лавина - 1/2

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 指先で一枚の紙を折り続ける。
 一つ折り二つ折り、また三つに折り四つに折る。掌の中で見る間に小さくなっていくそれは、とうとう厚みだけを増やして折ることができなくなった。端と端を丁寧に折り合わされたものは、乱雑に折られたそれよりもずっと小さくなっている。
 紙なのかゴミなのか、すでにもう判断の怪しい物を手にしていたのは、ガラスの奥を一切見せないサングラスを掛けた女であった。淡い茶色の髪の毛は片の辺りで切り揃えられ、軽く首筋を隠す程度だ。
 彼女は多くの人が座る店先のテラスに並べられてあるテーブルの一つに行儀よく、膝をそろえて座っていた。向かいの席は空いており、その光景は、誰かを待っているようにも見える。店員が持ってきたホットミルクに女は口をつけた。喉が、食道が動くことによって上下に揺れる。男のように喉仏はないために、その動きは明確にわかりはしなかったものの、それでも液体が喉を通過したことは十分にわかる。
 そして、女が一口、口をつけたカップをテーブルに戻すとほぼ同時に、空席だった椅子の背凭れが引かれる。
「お待たせしましたか、マリンカ」
 堀の深い顔立ちが陰りでより一層、顔の凹凸が大きく見えた。ラヴィーナは男の顔を見とめ、首を横に振った。事実五分と待っていなかった。
 訪れた男は椅子に座り、店員にコーヒーを一杯注文する。離れていくその背に再度声をかけることもなく、男はラヴィーナの前で手を組み肘を付いた。眉下の、時には身震いを覚えるほどに恐ろしく鋭いその瞳は、今は優しげに、不自然さを覚えるその優しさで細められていた。
 眼前の男と優しさという言葉は、ラヴィーナの中では一切結びつきを持たない。目の前の男が何の躊躇もなく人を殺す人間であることをラヴィーナは知っている。そして、そこには一遍の罪悪感もない。時に目的すらないことも、同様に知っていた。故に、ラヴィーナは目の前のロシア人を優しいと評することを今まで決してすることはなかった。尤も、その男と自分達があまりそう大差のない事実も同じく知っていたので、その現実を批難することもまた、しなかった。目的のない殺害はないけれども、しかし命令の一つがあれば、躊躇いといった感情を一切挟むことなく、ラヴィーナはそれを行えた。
 ロシアの、かの極寒の地に吹き荒ぶ雪の冷たさよりもなお凍えるほどの色をその瞳はしている。
 ラヴィーナは口を噤んだまま、男の目をサングラス越しに見つめた。尤も、男が女の瞳を見ることは、そのサングラス故にかなわない。
 運ばれたコーヒーにミルクを入れて混ぜ、一口飲み、男はおいしいですねと他愛もなくそう告げた。しかしながら、その甘い声に女が表情の強張りを解くことはなく、緊張はその口端から見て取れた。頑ななその態度に男は肩をすくめ、コーヒーを受け皿へと戻した。
「つまり本題に、と」
 いう話ですか、と男は窪んだ眼窩の奥の瞳に鋭さを滲ませる。瞬間的に走った凶暴な色をラヴィーナは捉え、唾を飲み込み、四肢の先に力を込めた。
 喉をひっかくような笑いを三日月からこぼしながら、とうとう男は呵呵大笑した。周囲の視線が集まったが、それはすぐに呆れた様に四散する。男の笑いの意味が分からず、ラヴィーナは全身に張り巡らせた緊張を解かない。
 男の、手袋に包まれた指先が薄い唇をなぞって見せる。
「以前から思っていたことですが、貴女の名前をロシア語で書くと面白い単語になるんです」
 怪訝そうに眉を寄せた女に男は勿体ぶる様にひきつけ、そして答えを笑みのもとに口にする。
「лавина.イタリア語だとvalanga」
 ロシア語、イタリア語の両方を解する女はその単語に唇を固く強く引き伸ばし、サングラスの奥から男を睨みつける。尤も、その瞳の動きが男の網膜に映し出されることはなかった。けれども、女がひどく屈辱的な表情をしたことは汲み取った様子で、ひどく満足げに目を細めた。
 そこは。
 そう、男は続けた。
「ひどく生きづらくはありませんか?」
 男の問いに女は首を横に振る。
 それを確認して後、男はさらに言葉を続ける。その言は、まるで女が固く閉ざした心を揺さぶるかのようであった。
「先程の光景を見てはそう思わざる得ません。理解されない苦しみは少なくとも知っています。苦しいでしょう?貴女の兄を含め、周囲の人間はそれを貴女に受け入れろと言っているのではありませんか?マリンカ」
 ひゅ、と女の呼吸が乱れたのを男は見てとり、机の上で握りしめられている女の手に自身の手袋を嵌めた手を重ねた。
「家族と称し、しかしその一員が化物扱いされても、怒ることをせず、貴女に耐えろと強いる。辛いでしょう?マリンカ、マリンカ。私の可愛い小さな花。辛酸を舐めることに慣れてしまってはいけません。あなたは、一人の女性です。辛い時には辛いと言い、泣きたい時には泣いて構わないのです」
 首が再度横に振られたが、その勢いはひどく弱い。
 追い打ちをかけるように、男は優しく甘い言葉をその死を紡ぐ口から吐き出した。指先で、女の手の甲をゆるりとなぞり上げる。
「我々なら、貴女を差別するようなことはしません。我々は凍えるもの全てを受け入れる。餓えるもの求めるものあらゆるものを。どうです?лавина、私の小さく愛しい花。私と共」
 しかし言葉は最後まで続けられることはなかった。
 それは、いつものように、女の恐ろしい死の権化でもあるかのような兄が男の後頭部に銃を突きつけたわけではなかった。男は、せりあがった喉仏に添えられている一枚のトランプカードの先から、ちりと走った痛みに口元の笑みを取り払った。
 女の手に添えられている指先はそのまま、男は空いている片方の手でコーヒーの入ったカップを取り、鋭く加工されたカードが自身の喉を掻き切らぬよう注意して残りのコーヒーを全て飲み干した。
 小さめの白いテーブルを横断する白い腕を手首から肩までなぞるように男は視線を滑らせた。それは首筋を這い上り頬を撫で、そして相手の眼球までたどり着く。サングラスの奥は決して外側から覗けないはずであるというのに、女は男の視線を確かに感じた。優しく吹いたはずの春風は、男の視線が辿った部位だけ恐ろしいほどに冷たい物へと変化したような感覚に女はとらわれたが、腕を僅かたりとも動かすことはなかった。
「息苦しいと感じたことは?」
 ラヴィーナは男の問いに首を横に振った。
「差別されていると思ったことは?」
 再度首を横に振り、Noを示す。
「しかし、そこにいる限り貴女は永遠に怪物のままです。人間でありたいと、そう、思ったことは」
 女は外では任務以外では滅多に動かさない顎を下へと下げた。声が出るわけでもなければ、音が出るわけでもなかった。ただしかし、女は唇としたの形だけで、NOと断言する。
 そうですか、と音は始終断られ続けたその事実に肩を軽く上げる。
「残念です。しかし私は貴女が欲しい。さて、どうすれば、貴女を手に入れられるでしょうか」
 僅かに男の体が押し出され、喉元に突き付けていたカードに皮膚が乗る。寸分でも動けば、男の喉には亀裂が走る。しかし、ラヴィーナという女はその男の行動に対して、いかなる動揺も見せることはなかった。
 周囲の喧騒ばかりが騒がしく、ひどく浮ついて響く。
 男は席を立ちあがり、かけていたコートに袖を通す。そして、女を見下ろし、男は柔らかく笑んだ。どうぞ。男はそう紡ぐ。
「我々は貴女を化物と差別をしないことを、心の片隅に留めておいてください。常に、貴女の味方であることを」
 愛しのマリンカ。
 男は口元に薄ら寒い笑みを刷き、名を呼んだ女の手を取り、唇を添えた。すぐさま引かれた手に笑みを含む。
「надеюсъ, что мы скоро увдимся(近いうちに)」
 男の頭を覆った帽子は目深にかぶせられ、広がる雪原のような瞳は影に飲み込まれた。は、と息を吐くころに、男の姿は既に女の前から消えていた。ただ、机の上に置かれた二人分の代金とチップを合わせたEURO紙幣が、そこに男が確かにいた事実を語っていた。
 ラヴィーナは疲れた様に背凭れに体を預け、手に持っていたトランプを手首を回す動作だけでその場から消した。群衆の中で一瞬披露された手品は誰にも見られることはなく、雑踏の中に音ばかりが紛れ込む。
「お前の答えを、誇りに思う」
 ラヴィーナは突如気配もなく背後から落ちた声に体を強張らせた。振り向くことはできず、またからからに乾いた口では唾を飲み込むこともできない。サングラスの奥では、羊のような瞳が大きく見開かれてガラス体の渇きを訴えた。
 その背凭れを大きな骨ばった男の手が掴む。
「嬉しく思う」
 ラヴィーナ。
 言葉が鼓膜を叩いた頃に、ラヴィーナはようやく後ろを振り返ったが、そこには顔も知らぬウエイターが立つばかりで、声を発した人間は立っていなかった。椅子の背凭れに女以外の体温は残されておらず、先程の声は幻聴ではないのかと錯覚する。けれども。
 けれどもしかし、ラヴィーナは確信していた。あれは、兄の声であると。
 慟哭していた心臓が、赤血球の一つに至るまでにざわめいていた血液が、それを認識した途端、突如静まり返った。椅子に座っている女はその刹那の時のみ、ただの人形になった。ふ、と再度呼吸すると同時に、血色が戻る。脈打つ心臓は確かに、動いていた。
 ウエイターは机の上の金を手に取り、ポケットに収める。他の注文を聞き、ラヴィーナがかぶりを振ったのを見、ごゆっくりどうぞと空になった、男が飲み終えたコーヒーカップを下げる。机の上には、冷めてしまったホットミルクばかりが残されており、とうとう、時間が巻き戻り、初めからこの席には女しか座っていない光景となった。
 冷たくなった牛乳を一気に流し込み、そしてラヴィーナは席を立った。椅子をしまう。ウエイターが訪れ、カップを片付けテーブルを拭けば、やはりそこは誰も座っていなかったと錯覚させる姿になるのだろうと、ラヴィーナは目を細め思い、そして踵を返し、その場を後にした。