生きたい - 1/2

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 エースが死んだ。
 ビブルカードが焼け落ちたのを、ミトは見た。エースが死んだと言うのに、戦場は未だに揺れ動いている。混戦の中で人々は殺し合う。止まらない世界の中で、ミトは呆然と佇んでいた。白ひげ海賊団が、ジンベエが、クロコダイルが、麦わらのルフィという男を助けようとしている。その途切れかけた命を繋ごうとしている。クロコダイルの怒声に近い声が響いたが、それはミトの耳を通り過ぎた。否、クロコダイルの言葉だけではなく、過ぎて行く戦場の中のどんなざわめきも、無音と同義であった。
 もう、おわった。
 何もかもが終わったのだ、とミトは立ち尽くす。背中から腹へと向かって、一つの刃が突き出した。こぷりと喉から鉄錆の味が溢れ、それは外へと吐き出される。背中を蹴りつけられ、よろめき、そして力を失った体はその場に倒れ伏した。頬が土を噛む。未だ戦う人間が、時折背中を踏んでいく。背骨が折れるようなことはなかったが、立ち上がる気力などもう残っていなかった。
 握りしめた刀の感触を指先にほんの少しだけ力を込めることで懐かしむ。黄猿に撃たれた腹から、先程刺された傷から溢れ出す血は止まらず地面をしとしとと濡らしていく。パシフィスタからの攻撃で痛めた体も今更になって体の自由を奪った。ぼやけて行く思考と視界。乱戦の雄叫びや悲鳴はどこか遠くの話だった。まるでフィルターを一枚二枚かけたかのような、テレビの向こうの世界に聞こえる。
 「死」がひたひたと足音を立てながら近づいて来る。段々と冷たくなる体と意識と、もう手放しても良いだろうと薄れゆく視界の中でミトは小さく笑った。疲労困憊した心はもう何も望んではない。このまま死ねるのであれば、それはどんなに幸せなことだろうと目を閉じて行く。げほと呼吸が苦しくなり、赤を吐き出す。
 今何が起こっているのか何がどうなっているのか、ミトには分からない。分かる必要もない。
 戦場で死ぬのだから。
 誰かが叫んだような気がした。誰かが訪れたような気がした。動きが止まったような気がした。だからそれがどうというのか。この戦がどのような結末を迎えようとも、ミトの中ではもうこの戦は終わっていた。エースの命が尽きた時点で、ここに来た意味がなくなったのだ。さすれば、この戦場はただの死に場所となる。疲れ果てた体と心を埋めるそれだけの場所となった。
 皆の所へ行ける、ミトはそう思った。思い出せなかった船長の顔が、仲間の顔が一人二人と頭に浮かんで来る。ミト、と自分の名前を呼んでくれている。そこに帰っていいのだと、ミトは笑う。しかし、ミトは閉じようとした瞼を押し上げた。
 ちがう。
 呼んでいる声は、かつての仲間の誰のものでもなかった。ミトは耳にはっきりと届く、まるで死にに行く自分を引き止めるかのような声に体を起こした。流した血で地面はじとりと濡れている。ミト、とまた呼ばれる。静かに死なせてくれればいいのに、とその声に思う。返事をしろと叫ばれる。ようやく、誰が叫んでいるのかをミトは見つけた。軍艦の上から、叫んでいた。
「くろ、こ、だいる」
 吐き出した声は弱弱しく、大きな声を出そうと腹筋に力を入れれば、穴の空いたそこから血が零れた。
 ミトがこちらを見たことをクロコダイルは理解する。思う。
 みっともない。情けない。何をこんなに必死になって叫んでいるのだ。良い年をした大人が。
 何故そのまま死なせてやらないんだと、倒れ伏し、死にかけている目をしている女を見ながら思う。叫びながら思う。そして同時にどうして叫んでいるのか、そう思う。再会したあの時から、今の今まで女を見てきた。復讐のためだけに生きて、疲れて壊れそうになって転びつつ、それだけのために、ただ、本当に、他に何も見ずに、それだけの目的のために生きてきた女なのだ。ああやって動いていることが苦しいのだと痛いのだと、本当はもう海の底に沈んで帰りたいのだと、そう叫んでいるように見えた。それが終わって、ようやく動かないで済むのだとようやく休めるのだと、そこに倒れている。女が最も望んだ形で死に逝ける。それを何故妨害しているのか。
 逃げ出す海賊捕まえようとする海軍。戦争は赤髪の一言で終結したが、彼らの本質とその職務に変わりはない。インペルダウンを抜け出した囚人と海の海賊を目の前にして捕まえるなと言う方が無理な話なのだ。傷の深い者、動かない者はぞくぞくと捕まえられている。自分も今逃げ出さなければ捕まえられるコトは目に見えていた。軍艦を一隻奪い、そこから女を見つけた。
 なぜ、よぶ。
 自分に問いかける。死なせてやれと、自分で何度も繰り返したはずだった。海底監獄インペルダウンで、この女をもう死なせてやろうと、誰か死なせてやってくれればよいのにと、死に場所を与えてやれと、思ったはずだった。なのに、何故、ここにきて女を呼んでいるのか、クロコダイルにはその理由が分からなかった。無様にみっともなく、女を呼びとめている自分が信じられなかった。
 守りてえもんはしっかり守りやがれ。
 そんな言葉を叫んだ自分が居た。どうして何故、そんな事を口にしたのか、あの麦わらを助ける手を貸したのか。何かが自分の中で変わったのか、白ひげという男の死を目にして、その結果なの、それとも若さに感化されたのか。以前の自分ならばそんな事を口にしたりはしなかった。死にかけている麦わらを見ても馬鹿な奴だと一笑に付しただけだろうし、倒れている女を見ても、放っておいてやったことだろう。そのまま死なせてやったに違いない。それが、一番、女のためになると知っているのであれば尚更。
 だが、今ここで自分は叫んでいる。名前を呼んでいる。
「おれと!」
 喉が痛い。こんなになって叫んでいる自分が信じられない。だがしかし。
「おれと来い!」
 悪い気はしない。
 叫んだ声が嗄らす喉も、声も。守りたいものは、守ればいい。それでいいのだ、とかつて諦めを覚えた自分を振り返る。この女の意思など知ったことではない。死なせたくないから、殺させないのだ。それでいいだろうと考える。手を伸ばす。血を吐いて、首をゆるく横に振った女に叫ぶ。情けなくとも、無様であろうとも、みっともなかろうが関係ない。
 分からないようならば、いくらでも叫ぶ。
「おれのために生きろ!」
 ふっと一瞬、女の目が動いた。はっきりと、視界にビデオ画像のように映し出すだけではなく、はっきりとこちらを見た。
「四の五の言わずに、ついて来い!」
 喉が痛い。こんなに叫んだのはいつぶりか。
「疲れたなら、てめぇ一人くらい背負ってやる!死なせてやらねぇぞ!『そっち』には、まだ行かせてやらねェ!!おれは」
 鍵の掛けられていない窓。いつの間にか誰も来なくなった窓。いつか、鍵を閉めるようになった窓。そしてまた、窓に鍵を掛けるのを止めた。玄関から入って来いとあれほど言ったのに、いつもヤッカに乗って窓をノックした。お前は泥棒か何かかと呆れれば、あの玄関は広すぎると笑った。
「おれには」
 お前が必要なのだ。
 いつの間にか、居て当然になっていた。訪れて当たり前になっていた。消えたことが当然になるまで少し時間がかかった。そしてまた、来るのが当然になった。気付けば、女は自分にとって、そこに居て当然の人間になっていた。泣く姿も落ち込む姿も、無理矢理に笑う姿も、見れば全く面白くなかった。海で会ったあの頃のような笑顔を浮かべれば良いのにと、そんな事を思うようになった。
 見ている。声を聞いている。まだ、生きている。女は、生きている。
 クロコダイルと呼ばれ、そこに女が居て、温もりを感じられる日々が心地良いと感じるようになった。何気ない日常が続けば良いと、気付けばそんな風に思うようになった。海が好きだと海賊が好きだと、自由を好む女を縛る一切の物を取り払って、この女が最も愛してやまない「海」を見せてやりたいと、そんな風に思った。そこに放り投げて全身で自由を感じろと、がんじがらめになっている女に言ってやりたかった。
 既にない左手がうずく。
「おれが、居るだろうが!!何も残ってねェとか馬鹿言うんじゃねェよ!誰も悲しまねェとか思うんじゃねェ!てめぇが居なくなって、クソッ!いいから来い!」
 はぁ、と一気に叫び終えた。赤面する程に恥ずかしいことを言ったような気がする。
 クロコダイルは呆然としている女を見た。伸ばした手に女の手はまだ届いていない。だが、ミトは口を動かした。ようやく、動かした。ふらりと痛む体を起して、刀を右に持ったままクロコダイルを見上げ、呟く。口を動かすだけでも痛みが体に走り抜けたが、空気を出す音と一緒に声を出した。
「おま、え、がい、る?」
 げほ、と血が口内から溢れて地面を濡らした。それを袖先で拭ってミトはクロコダイルを見上げる。
 何もないことはないと、言った。もう何も残ってないのだと思っていた。仇を討ち取り、そうしたら、何も残っていなかった。殺したところで何も帰ってくるはずもないことは分かっていたけれど、本当に、何も帰って来なかった。それで良いとも思っていた。本当に守りたかったものは、気も遠くなるほど昔に、全て海に沈んでいた。そう思えば、どっと疲れた。疲れ果てた。
 失っていた。色んな物を。
 泣いても足掻いても、それらは絶対に取り戻せないものだった。新しい人生を歩むつもりもなく、鎖に繋がれ、クロコダイルの心音を聞きながら、有難うと思いながら、死ねる日を待っていた。お前はどうしてこんなに優しいんだろうなと思いながら、この男に本当にいろんな場面で助けられてきたのだと振り返りながら、沢山の有難うを胸中で繰り返す。この男と居る時は、ほんの少し体と疲弊した心を休めることができて、ほんの少し昔のように笑えた。その一瞬だけ、昔のように生きられた。
 大切な、友人。でも家族ではない。
 彼が家族ではなく友人であったからこそ、自分は笑い方を思い出せたのだとミトは思う。有難うと言う言葉は、いくら言っても言い足りない。
 触れ合った指先と、借りた背中と、殴りあった思い出と、葉巻を奪って怒られたことと、些細なことで喧嘩をしたことと、朝食のコーヒーに砂糖とミルクをぶちまけたことと、風邪をひいた時看病してもらったことと、水が嫌いなあいつにバケツを思いっきり引っ掛けたことと、バナナワニに餌をやったことと、一緒に買い物に行ったことと、夕食を一緒にしたことと、思い出せばきりがない。その時その時、ほんのその一瞬だけ、自分は生きていた。復讐に心身を費やし、凝って凍った瞳をしている時の合間のそのつかの間。
 彼は生きている人間で、自分は死んでいる人間だとそう思っていた。否、自分以外の人間は全て生きている人間なのだと思っていた。自分はもう止まってしまっている。心と記憶が、全てあの過去の瞬間で止まってしまっている。だから、もう、何も残っていない。二人を殺して、動き出した時間に住んでいる人間はもう自分しかいなかった。
 ひとりだ。
 一人ではなく、独りだった。
 だからもう、死んでいい。
 そう、思った。そう、思って、いた。
「くろこだいる」
 ミトはゆっくりと手を伸ばした。
 ほんの少し生き方を思い出させてくれたお前が、そこに居る。来いと、海に沈むのではなく、海に帰って来いと手を伸ばしてくれるお前が居る。目の奥が熱い。誰も居ない時間の中の自分へと手を伸ばしてくれるお前が居る。お前がいる時間に自分が辿りつくまでは、きっと一生懸命走らなければ追いつけないのだろう。
 手を引っ張ってくれるのか。背中を押してくれるのは、きっと自分の家族だ。死んでしまった、海に沈んだ。足を踏み出せ。前に出ろ、諦めるな。
『海賊はな、ミト。自由な生き物だ』
『船長も?』
『この船に居る連中はみんな海賊さ。時に、何故お前を拾ったかって?』
『うん』
『海賊だからさ』
『海賊だから?』
『拾いたいから拾ったんだよ、ミト。おれたちは、海賊だから』
『もし、もし私が拾ってほしくないって言ったら?』
『関係ないな。そしたらいつかこう言わせるとも』
 拾ってもらって良かった。
 そう、言わせてみせる。
 おれたちは、
 海賊だから。
『お前のそんな悲しい気持ちなんて、おれたちがあっという間に奪っていくぞ』
『なんだ?ミト、お前そんなこと考えてのか』
『副船長』
『考えたって無駄無駄』
『そうそう、むだむだ!あっはっは!海賊は、やりたいことを、やるだけさ。おれたちは、お前に生きて欲しい。笑ってほしい。楽しんでほしい。おれたちが拾った事を、お前と言う人間を生かしたことを、いつかきっと良かったと、生きていて良かったとお前に言ってほしいから。あ、そうそう、それでな。もしミト、お前が一緒に生きたいって言う野郎ができたら、きちんと報告するんだぞ』
『馬鹿か。おいミト、放っておいていいぞ。そんな事言ってたら、お前に男は一生できないからな』
『何!お前だって困るだろう!このおれが認めた男でないとミトはやらん!』
『誰が困るか。お前は可愛い娘の背中を押してやろうって気にはならんのか』
 笑っていた。
 いきたい。
 誰と。
 お前と。
 クロコダイル、お前と。
「いきたい」
 ああ、とミトは手を前に伸ばす。そして、叫ぶ。
「いきたい、お前と、海に、行きたい!海で、生きたい!!!」
「来い!」
 ミトの返事にクロコダイルは口元を持ち上げた。ははと小さく笑う。馬鹿野郎と言ってやろう。頭を殴ってやろう。あの女に、自由と言う海を見せてやろう。
 足を踏み出す。後は軍艦に向かって走ればいい。体が痛いがそんなことは関係ない。死にたいという気持ちを、奪われてしまった。海賊に。お前のせいだと笑ってやろう。この海賊めと頬をつねってやろう。そして、海水を頭から思いっきりかけてやろう。
 ミトは足に力を込めた。だが、その動作を一瞬で止める。視界の端に映った、戦場には不似合いな色。毒々しい桃色が、視認できる範囲に映った。瞳を動かして、その桃色をはっきりと捉える。全身から汗が噴き出した。表情が凍りつく。今ここで、あの男がクロコダイルの邪魔をすれば、あの船は逃げる機会を失う。ともすれば、船を破壊される。新しい船に乗り移る時間などないだろう。あの男は、そんなに甘い男ではない。
 選んだ。ミトは、そこで選択をした。
 右腕にギリギリと力を込める。筋肉を引き絞り、やり投げの要領でミトはそれを放った。まっすぐに大気を斬り裂きながら、刀は鮮血を飛ばした。海楼石で作られている刀は自然系能力者であろうと関係を持たない。クロコダイルの肩に刀は突き立った。てめぇ、とクロコダイルは後方に一二歩下がりながら、ミトを睨みつける。下方に立つ女は振り切った腕を下に垂らし、ゆっくりと顔を上げる。そしてクロコダイルは同時に耳障りな笑い声を耳にする。フッフッフ、と楽しげな笑い声と共に、目に痛いピンク色が女に近づく。あの野郎、と腹の中で毒づく。
 選びやがった。
 怒りで目の前が真赤になる。怒鳴りつけてやりたい。そんな鳥類のなりそこないに負ける自分だと思ったかと、詰ってやりたいが、実際、今戦って船を奪われるのは問題だと女は判断したのだ。二つを天秤にかけ、自分が海に出るのか、それとも餌になるかを選んだ。馬鹿野郎、と小さく口の中で籠らせる。
 刀を抜こうと腕に力を込めたが、完全に突き立っている刀を抜くのには力がいる。それ以前に、海楼石で刺されたために上手く力が入らない。いきたいと叫んだ女をクロコダイルは見下ろし、舌打ちをする。諦めてたまるか、と体を乗り出す。今、といいかけた声は、行け、との叫び声に押し潰された。空気が一度動きを止める。
 ミトはクロコダイルを見上げた。思っていた以上に言葉はすんなりと出た。怒っているだろうな、と思う。
「行け。海で―――…会おう。待っててくれ。必ず、行くから」
 お前に会いに。
 ダズ・ボーネス!とミトは名前を叫び、その視線を絡め取った。
「行け!ここは、私が引き受ける!」
「ふざけるんじゃねェ!てめェ…!!Mr.1!船を戻せ!」
 クロコダイルの叫びをダズは首を横に振って船を岸からはがさせた。くそ、とクロコダイルは肩に刺さった刀を抜こうとするが、深く突き刺さってなかなか抜けない。誰かの力を借りなければ、抜けないぐらいに深い。きっちり貫通している辺り、抜け目のない女であるが、今は全く褒められたものではなかった。
 遠ざかっていく岸を睨みつける。血がじくりじくりと刀の刺口から服に広がっていく。
 完全に岸が見えなくなり、ダズはクロコダイルの側に膝を折って、一言断ってから刀を引きぬいた。側に置いておいた布で強く傷口を圧迫し、止血をする。
「すみません」
「…うるせェ。消え失せろ」
 畜生、と首を垂れた男にダズは掛ける言葉を見つけられなかった。