25:新しい命 - 1/6

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 ずくん、と弱い痛みが体を貫いた。
 しかし予定日よりも二ヶ月ほど早く、おしるしもないので、東眞はその痛みに軽く首をかしげた。その動作にXANXUSのペンを握っていた手が止まる。
「どうした」
「あ…いえ」
 なんでもありません、と東眞は笑って首を横に振った。それに報告書を出しに来ていたスクアーロは軽く眉間に皺を寄せて、無理はするんじゃねぇぞぉときちんと忠告をする。
「近場とはいえ、今、シャルカーンの野郎は任務だからなぁ」
 すぐには来れない、ということでスクアーロは僅かならがの心配をしている。とはいえども、予定日まではまだ二ヶ月程ある。しかしながらシャルカーンが先週帰ってきて、それ以降は遠出の任務を任されていない点からみると、早産の危険性を考慮しているらしい。
「でもおしるしもないですから」
「…ああ、そうだったかぁ」
 なら平気か、とスクアーロは頷いた。XANXUSはふと時計を見て椅子から立ち上がると、かけていたコートを取った。コートを纏った後、赤い瞳がゆるりと動いて東眞の方に向けられる。
「…出かける」
「はい、行ってらっしゃい」
 東眞の言葉を聞いてから、XANXUSは一瞬だけ扉を開けるのを躊躇ったようだが、それを引いて廊下に姿を消す。廊下にはすでに付きの者が待機していて、こちらですとXANXUSを案内していた。そして扉が動きの反動で元の位置に戻ってくる。
 しかし、とスクアーロは軽く溜息をついた。
「この時期に同盟ファミリーとの会食とはボスも大変だぜぇ」
 本当は側にいてやりたいだろうに、とスクアーロはそう思ったが、そうもいかない。
 コーザ・ノストラに、マフィアの人間にとって、最優先されるべきものは家族ではなくファミリーであるからだ。それが出産でも例外ではない。
 随分と過保護な男ではあるが、そのようなことだけは忘れていない。尤も忘れるような男であれば付いてくるなどと思わないが。数ヶ月前はあの男の誕生日パーティーで、勿論これは毎年自分たちが自主的に開いているものではあるが、東眞も同席していた。その際、別に異変なども見られなかったし、まず心配いらないだろうとスクアーロは頷く。
「構わないんですよ」
「…そうかぁ?」
 苦笑をこぼした東眞にスクアーロは口をへの字に曲げる。やはり心もとないものではないだろうかと。だが考えてみれば、今までの行動からしてXAXNUSが役に立つとは到底思えない(こんなことを考えると知れたら消炭である)
「はい。それ…、」
 に、と言いかけた東眞の言葉が途切れる。その手に持っていたホットミルクが床に落ちた。ぎょとしてスクアーロは東眞に駆け寄る。
「う゛お゛お゛ぉ゛ぉい!大丈夫かぁ!」
「――――――――…は、い」
 は、と息を切らした東眞にスクアーロは慌てつつも何かあったらことなので、ポケットに入れていた出産に関しての本、陣痛の欄にざっと目を通す。ボスがいてくれりゃぁ、と咄嗟にXANXUSの顔が思い浮かんだが、あの男がいたところでどうにかなるものではない。
 スクアーロはページを開きながら、しかし文字と目の前の現実を一致させることができるほどスクアーロはそれに関しての知識があるわけではない。役に立たないとばかり、スクアーロはその冊子を投げ捨て、携帯電話を手に取る。コール音が耳に響く中、まだか、とスクアーロは相手が出るのを苛々としながら待つ。そのコール音が切れた。
「う゛お゛ぉ゛お゛おい!!」
 痛みのためか体を前に倒している東眞の肩に手を添えながら、スクアーロは電話に向かって怒鳴る。すると、電話の向こうから数秒して、返事が返ってきた。
『…チョット、スクアーロ…アナタの声大きいんデスカラ、電話越しでも怒鳴らないで下サイ』
 鼓膜破れちゃいマス、とシャルカーンの声が溜息交じりに聞こえてきた。スクアーロはそんな場合じゃねぇ、と再度怒鳴りつける。
「こっちは大変なんだぞぉ!」
『大変大変ッテ、何が大変なのかワタシには分かりまセン。トモカク、状況を説明して下サイ』
「お、ぉお」
 妙に冷静にシャルカーンにスクアーロは動揺しつつ、東眞が腹を押さえて痛がっている様子を告げた。
「だが、予定日まではまだ二ヶ月近くあるぞぉ…」
『早産デスネ。東眞サンが歩けるようデシタラ、医療室に運んで下サイ。動けないようデシタラ、絶対に動かさないヨウニ。それから、』
 シャルカーンの適切な指示を聞きながらスクアーロは分かったぁ、と電話は切らないままに東眞に問いかける。
「動けるかぁ」
「…っは、ぃ、動けます」
 息を一つ長くはいて、東眞は足に力を込めた。一瞬倒れかけたが、それはスクアーロが片手で支えて、それを助ける。ぐ、と東眞は半身に力を込めて、しっかりと立ち直した。スクアーロは東眞が歩くのを手伝いながら、ゆっくりと歩く。耳と肩に挟んでいる携帯電話からシャルカーンの声が届く。
『いいデスカ、ゆっくり動いてくだサイ。痛がってるカラッテ、急がせたら危ないデスヨ。ルッスーリアはいマスカ?』
「…俺以外は全員出払ってるぜぇ…昨日休んでたからなぁ…」
『…アア、ソウでシタネ。スクアーロがさつデスカラ…ルッスーリアがいてくれた方が有り難かったんデスケド』
「誰ががさつだぁ!!テメェ帰ったら覚えとけよぉ!!」
「…っ!」
「悪ぃ!」
 怒鳴ったことで一瞬なくなった支えにスクアーロは慌てて謝る。東眞は青白い顔で首を横に振った。後十数歩歩けば医務室である。頑張れぇ、とスクアーロは頼むから誰か来てくれ、と切実に願った。心もとないのは東眞ではなくて自分である。不安を覚えながら、スクアーロは電話越しのシャルカーンに尋ねる。
「テメェはいつ戻るんだぁ」
『電話受けマシタカラ、急いで戻ってるトコデスヨ。医療班は呼びマシタカ?』
「よ、―――――――、」
 んでねぇ、とスクアーロはがっくりとした。呼んでクダサイって先週言ったじゃないデスカとシャルカーンは溜息をつく。そんな言葉なぞ見事に頭から吹っ飛んでいた。血や怪我など死ぬほど見てきたというのに、少々情けない。
『デハ、医療班にはワタシから連絡を入れマス。医務室着きマシタ?』
 スクアーロは医務室の扉を蹴り開けて東眞を中に通す。そしてシャルカーンに着いたぞぉ、と報告する。東眞はほぼ本能的にベッドに腰をおろして横になる。
「今、ベッドに寝かせたとこだぁ」
『ベッドに寝かせただナンテ、ボスに聞かせたらコトデスネ』
「冗談言ってる場合じゃねぇだろおぉ!!」
 確かに殺されるが。
 スクアーロは半狂乱になりかけた頭を押さえて、冷静さを取り戻す。
『それくらいの冗談言える余裕がないと辛いデスヨ。サッキ医療班に連絡取りましたカラ、暫くシタラ、そっちに着くと思いマス。それで、今更デスケド、東眞さん、規則的に痛みを訴えてマス?』
「?い、痛み…?お゛、お゛ぉ゛…」
 スクアーロは廊下でのことと、執務室のことを振り返りながら頷く。思うに大体十分毎に酷い痛みが襲ってきている様子である。
「十分くらいおきだぁ」
『完全に早産デスネェ…。マ、もうこの時期だと問題ナイデショ』
 フム、と小さな言葉の後、部屋の扉がノックされる。スクアーロは一瞬殺気だったが、入室を許可する。失礼いたしますとの断りの後、医療班が姿を現して、その姿にスクアーロはほっと胸をなでおろす。
『到着したみたいデスネ。スクアーロは外に出て下サイ。いると邪魔デス。役立たずですカラ』
「……う゛お゛ぉ゛おい…テメェ…事が済んだら三枚に下ろされる覚悟はできてんだろうなぁ…っ!」
 しかし返事はない。なんだ、と思って携帯の画面を見れば、それはすでに切られていた。それを床に投げつけようとしたが、壊れては連絡が取れなくなるので、スクアーロはぐっと我慢した。
 部屋の外に出て、ほっと胸をなでおろしておかれている椅子に腰かける。
「ボスと――――――…それからあの餓鬼に連絡しとくかぁ」
 とはいえ、会食が終わるまではあの男の身が自由になることもないのだが。連絡は入れておこう、とスクアーロは携帯番号を押して、耳に押し当てた。

 

「て、ててててて、哲!!!」
「どうされましたか、坊ちゃん」
 すぱん!とすさまじい勢いで襖を開いた修矢に哲は冷静に切り返す。携帯を片手に慌てふためいている姿は、何かあったのだろうが、何があったのかは分からない。落ち着いて説明されてください、と哲は言ったが、次の瞬間携帯電話が飛んできて額に直撃する。
「お、落ち着いていられるかぁあああ!!!あ、姉貴が産気づいた!」
「お、お、おおお嬢様が!?」
 どうしましょう!とその場に本人もいないのに男二人は揃って慌てる。そこに何してんだ、と一人冷静な声が襖を開けて入る。
「た、田辺さん!あね、あ、あああ、姉貴が!」
「おじょ、おおおお、おじょ、お嬢様が!」
「……何が言いたいのかはよく分かったから、お前ら少し落ち着いたらどうだ?」
 完全に呆れた調子でシルヴィオは溜息と共に壁にもたれかかる。そこでお前が慌ててどうすんだ、とがっくりと肩を落として、シルヴィオは電話を取って数回のコール音の後、ノーノ、と言う。
「嫁さんが産気づいたみたいだぜ。そうそう、それで…ああ、了解」
 短いやりとりの後、シルヴィオは電話を切って、少し落ち着きを見せたように見えているだけの二人に声をかける。
「坊主、哲坊。ノーノがチャーター用意してくれてるから、それに乗ってけ」
「チャ、チャーター?」
「ああ。大地の爺さんにゃ俺が連絡付けといてやるから、安心して行って来いよ」
 とっとといけ、とばかりに玄関を指差したシルヴィオに哲と修矢は貴重品だけ引っ掛けて立ち上がり、出ていこうとした。が、空港の場所が分からないのを思い出して、哲が振り返るがシルヴィオは心配いらねーよ、と笑う。
 何が大丈夫なのかさっぱりわからないまま、哲は修矢の後を追いかけて玄関を開ける。そしてそこで、そのシルヴィオの言葉の意味を知った。玄関前に置かれている黒塗りの高級車。
「哲!急げ!」
「…ええ、急ぎましょう」
 しかしノーノとは誰だろうか、と哲も急ぎ乗りこみ、発進した車の中で冷静になりつつそう思った。尤もそれが誰であっても、あのシルヴィオが大丈夫というのであれば心配はいらないのだろうが。