳の中でこだまする。早く出ろカス共と阿含は心の中で相手を口汚く罵った。十数回のコールの後、音がやむ。耳に飛び込むのは騒がしい男共の声。どうやら誰かが出たというわけではなく、操作ミスで勝手に繋がったような状態のようである。しかし、通話口は外の音を拾った。

 、のアニキだろ?

 はっきりとした音声が耳に届く。

 お前の弟君さぁ、俺のかわいーかわいー後輩をぼっこぼこにしてくれちゃったワケ。

 擂り潰してやる。阿含は携帯を壊さずにいることは奇跡だと思った。声は喧噪のなかで続けられる。

 弟の不始末はアニキがとるって、常識でしょ?

 電車は停まった。

 阿含は扉が開くのも待ち遠しく、開きかけの扉をこじ開けて構内に飛び込み、走り出す。携帯電話は耳に当てたまま。ひどく錆びれた音楽が微かに響いている。

 雲水に手ェだしたらてめえら全員生まれたことを後悔させてやる。

 こちらから話しかければ電話を切られる可能性は非常に高い。自分に手を出せないからこそ、兄である雲水を呼び出したのである。やれやれと沸き立つ声と何かが殴られる鈍い音が響く。やり返せよ、と阿含は歯を食いしばる。しかし、雲水は手を出さないに違いない。下手をすれば試合に出場停止の可能性も出てくる。笑い声はひどく耳障りだった。

 阿含は必死に雲水がいる場所を考える。百人の一人の天才の脳味噌は、いざという時に役に立たない。

 しかし、阿含は視界の端でこちらを見て怯えた顔で背を向けて逃げ出した二人組を発見した。驚異的な反応速度で阿含は背中を向けて逃げ出した二人を捕まえると一本細い道へと入り込み、その首を片手で締上げる。もう一人は金玉を蹴り潰した。股間を押さえて青い顔で蹲っている。

「…よう、聞きてえことがあるんだが」

 連中の顔に覚えなどないが、顔に絆創膏や目の周りの青痣を見るに殴り合いの喧嘩をしたのは間違い。さらにこちらを見て逃げ出したとくれば、一方的に叩きのめした連中だと確信ができる。

「俺のおにーちゃん知らねーか?坊主頭で」

 沸点などとうに過ぎている。一周回って阿含はひどく優しく聞いてやった。しかし、首を絞めつける力は強めていく。相手の顔色が次第に土気色になる。連れの生命の危機を感じたのか、蹲っていた男が足に縋り付いた。

「し、知ってる!知ってるから、放してくれ!新宿のビビアンって店だ!死んじま」

 阿含は最後まで言わせることをせず、足に縋り付いた男をそのまま蹴り飛ばし壁に激突させる。首からは手を放して、とどめとばかりに鳩尾に膝を叩きこんだ。

「知ってんなら、最初ッから言えよ」

 男が口にした店を阿含は知っていた。場所はここから走って十分程度である。最短距離を阿含は人混みをかき分けて走る。耳に押し当てたままの携帯電話からはとうとう暴力の音が途絶えた。

 阿含のアニキだっていうから、強ぇのかと思ってたが拍子抜けだな。

 嘲笑が響き渡る。店に着いたらまずはコイツから擂り潰す。阿含は決めた。

 そういや阿含アメフトやってるって噂ですよ。ほら、アニキと二人で。腕折っちまいましょうよ。

 殺す。今発言した奴は地獄の釜の蓋開かせてやる。

 いい考えじゃねえか。オイ誰か、パイプよこせ。

 そこで声が止まった。扉が押し開けられた音だった。突然の来客なのか、電話向こうは一瞬声がやむ。

 雲水!雲水、雲水。

 女の声だった。阿含はこの声の主を知っている。兄に片思いをし続けている幼馴染、郁。

 ど、と心臓が騒いだ。雲水に引き続き、郁。お前、そんなに強くないだろと阿含は歯がゆい思いに胸を焦がす。小さい頃から怖がりで、よくいじめていたところを雲水に始終咎められた。弱くて、小さくて、その上女で。電話向こうの光景は、怖ろしいほどにくっきりと頭の中に思い浮かべることができた。生まれたての小鹿のような足で立っているのだろう。

 好きな男を守るために。

 おい、死んでねえかと焦った声と同時に阿含は携帯を握り割った。怪しいネオンの看板を据えた扉を蹴り破る。

 殴った。相手が何かを口にする前に殴った。奥に輪を描く様にして溜まっていた人間の頭をカボチャを割る様に殴る。時に腕の足の骨をへし折る。ゴミ虫のように集ってくる連中の歯を叩き折る。逃げようとした男の襟首をひっつかみ、背骨を蹴り折った。

 誰一人逃がさない。

 狂ったようにアドレナリンが全身を駆け巡り、阿含は倒れている人間にすら容赦せずに攻撃を加えた。最後に残った一人は鉄パイプを持っていた。鉄パイプには血がべったりと付いている。部屋の奥の壁を背に倒れている雲水とその身体にもたれかかる様に額から血を流している郁が倒れこんでいる。

「死ね」

 他に何を言う必要もなかった。怯えて振りかざされた鉄パイプを腕力で奪い取り、反対に振りかぶった。風を切る音と共に、男の右肩から砕く。二打目は脇腹からかちあげた。砕けた膝にとどめの一撃を刺し、顔を蹴り飛ばした。

 死屍累々。店で動ける人間は阿含の他に誰もいない。

 阿含は倒れている二人に駆け寄ると、まずは雲水の肩をゆすった。

「雲水」

 瞼がぴくりと動き反応を示す。生きている。阿含は胸を撫でおろした。大層殴られたようだが、骨折等はしていないようだった。

 あご、と小さく擦れた声が耳に届き、サングラスの奥で阿含は目を見開いた。どうやら郁はまだ意識があるようだった。見た目はこちらの方がひどいというのになんとしぶとい。

「よう。生きてっか」

「ん、すいは?」

「…あ゛ー生きてる。心配すんな、どこも折れちゃいねえ。気絶してるだけだ。明日にゃ元気にアメフトしてっからよ」

「あ、ごは?」

 俺?

 阿含は言葉に詰まる。雲水馬鹿な幼馴染の予想外の心配に、阿含は応えるために一寸の時間を要した。

「カス相手に怪我なんざするかよ。怪我してんのはてめーの方じゃねえか」

 なぁに?お前は愛しい愛しい雲水のことしか目に入ってないんじゃねーの?

「よかった。うんすいも、あご、んもよかった」

 呂律が回っていない郁の髪の毛を撫ぜる。乾いた血がこびりつき、べりべりと千々に剥がれ落ちていった。見た目の出血はひどいが、傷自体はそう深くないようで、縫うか縫わないか微妙なラインの怪我だった。

 出血の所為で眠気が来ているのか、郁の瞼は今にも落ちそうだった。それでも意識を手放さなかったのは偏に雲水がその場にいたからである。

「よかねーよ、ブス」

 阿含が到着したことで安堵したのか、全身の力が郁の細い両肩から完全に抜け落ちて意識を飛ばす。体は雲水の上にすっかり凭れ掛かり、その伸ばされた指先は兄のスウェットに離れまいとかかっている。

 何だと阿含は思った。

 失恋したのか。

 雲水の背中を追いかけてばかりいる幼馴染に抱いていた淡い恋心を今更ながらに自覚した。自覚したところで、どうにかなるものでもない。郁は雲水しか見えていない。郁にとって、自分は手間のかかる雲水の弟くらいの存在だ。

 罪悪感を引きずった雲水への感情だが、兄の隣に郁がいるときだけは、そんな感情すら鳴りを潜める。兄と、下らない確執から目を向けて三人でつるむ瞬間は何物にも代えがたい時間である。

 こんなチンチクリンに、と阿含は嘆息した。

 郁。

 雲水は病院のベッドに横たわる幼馴染の瞼が持ち上がったことに雲水は安堵の息を漏らす。

「阿含、目を覚ましたぞ」

「騒がなくても、わーってる」

 双子の顔を郁は視界に捉えて長い息を吐いた。頭にかかっていたボヤがゆっくりと晴れて意識が鮮明なものとなる。ぱっと瞼を上へと押し開き、上半身をばねのように勢い良く上げた。しかし、勢いをつけすぎたのか、くわんくわんと金盥を叩いたような音が頭に響き、火花が散る。

 バーカと阿含は郁の頭を小突く。雲水はそれを見咎め、阿含!と病院内ということもあり、抑え気味に怒鳴りつけた。

「郁は頭を怪我しているんだ。大体今回の騒動はお前が原因だろう」

「ハァ?雲子チャンが俺がとっつかまってるなんざ馬鹿げた嘘に騙されてホイホイ呼び出されるのがいけねーんだろうが。俺がそんなヘマするかっての」

「勝手をするのはいいが、心配させるなと言っているんだ!」

 声を荒げた雲水と次の反論を口に含んだ阿含に郁はうんざりしながら手を上げて、火蓋がきられた喧嘩を止める。

「阿含、怪我人の前で口喧嘩するの止めて。今回の件は私も雲水に同意する」

「…てめーが雲水じゃなくて俺の味方したこと一度もなかっただろうが」

 阿含は大きく舌打ちをして、備え付けのパイプ椅子から腰を上げる。目が覚めたら用がないとばかりに、阿含は乱暴に病室の扉を開けて出て行った。

 束になったドレッドヘアーが白い扉の向こうに大きな足音と共に消え、郁はベッド横に座る雲水へと向けた。顔には痣がいくらかできており、痛々しさを感じたが、それ以外は無事なようで胸を撫で下した。

「郁」

「は、はい」

 厳かな響きすら帯びて雲水の唇から発された己の名前に郁は両肩をびくりと震わせる。緊張で顔に熱が溜まっていくのが分かった。どうぞ、頬が赤くなっているのを雲水に悟られませんようにと郁は心の中でそればかりを願う。

 くりりと開かれた両眼に雲水は深い溜息を漏らした。

「もう、あんな真似はするな。お前も…心配させるな」

「でも」

「でももだってもない。相手も殺しなんかしない。俺は体も丈夫だし、ちょっとやそっとじゃ平気にできてる。だが、郁。お前は違うだろう」

 うわ。

 まっすぐに向けられた雲水の真摯な瞳に郁は激しい眩暈を覚えた。心臓が破れそうなほどに叩き鳴る。顔から火が出るという慣用句はこんな時にこそ使うのが正しい。視線を下にやれば指先まで真っ赤になっている。

「俺は、阿含と同じくらいお前も大事なんだ」

「う、う、うん」

 今なら幸せで死ねると郁は全身全霊でこの喜びを噛み締めた。大事にしろよ、と雲水の、アメフトのボールを投げ続けて固くなった掌が傷に触れないように頭をなでる。

 頭洗わない!

 目を細めて笑う雲水の姿は格好いい。カッコ良すぎて、気絶しそうである。

 もう寮に戻ると立ち上がった雲水の袖に指先を伸ばしかけ、しかし伸ばした手を郁は思いとどまり引っ込めた。気を付けてと代わりに笑って送り出す。今はただこの幸せに浸れるだけで十分だった。

 扉を閉めた先に阿含が病室の壁に凭れ掛かっている。

「なんだ、待っていたのか」

「…雲子が悪いやつに引っかからねえようにな」

 減らず口を叩く弟に雲水は口をへの字に曲げる。阿含は壁から背を放し、雲水よりも一歩先を歩き始める。

「平気か」

 謝罪代わりの言葉に雲水は素直じゃないと小さく笑う。

「ああ、平気だ。打ち身程度だからな」

「あ、っそ。そーいや、てめーの携帯ぶっ壊れたわ」

「…それは、ぶっ壊したの間違いじゃないのか?」

 阿含、と雲水は弟の背中を笑って小突いた。