Чужая душа-потёмки

 長く白く続く廻廊の先から、怯えにも似た引き攣り上がった悲鳴に近い声が空気を震わせた。あまりにも小さなそれではあったけれども、大層耳の良い男にとって、聞き取るには十分の声量であった。
 ひょうたん型の、ウエストはきゅっと引き絞られ、上と下は滑らかなラインを描き、着こなしているスーツを押し上げている。女であった。元より長い、草食動物を思わせる細い足には高めのヒールで底上げされ、より足を長く魅せていた。戦闘には不向きな服装であったが、女の持っている書類とその体型を見れば、彼女が前線に出ることの無い人間ではないことは、一目で理解できる。
 そして、その女の前には、指先を軽く引っ込めた女が、脛の上、膝の下まできっちりと覆うブーツでズボンの裾を入れ込み、風の抵抗を極力少なくした、行動重視の服装をして立っていた。淡い栗色の髪は、対面する女の鮮やかな太陽を思わせる亜麻色のそれと比較してひどく短い。かといって、刈り込まれているわけではなく、丁度項が見えるか見えないか当たりのラインで綺麗に切り揃えられている。人間の感情のほぼ八割を決定しているであろう顔には黒い垂れ布が下がっており、その奥は一切見えない。横からも見えないよう、その漆黒の布は耳の手前まで流されていた。
 僅かに肉が見える程度に切られている爪先は武器やその外類に引っ掛からないようにするためである。その指先、親指と人差し指は申し訳ないように小さなゴミ屑を持っていた。両肩は内側に寄せられ、怯えた女性に対して、非常に申し訳なさそうにしていた。黒幕のその奥では、奇妙な形をした瞳が足元に指先にどうしたらいいか分からないかのように彷徨っているのであろう。男にそれは容易に想像できた。
 ごめんなさいとその単語が非常にたどたどしく怯えている方の女の、口紅に綺麗に彩られた唇から零れる。そのフレーズとは別に、態度はただただ硬いままで、目の前の女に対する恐怖は一切取り除かれてはおらず、兎にも角にも早くどこかへ行ってくれと態度で空気で示していた。それに女はさらに申し訳なさそうに淡い色の髪の毛を下へとやり、指先につまんでいたゴミをポケットに入れた。黒と浅い黄色で構成されている女の服に皺が寄る。
「Извините, можно спросить?(失礼、よろしいですか)」
 ウラディスラフはそんな二人の思わず声をかけるのを躊躇われるような空気を無視して声をかけた。
 革靴の底が固い音を床と立てる。女は驚いたように顔を跳ね上げ、顔にかかった髪をマニュキアで綺麗に色づけされた爪先で耳に掛けた。柔らかな髪質が耳にかかると同時に空気を混ぜ、花の、香水の匂いがふっと鼻先を擽った。
 ロシア語が分からなかったのか、イタリア語が返される。母音が多く耳に優しい音が女の唇から紡がれていく。
「Scusi, che cosa ha detto ?(すみません、何とおっしゃいましたか)」
 女の答えにウラディスラフは軽く喉を鳴らし、今度は母語ではなく、イタリア語で女に問い掛ける。
「Ho un appuntamento con il signor Sawada…Mi chiamo Vladislav Danilovich.(沢田氏とお会いする約束になっているのですが…私はウラディスラフ・ダニロヴィチです)」
「Signor Danilovichi! Prego, per di qua.(ダニロヴィチ様!こちらでございます)」
 名前を聞いた瞬間、女は目を見開いて顔を青くした。あからさまな態度の変化にウラディスラフは口元を歪める。ただ、相手がイタリア語を解する人間だと分かり、多少の安堵の色を顔に滲ませた。
 女とのやり取りが終わり、ウラディスラフは立ち竦んでいた、あどけなさをどこか残す女へと目を流し、案内をするために一度は背を向けた女へと、少々お待ちくださいと声をその背に掛け、女が僅かに制止したのを無視して、一歩、肩を寄せた女性へと近付いた。そして、距離が縮まった女が自身の母国語を解することを承知して、また待つように頼んだ女がロシア語を解さないのを理解して、口を開く。
「Почему ты грустый, малйна?(どうしてそんなに悲しそうな顔をなさっているのですか、マリンカ)」
 覗き込むようにして近付けられた顔に、マリンカと呼ばれた女は、ラヴィーナは肩をさらに縮こませてに散歩後ずさった。ふる、と切りそ揃えられた髪の毛が首を横に振る動作でスカートのように風を含んで持ち上がる。
 持ち上がった髪の毛を一筋掬い取り、ウラディスラフは愉快気に口角を持ち上げ、それに唇を添えた。
「見なくとも、分かります」
 口のきけないラヴィーナに優しげな声で囁くように呟く。
 その二人の間に失礼ですが、と躊躇いと共に時間を無駄にされた案内の女がおそるおそる声をかけた。ラヴィーナの顔が自身へと向けられたことに気付くと、やはりはっきりと見て取れるほどに体を緊張させる。大概に失礼ではないかとウラディスラフも思ったが、それもまた仕方のないことだと詰問することは避けた。
「申し訳ございません、ダニロヴィチ様。その、彼女は…ええ、口がきけません。どうぞ、危険ですので、その」
 本人がいる前では流石に憚ったのか、女は言葉を濁す。
 その程度の分別はある様子を見せた女に目を細め、そして、そうですかと短い返事をした。女の顔に安堵の表情が一気に広がる。それは、その場を一刻も離れることができるという意味での安堵と、賓客が危険に晒されないで済むという二つの意味を持っていた。
 本部は随分と危機管理意識が低いとウラディスラフは思いながら、ラヴィーナの手を握った。窪んだ掌に感じた紙片の感触に、ラヴィーナは顔を上げる。顔にかかっている布が鼻の先で軽く折れ曲がり、布の奥からの視線をおずと向けられる。ウラディスラフはそれに気付き、人差し指をそっと自身の薄い色をした唇に添えて見せた。
「後程」
「後も何も、ない」
 視界の隅で案内役の女がさらに顔色を悪くし、青色を蒼白、もう紙の色と同等な程に真白くさせていた。顔面は恐怖で引き攣り、引き絞られた唇は、現在でこそ口紅で色を付けているが、それを取り払えば、恐ろしく色が悪くなるのは目に見えている。
 ウラディスラフは大口径の銃口が後頭部にしっかりと添えられているのを感じた。先程投げつけられた男の低い声は、いい加減に聞き慣れたものであり、無礼千万の挨拶の仕方も驚くべきことではなかった。
 ラヴィーナの手に添えていた両手を離し、ウラディスラフは口元を緩く歪ませる。
「案内役の交代でしょうか。それとも、始めから貴方が案内役でしたか」
 黒髪の隙間から覗く色の浅い赤は軽口を叩く来客を睨みつけ、そして、その隣に立っていた案内役の女へと移された。短い悲鳴が女の喉へと消えた。同胞にでさえこのように恐れられているとなれば、この男の強面も大層なものである。ウラディスラフは喉を震わせ笑った。
「もういい。後は俺が案内する」
 枯れた声で女は男が発した言葉に返事をすると、逃げるように去って行った。ヒールの音だけがこだまして後を追うように残る。
 後頭部に当てられたままの銃口に抗議をしようとするとほぼ同時に、ウラディスラフの前で小さめの、文字が記されたメモ帳が動いた。Theoと書き記されたその文字の下には、Non farlo(やめて)とサインペンで急いだためか、乱暴な文字で記されている。
 男は、ラヴィーナの兄にあたるセオは、それを眺め溜息を吐くと、ようやく銃をホルスターへと戻す。
「ラヴィーナ、あまりこいつに気を許すな」
 本人の目の前で少なくとも言う言葉ではなく、その点において言えば、先程の逃げるように去った女性の方が幾分か分別があるというものである。ウラディスラフは銃口が当てられたために乱れた髪を撫でつけ直すと、背筋を伸ばした。他人と視線が同じ位置に来ることは珍しく、赤い色の目と視線が衝突した時に、ウラディスラフは思わず顔を歪めて見せた。どこか、僅かに不愉快さを感じるが、それはおくびにも出さずウラディスラフは表情を一切変えなかった。
 兄の言葉に、妹は二つ返事を口にする代わりに首を縦に振った。甘い色の髪が軽く振れる。素直なその姿に、セオは腰に当てていた手を下ろして、代わりにその柔らかな髪を撫で、気を付けろともう一度だけ念を押した。
 二つの赤い視線がウラディスラフへと再度向けられ、来い、と端的に言葉が放たれる。
「ラヴィーナは、いい。帰れ」
「残念です」
「今すぐ頭をぶっ放されたいらしいな」
 米神に青筋を浮かべたセオに、ラヴィーナは慌ててもう一度メモ帳を押し出して、二人の下らない諍いを止めると、一礼してその場を後にした。ウラディスラフはラヴィーナのその背に手を振ったが、きつい視線が横から送られているのに気付いて手を下ろす。
 人が減り、広く感じられるようになった廊下であったが、長身の二人が並んで歩くとやや手狭に感じられる。二人はただ互いに言葉を交わすこともなく、しかしその沈黙を重苦しいと感じることもなく、目的の部屋まで黙々と歩き続けた。
 部屋の中には一人の男が大きな革張りのソファに腰かけている。柔らかそうな髪質が目元に軽くかかっていた。ソファの大きさに対して、座っている男が小柄で細身なせいか、酷く見劣りがしたが、腰かけ方とその自然な仕草がそれらを補っていた。
「Рад познакомиться, господин Савада. Меня зовут Владислав Даниилович.(初めまして。お会いできて光栄です、沢田氏。ウラディスラフ・ダニロヴィチと申します)」
「初めまして。お会いできて光栄です、沢田氏。私の名前はウラディスラフ・ダニロヴィチです」
 流暢な日本語で自身の言葉を翻訳され、ウラディスラフは斜め後ろに立っていたセオへと片眉を上げて視線を送る。その行動に、前方にいた小柄な男性が立ち上がり、自然な動作で手を差し、握手を求めた。
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです。沢田綱吉、ボンゴレ十代目です。ロシア語が話せないので、彼に通訳をしてもらっています」
「Я тоже. Я-Цунаёси Савада. Вонгола X. Он переводчик, так как я совсем не говорю по-русскиу. 」
 セオの通訳が終わると同時に、ウラディスラフは軽く顎を上げて笑った。
「日本語、話せますか?」
 たどたどしくはあるが、確かに日本語のそれがロシア人の容貌をした男の唇から紡がれた。ぱちり、と綱吉は大きく目を瞬かせる。
 握手のために伸ばした手は、その時に、握手をされないまま下された。しかし意には介さず、口元には笑みを刷く。
「驚いた。日本語を話されるんですか」
「聞くは大丈夫です。話すは少しです」
「…やはりセオに」
「大丈夫。言いたいことは伝えます」
 浮かべられた人当たりの良い笑顔に綱吉はつられて微笑む。そして、その手に促され、ウラディスラフは綱吉が座る対面のソファに腰かけた。セオはソファの後ろに大人しく躾の行き届いた軍用犬の如く立っていた。
 さて。
 ウラディスラフは膝を組み、その上で指を絡めた。前置きも何もなく、ウラディスラフは本題へと遠慮なく口火を切った。
「麻薬取引と同盟について、です」
 その一言に綱吉は先程まで朗らかだった表情を引き締める。
 先刻までのたどたどしい日本語は嘘のように、滑らかにウラディスラフの舌が滑る。まるで、その部位だけ練習してきたかのような話し振りであった。
「それから売春についても」
「…失礼ですが、ボンゴレについて何か勘違いしていませんか。俺達は売春にも、麻薬にも手を出さない。これは、我々の、掟、です。ですから、我々が手を組むファミリーは、例え大小の違いあれ全て売春と麻薬を禁止してもらっています」
「武器、売春、麻薬。これらは私達の収入の…жинь…」
「たつき、生計」
 詰まった言葉をセオが後ろから最適な言葉を探って与える。そう、とウラディスラフは手を打った。
「生活のたつき、です。それを奪うことは、私達に滅亡しろと言うのと一緒です」
「そうであれば、いっそ俺達とは手を組まない方が賢明なように思います。何も、同盟を組んでいないファミリーの方針をとやかく言うつもりはありません」
「エストラーネオは別だと」
「目に余れば、それなりの行動はとります」
 数段低い声で牽制した綱吉にウラディスラフは笑顔で答える。成程。
「それはそれで。しかし、貴方方も私達の方面に手は欲しいのではないですか?」
「ロシアにはギーグファミリーがいます」
 その名前を耳にした男は膝を打って笑った。ギーグ、と肩を揺らし、その名を嘲笑う。綱吉は微動だにせず、確かめるかのようにウラディスラフの仕草一挙一動を逃さずに見ていた。
 ひとしきり笑うと、ああ失礼と非礼を侘びる。その言葉に謝罪の意図は一切込められていない。
「伝説の殺人ファミリーですか」
「巷では、そう呼ばれていますね」
「殺人如きで伝手を手に入れたつもりでおられたとは。いいですか、沢田氏。殺人で名を馳せたところで、所詮それは殺人集団。我々は今でこそ小規模に収まっていますが、少々窮屈に感じられまして」
「つまり」
 続きを求めた声に呼応するように、ウラディスラフは不敵な笑みをさらに深めた。
「はっきり申し上げましょう。麻薬取引をしたい」
「お断りします。先程も言いましたが、俺達は麻薬と売春は絶対にしない。我々の誇りにかけて」
「誇り、尊厳。これだから頭でっかちのコーザ・ノストラは」
 白けたように瞼を半分落とした男の後ろでセオは侮辱したことに対して拳銃に手を掛けようと僅かに腕を動かした。しかし、綱吉はそれを片手を上げて制する。XANXUSであれば、最後まで言わせずに頭を吹き飛ばしていたことは間違いなく、この場の通訳をセオにしてよかったと綱吉は心底そう安堵した。尤も、XANXUSに通訳を願い出たところで、死ねとの暴言の一つでも吐かれるのが関の山ではある。
 セオの動きを青い瞳を後ろに少しばかり動かして視野を広げて確認したウラディスラフは、肩を震わせて喉で笑った。
「我々は貴方を高く評価しています」
「有難う御座います」
「権力、武力、地域住民との関係。どれをとっても非の打ちどころがない」
「それは、どうも」
 打って変った男の褒め言葉を綱吉は表情を崩さず、その裏を読み取ろうとウラディスラフの青い瞳を覗き込むように真っ直ぐに見つめる。超直感があれど、やはりそれを裏付けるだけの根拠は少なからず必要だからである。
 長く組んだ足をウラディスラフは組み替えた。葉巻を?と綱吉に許可を求め、どうぞと許可が得られると礼を一つ述べて内ポケットから葉巻を取出し、火をつけ深く口に含み、煙を細く吐出した。煙は出口を探し、天井へと上がる。
「故に貴方方を我々が喰い潰すのは惜しいと思います。思っています」
「…失礼ですが、あなた方がボンゴレファミリーを潰す、とそう聞こえますがそう取っていいですか」
「どうぞ。我々も肥沃な大地…大地、マーケット、は欲しいです。それにはこの地はうってつけです。どいつもこいつも暑さと陽気で頭が腐りきっている。ただ一つ、疑問があります。ボンゴレファミリーは巨大です。私は考えました。どこから、その資金がでているのか、と。最も効率的な麻薬はやらない。地場代だけではとうてい成り立たないような生活を、している」
 反対に探り返すようにウラディスラフは綱吉の引き絞られた口元へと視線を注ぐ。それから、その大きな瞳へと。
「答えは政治にも影響を及ぼしているから。沢田氏、売春と麻薬は駄目ですか」
「そうです。俺達は、やりません」
「ならば、政治なら動かしてもいいですか?箱庭をつくるのがとても上手です。それは、麻薬や売春とどう違いますか。人の心を荒ませますか?人の体を駄目にしますか?箱の中で人間を飼うのは、楽しいですか?」
「楽しくはありません。それでも、まだ今は、俺達が手を引く時期じゃないと思っています。今、俺達が居なくなれば、人を人とも思わない連中が俺の知る人たちを苦しめることになる。俺の全ての血をもって、俺達が幕を引く時がいつかは来ます。それでも、今ではない」
 相手の視線を絡め取りつつ、はっきりと言い切った綱吉にウラディスラフは目を細めて笑みを浮かべた。それが合格か、あるいは満足であるかのような表情であった。
 高い手を打つ音が響く。
 ウラディスラフは、咥えていた葉巻を机の上の灰皿に乗せる。
「では、ギーグファミリーを潰しましょう」
 あっさりと、いとも簡単に言ってのけた男に綱吉は目を大きく見開き、言葉を失う。そんな綱吉の驚愕を意にも介さず、ウラディスラフは言葉を繋げていく。白い手袋に収まっている指先で寝かせた葉巻を口に咥え直した。
 歯を見せるように三日月に避けた唇の隙間から覗く舌は蛇のように赤い。
「小規模だからと侮っていらっしゃる。しかし、私達は仲良こよしで共喰いの方法も忘れた貴方方とは違います。我々は容赦なく牙を立て、食べることを躊躇いません」
「…歯を立てた同時に、君達は俺達の敵になる。仲間を殺したファミリーを俺達は許さない」
「それでも、貴方は殺さない。沢田氏。九代目の頃には残存していた残忍さが、貴方が就任して以降は鳴りを潜めたと聞きます。話合の場を必ず設け、相手を諭し宥める。必要とあれば力で押さえつける。我々も、そうなりますか。仮に、ギーグファミリーを食い潰したら」
 我々を殺しませんか。
 暗に、その質問はそう言っていた。
 綱吉は眼光をきつくし、悠然と対面に座る巨大な男の顔に薄く刷かれる笑みに吐き気を覚えた。じりじりと、脳の底を頭蓋骨から焼くような音が耳に奥でこだまする。
 一寸、時間を置き綱吉はウラディスラフの問いかけに答えた。全ての緊迫を取り去るかのように、優しい笑みをその顔に浮かべる。
「我々は正義の味方ではありません。コーザ・ノストラです。味方には慈愛を敵には制裁を。ダニロヴィチさん、貴方の意思にはどうやら我々は期待に応えるような返答はできそうにもない。お引き取り願えますか。それとも、他に何か仰りたいことでも」
 一層気迫を増した綱吉の表情にウラディスラフは目を糸のように細め、その空色を瞼の隙間、長めの睫の合間に押し込んだ。
「同盟を組みましょう」
 綱吉の笑顔をはぎ取って取り付けたかのような笑みがそこに並ぶ。薄気味悪い。セオはそう本能的に感じた。
 二の句を継がない綱吉の心に分け入り踏み入るかのように、ウラディスラフは組んでいた両手を離し、片方ずつ嵌めていた手袋をゆっくり取り払っていく。
「では、こう言い直しましょう。イタリアに麻薬を流すのを止める代わりに同盟を組みませんか」
「流して、いたんですか」
「ボンゴレのような巨大組織と麻薬売買が行えるのがベストだったのですが、まあいいでしょう。我々には隠れ蓑が必要だ。そう、沢田氏。貴方の言葉を借りるのであれば、時期ではない。まだ、その時ではない」
「質問に答えて下さい」
 眉間に深い皺を寄せ、答えを求めた男の顔を見て軽く鼻を鳴らし、そして吸い込んだ葉巻の煙を気持ちよさそうに吐き出した。
「答えは、はい、です。貴方方が麻薬をやらずとも、喉から手が出るほどに麻薬を求める馬鹿はごまんといいます。我々の商売相手はそういった連中です。言いました。売春も麻薬も、我々の生活のたつき、だと。貴方方のようにそれらに手を染めずに外形を維持できているファミリーはほんの一握りでしかありません」
「では、貴方のファミリーを牽制すればイタリアへと流れる麻薬の量は減りますね」
「まさか。増えます。貴方の言った通りです、ドンボンゴレ。力は時に抑止力となる。我々が掌握するイタリアでの麻薬密売ルートは五割。我々が貴方に首根っこを押さえられることで、それらは統率を失いあらゆる方向へと走り出します。どうでしょうか。貴方方にとっても悪い話ではありません。我々と手を組むことで、イタリアに流通している麻薬の半分がコントロール可能になる」
 不敵に笑んだ男は筋張った手を綱吉へと差し出した。
「共食よりも共存を。貴方の最も望む形でしょう。不利益は、もたらしません」
 綱吉は差し出された手を凝視する。視線を一度床へと落とし、そして相手よりも一回りは小さい手でその手を握り返した。ぐ、と強めに相手からの力がこもる。爪が食い込むような、そんな握手であった。
 ウラディスラフは固く握っていた手を放し、満足げに笑みを浮かべる。それと同時に、男の懐から小さな電子音が連続して鳴った。
「Хорошо!(有難う)とても賢明です。そして時間です。失礼します、沢田氏。貴重な時間を有難う御座いました」
「…こちらこそ。また、お会いできる日を楽しみにしています。セオ、見送りを」
「Si, Don Vongola. 来い」
 頭を下げ、セオはウラディスラフへと軽蔑を込めた視線を送ると先導して戸を入ってきたときと同じように開けてウラディスラフが出るのを待つ。男は扉を越えると、思い出したように振り返り、ああと綱吉に微笑みかけた。
「案内は必要ありません。お気遣い、なく」
「そうですか」
「はい。Всего хорощего, господин Савада(それでは、沢田氏)」
 コートの裾がはためき、そして閉ざされた扉の向こうへと消える。
 音を立てて扉が完全に重たく閉まると、綱吉は全身の力をどっと抜いてソファに体を預けた。溜息にも似た安堵の息が一気に吐き出される。
「デーチモ」
「暴言に対して暴力で答えるのは、あまり賢明とは言えない。セオ」
「あれはもはや侮辱です」
 それもそうかもね、と綱吉は上体を上げて、肘をついて大きな青年を見上げた。納得がいかないとばかりに眉間に皺が寄っている様子は、彼の父親とそっくりであった。それでもXANXUSの方がずっと迫力がある。それは、自分に対して殺意があるかないか、それだけの違いであることを綱吉は知っていた。
 しかし。
 綱吉は唇を人差し指でなぞる。瞼を軽く落として思案する。
「上手くやられたような気がする。彼の目的は本当は麻薬販売ルートの確保なんかじゃなく、ボンゴレとの同盟だったのかな」
「おそらくは」
「なんだか詐欺染みたセールスに引っかかった気分だなあ…その前に、セオ」
「はい」
「ロシアからの麻薬ルート、あったっけ。俺の記憶じゃ…そんなに多くもなかったはずなんだけど。どっちにしろ、麻薬ってのはロクでもない。身も心も、金も生活も何もかも滅ぼしてくる」
「五割、間違いありません」
 即答したセオに綱吉は目を瞬く。本当にそんなにあった、と聞かんばかりの視線にセオは間違いありませんともう一度頷いた。
「ここ数か月で広範囲に手を伸ばしています。ボンゴレと同盟を組んでいるあるいは傘下のファミリーには一切関与していないため、実害は一切出ていません」
「セオ、違う。そうじゃない」
「はい」
 機械の如くYESを答えた青年に、綱吉は困ったように眉尻を下げた。
「俺達の関係ないところでも、そうやって泣いている人がいる。それに人生を狂わされる人がいる。それは知ってしまえば、もう、関係ないことなんかじゃない。強者の食い物に誰かがなるべきじゃないんだ。だから、俺はここにいる。取り敢えず、彼の思惑がどこにあるかはまだ分からないけれど、いざとなったらすぐに動ける準備はしておいてくれ」
「Si」
「ありがとう」
 セオ。
 そう穏やかに笑った頂点に君臨する男の感情が、セオには一切理解できなかった。