君に遺す - 1/2

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 空に浮かぶ白い雲の保護色で一羽の猛禽類は広すぎる程に広すぎる空で風を拾いながら、なめらかなラインで翼で一度空気を押し出し前進する。空における捕食者は存在しないため、何ものにも怯えることなく空を飛ぶ姿は一つだけ足の速い雲に見える。
 ヤッカは海を下に眺めながら、一つの海賊船を目にした。目にしたことの無い海賊船だったが、ヤッカはその甲板に立つ男を覚えていた。淡い金色の頭頂部に生えている、思わず食べたくなるような髪。よくよく突いて怒られた事をヤッカはしっかりとその頭で記憶していた。
 下から見れば、こちらは雲のようにしか見えない高さに在る。ヤッカは一声鳴いて、背中の主に呼びかけた。だが反応は無い。全く、全くない反応にヤッカはもう一声鳴く。同じく反応は無い。眠っていたとしても、大抵は二声鳴けば反応のある主に一切の反応が無いことにヤッカはどうしようもない不安を覚えた。一度空中で飛行を止め、翼で羽ばたきながら背中を覗き見ようとしたが、うっかり落としそうになってそれを止める。ただ、両耳にようやく届いた、浅くしんどそうな異常な呼吸音をヤッカは拾った。おろおろと狼狽し、もう一声二声鳴いたが声は返されない。
 クロコダイルの船へと飛んだ方がいいか、それとも今目下に在る男の船に降りたほうが良いのか。ヤッカは悩み、そして、後者を選択した。背中をゆすり、一度背に乗せている女を宙空に放り投げ、落ちてきた体を大きな足で爪を立てぬように鷲掴む。足を折り畳み、腹の羽毛の中に納めた。そして、そのまま遠慮なく急降下する。
 甲板に居た男は空から一つ急降下してくる白い雲に目を見張った。そして、その姿を認め、名を呼ぶ。衝撃波にも近い風圧が甲板へと叩きつけられ、両足に凄まじい重さが加わる。呼んだ名前は空気の厚みで吹き飛ばされた。大きく揺れた船に、乗っていた船員たちが何事だと甲板に上がってくる。そして、その巨大な猛禽類の姿を知る者は、甲板の上で大きく羽ばたいている鳥に敵と間違えていた警戒心を解いた。
 マルコは羽ばたき、甲板に降りようとしないヤッカに声を掛けた。既に風は穏やかに羽ばたくのみとなり、声が風で吹き飛ばされることはない。
「ヤッカ、どうしたよい。…ミトは、いねぇのかい」
 彼の主の名前をマルコは口にする。ひょっとすれば、頂上決戦におけるあの戦場を死に場と決めて、既にない命なのかもしれない。だが、マルコのその心配は払拭された。ただ、甲板に極力丁寧に、羽毛の中から伸びた足が置いた体にぎょっとした。
「ミト!」
 主の体を甲板に横たえ、ヤッカはようやく両足を板の上につける。
 マルコは転がされた体に触れ、その熱さにさっと手を引き、船医を呼ぶように怒鳴る。そして、その体をよく見て顔を顰める。足枷に、右足に巻きつけられた鎖。両腕は背中で拘束具が縛り付けている。鍵開けが得意な者を一人呼び、それに拘束具を外させた。ごとん、と甲板の上に落ちた音は酷く重たい。実際に手に取ってみれば、それはかなり重さを持っていた。恐らく人一人分はある。足枷が外され、巻きつけていた鎖の下にあったのは、青紫に変色し痛々しい程に腫れ上がった足首だった。折れている。幸い骨は皮膚を突き破ってはいなかった。
 ヴィグ、とマルコは半ば無意識でその名前を呼んで振り返った。だが、そこに居たのは他の船員であって、ヴィグではなかった。ヴィグ、と呼ばれた船員は少し辛そうな顔をして、気まずそうにマルコから視線をそらす。たった一人になってしまった女を腕に抱え、マルコは目線を何とも言えないままに落とした。
 その時、背後から髪の毛がぐいぐいと引っ張られる。引き抜かんとせんばかりの勢いに、マルコは思わず目尻に涙を浮かべる。凄まじく痛い。数本は確実に抜かれた。
「止めねェかよい!」
 怒鳴られたヤッカはぱっと嘴を放したが、マルコの腕に抱かれた意識の無いミトに嘴を寄せ、ようやく外された拘束具で垂れた腕をそこに乗せる。いつもであれば優しく撫でてくれた掌は、今はヤッカの嘴を撫でることはなく、ただ乗せられているだけであった。嘴の先でコツコツと傷つけないよう力加減をしつつ、ヤッカはミトの腹を叩く。浅い呼吸を繰り返し、意識が混濁している女からの反応は無い。
 弱弱しい鳴き声がマルコの耳に届く。酷く心配そうにしているのがよく分かった。マルコはミトを治療するため、船内の医務室に向かって歩くが、その後ろを大きな鳥が付いて来、その度にぐらりと船が大きく揺れる。無論、その程度の揺れでこけたりするマルコでもなかったが、扉をくぐった時にその大きな頭が突っ込まれたのには、とうとう溜息をついた。
 振り返り、諭すようにヤッカに話しかける。
「ヤッカよい。取敢えず、そこに居られると他の連中が出入りできねぇんだよい」
 人語を解するのかどうかは不明だが、ミトの呼び掛けには大人しく従っている辺りを見ると、単純な言葉は理解してると見て間違いはない。とはいえども、今の会話の何処にも単純な言葉は入っていない。伝わっただろうかと眉を寄せたマルコにヤッカは困ったように扉に首を突っこんだまま軽く傾げた。ただ、マルコが困っているのだけは表情や仕草、雰囲気から理解したらしく、そわそわと瞬きを繰り返す。言われたとおりに首を引っ込めるかどうか戸惑っていた。
 ヤッカ、とマルコは駄々っ子を叱るようにその名前を呼んだ。それにヤッカは嘴を開き、マルコに抱えられている女が来ている服の裾をかちんと咥えた。くいくいと名残惜しげに引っ張っている。もう一度名前を繰り返すが、放そうとしない。ぐいぐいと少し強めに引っ張り、離されるのを酷く嫌がった。海王類を主食とする生物の嘴の強さは凄まじく、がっちりと閉じられた嘴を開くことは難しい。着せられた服の端を切ってしまえばそれでいいだけの話でもあるが、それをしたらしたで他の所を咥えそうである。
 まるで母を奪い取られた子供のような目を向けられ、マルコは溜息をついた。分かったよい、とヤッカの嘴を軽く叩く。
「ほら、そっちの部屋に連れて行くから、おめぇは反対側から回れよい。窓は開けてやる」
 だから放せよい、とマルコはヤッカの嘴が咥えている服を軽く引っ張った。数秒待って、ヤッカはがっちりと閉じていた嘴を開いて、服を放した。入口に突っ込んでいた首を渋々といった様子で抜き、マルコが指差した部屋の窓へと向かうために、その翼を大きく広げて風を集める。ぐらりとまた船が傾いた。
 ヤッカが退いたことで、自由になった入口に一息つくと、マルコは未だに意識を取り戻さないミトを見下ろし、先程言った部屋へと足を向ける。
 軽い。
 マルコはそう思った。ミトは大きい。自分よりもある上背はその分だけ体重がある。以前、この船に足を運び、酔い潰れる程に飲んだ時にベッドに寝かせるために持ち上げたが、その時の重さよりも、ずっと軽い。服の下に在る体は以前よりも痩せている。あの戦争から、一体彼女に何があったのか、マルコには想像もつかなかった。様子から見て、監禁、もしくは軟禁されていて、そこから逃げ出してきたことは間違いない。
 まだこいつは死のうとしているのか。
 意識がない今では確認のしようがないが、マルコは眉間に皺を寄せた。それではヴィグが報われない。死んでしまった彼に顔向けができない。目覚めて、それでもなおあの死んだ顔をしているならば、その時は、その面を張ってでも目を覚まさせてやる必要がある。兎も角、まず第一は今の治療だが。
 大きな体を、以前よりも痩せてしまった体をベッドの上に横たわらせる。窓をごつんごつんと喧しく嘴でノックするヤッカにマルコは溜息を添えて窓を開けた。大きな首が窓を乗り越えて、主を不安げに見下ろす。力の入っていない頭に嘴をすり寄せるも、反応は相変わらずなく、浅い呼吸が繰り返されるのみである。船医が扉を開けて入ってくる。治療の邪魔になるかとマルコはヤッカを外に押し出そうと、出てろよいと指差したが、反対にその手を突かれた。とんでもない鳥である。食べている悪魔の実で怪我はしないが。
 船医は不死鳥と猛禽類のやりとりに苦笑を浮かべ、そのままでも構わないと告げ、ミトを診た。マルコは診察が終わるまで大人しくそれを隣で待つ。ヤッカは不穏なことをしようものならば、頭から食ってやるとばかりに船医をじぃとその両眼で見つめた。
 腫れ上がった足首に船医の手が触れ、押した。意識を落としているミトの体が一つ跳ねる。ヤッカは痛みを見せた主の姿に眦を吊り上げたが、マルコがそれを押し留める。最後にギプスを取りつけ、船医は治療を終えた。熱は、とマルコが尋ねると船医はこれは、と口を開く。
「精神的なもんだ、マルコ。骨折による発熱でもあるようだが…流石に少し高すぎるようだったから、解熱剤を飲ませておいた。張り詰めていた気が解けたんじゃないか?」
「…ああ、助かったよい」
「気にするな。そいつとはおれたちも色々接点もあるしな。お前やジョズ…オヤジも、ヴィグも…一等気に掛けてたから。ヴィグの事は知ってんのかね」
「…知らねェだろう」
「教えるのか」
 船医の言葉にマルコは横たわり頬を赤くして苦しげな呼吸を繰り返すミトへと視線をやった。目を細め、頷く。ああ、と零れた言葉にそうかと船医は頷いた。
「早けりゃ四週でギプスは取れる。意識が戻ったら栄養のある物を食べさせてやるといい」
「ああ」
 船医が出て行き、マルコは椅子を引いてミトの隣に座る。ヤッカは窓から首を出したまま、その熱がある頬に嘴をそっと寄せていた。本当によく懐いている。昔から、よく懐いていた。よく笑っていた子供を思い出し、マルコは小さく笑う。ヤッカに飛び方を教えて!とせがまれ追いかけまわされたのは、遥か昔のことだ。死人のような顔で再会したのですら、昔のことに思える。
 額を冷やす布を置き、マルコは眉根を寄せた。
「おめぇは…帰ってきたのかよい」
 この海に。
 マルコはそれを意識の無い女に問う。今問うても仕方の無いことだ、とマルコは自嘲じみた笑みをこぼし、立ち上がろうとした。しかし、その手首が掴まれる。もう意識が戻ったのか、と驚いて振り返れば、そこにはうっすらと開かれた瞳があった。口がぱくりと動き、名前を呼ぶ。口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「…ク、コダイ…ぇ、って…きた…ぞ」
 その名前にマルコは目を見開く。一端浮上した意識はどうやら夢現の物だったらしく、ずるりと腕はベッドに戻った。
 クロコダイル。ミトが一体誰のコトをその呼び名で呼ぶのかマルコは知っていた。クロコダイル。そう、あのクロコダイルだ。元王下七武海で、ミトの唯一人の友人であり、よすがであった男。お前が連れ戻したのか、とマルコは息を詰める。一番近くに在りながら、彼女を止めなかった男が。
「クロコダイルじゃなくて、悪かったない」
 それでも。
 マルコは小さく笑い、ミトの頬に触れる。そして安堵する。彼女がようやく、ようやく海に帰ってきたことに。ヴィグが生きていれば一体どれほど喜んだのか知れない。それは言ったところで詮無いところであるのをマルコは知っている。ヴィグはもう居ない。溜息をついた。吐いた溜息は床に落ち、広がり消える。
 ヤッカが乗った以上、おそらくはミトの目が覚めるまでは船から上がることはないだろうから、暫く船の速度が落ちるなとマルコは主に嘴を寄せる猛禽類を見て、そっと笑った。