君を思う - 1/2

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 生きるために必要な悪事は一通りこなした。
 小さな汚泥に塗れた手に視線を落とし、幼い少女は考えた。窃盗恐喝強盗。凍えるほどに冷え込む夜は船長の形見である刀を抱き込んで眠った。幼く見かけは少年体は少女というこの体はよく売れることも覚えた。
 泣くことは止めた。あの日から、哀しいと思うことも辛いと思うことも、境遇を恨むこともない。ただ、心を一つ占めるのは殺してやると、ただそれだけである。
 己の家族を殺した人間を根絶やしにしてやると。
 あの日見た海賊旗とあの海兵の顔は瞼の裏に焼きついて忘れることはない。全てが終わるまで、忘れることなどあり得ない。忘れてなどやるものかと臓腑を焼くほどの苛烈さが身を焦がす。
 そのためには何をしてもこの命を絶やすわけにはいかなかった。
 心が死んでも体が死んでも構わない。心の臓さえ止まりさえしなければ構わない。脚が折れれば這えばいい腕が折れれば喰い殺せばいい。この復讐果たすまでは、動き続けるのだ。何があっても。
 人間として死にゆく感覚を足の先から覚えながら、日々を過ごすことに最早抵抗などなかった。

 

 海賊旗の名前と海兵の名前を知るのには酷く梃子摺った。
 細く頼りない体を太くごわついた腕が抱き、下半身が痛く鈍る。腰に回された肉厚の指が体を揺さぶりながら吐き出される言葉の中に、それは埋もれていた。その言葉を耳が拾った瞬間、顔に笑みが自然と浮かんだ。体を揺さぶる男がその笑みをどう取ったのかは知らないが、今日の羽振りは酷く良かった。
 溜まった金で肉を買い体を作る。
 海賊の名前は分かった。さて、と少女は思案する。
 どのようにすればあの海賊を壊滅させられるのか。海賊に一番詳しいのは海賊であるが、海賊を追うのに一番適した組織は海軍である。
 彼らは戦友であると船長は言った。ならば、と少女は固く誓う。その意志を貫こうと。この復讐は必ず果たすが、船長のその思いだけは貫こうと。死者に泥を塗る真似はできない。ただ、一つ例外を除いては。

 

 妙齢の女性海兵が目の前にいた。
 街で暴れている海賊を悪魔の実の能力でそこかしこに絞り倒していた。
 鞘から刃を抜き放ち、白刃を振るう。刃が捉える肉と腱の感触を捉える。
 海の広さは船長に教えてもらった。海の厳しさはレイヴンに教えてもらった。料理の仕方はアーマに教えてもらった。波の読み方はテツに教えてもらった。戦い方はワラバルに教えてもらった。
 覇気の使い方も刀の使い方も。少女のあらゆるものは全て家族が教え導いてくれたものだった。
 腱のみを薙ぎ払い、地面に付した海賊と海兵の間に少女はその身を置いた。動く者は海兵以外に誰もいない。
 美しい面立ちをした海兵は「つる」と呼ばれていた。少女は自身に視線を送るその海兵にしかと視線を合わせ、背筋を伸ばした。
「私を、海兵にしてくれ」
 海兵は目を大きく丸く広げていた。実力は眼前で披露した。不服など考えられることはない。
「この仕事は、子どもに勤まるようなものじゃない」
 海兵が羽織る海軍支給のコートが風にはためき、背の正義の二文字を大きく揺らす。ただそれだけで、女海兵の姿はいっそう大きく見えた。
 辛辣な言葉にも少女は引き下がることを選択せず、海兵の前で刀を鞘へと納める。戦い慣れた少女の所作は流れるような一連の動作だった。コートを羽織っていない一兵卒の海兵は地面に倒れ伏した海賊を捕縛していっている。その中で一際大きな体がのそりと動いた。その大きな体は黒いスーツを纏い、海軍のコートを羽織っている。女海兵の視線はそちらへと向けられた。
「ガープ」
「おうおつるちゃん」
 ガープと呼ばれた大柄の海兵はつるの陰に隠れていた少女を見つけ、首を傾げた。その片手には刀が持たれており、一般人と言うには一線を隔している。それ以上に少女が纏う雰囲気は一般人のものと言うには鋭すぎた。
 少女の目が再度つるへと向けられる。鋭すぎるその瞳から、つるは思わず視線を逸らしたい衝動に駆られた。
「どうした、おつるちゃん」
 この子はという意味なのだろうとつるは承知していた。だが、軽く手を振りなんでもないという風にあしらう。それを引きとめるかのように少女の口から再度同じ言葉が零れた。
「海兵にしてくれ」
「おつるちゃん、なんぞ言いよるぞ」
「…ほっときな。根性だけで食っていけるほどこの世界は優しくないんだよ」
「つる」
 名前をまだ幼さの残る声で呼ばれた女は振り返った。おつる、と多くの人にそう呼ばれているがつると呼ばれるのは久し振りだった。
 少女は海兵を見据えた。独特な両眼は零れ落ちそうなほどに大きく見開かれている。その双眼が一体何を見ているのか、つるはそれを知るのを少しばかり恐ろしく感じた。少なくとも、少女が纏う空気は年相応のものではなかったし、あまりにもとげとげしかった。
「私を、海兵に」
 なれば。
 少女は少女らしからぬ声音で告げる。
「海軍の正義を知らしめる」
 わたしのあいするひとたちが、ともとよんだそのせいぎを。
 そして、
 そして少女はつるの瞳を再度見据えた。瞳の奥から心の内まで暴かれそうな眼孔の強さにつるは一歩足を下げそうになった。ただそれは背後に立っていたガープの存在によって実行されることはなかった。
 息を一つ吸い込み、吐き出す。
 足元に暗い影が落ち、強い風が吹く。天候が変わったかとつるは上空へと視線を向け、空を覆うほどの大きな鳥に目を瞠った。白く大きな鳥。カヤアンバルである。この鳥は気性が非常に荒い。グランドラインに生息するこの鳥類は時に海王類さえも餌とする。稀に人を襲うこともある。
 幼い少女を庇うようにつるはその身を翻し、カヤアンバルと対峙した。しかし、それは背後から響いた名前に制止し、つるは後ろを弾かれたように振り返った。
「ヤッカ」
 白い大鳥は一声鳴くと少女を守るようにその両の翼を広げ、背後へと降り立った。敵意はなく、つるは兵士に向けさせた銃口を下へと戻させる。
「お前の鳥かい」
「そうだ。私の唯一の家族だ」
 孤児か、とつるは目を細める。
 哀れに思ったわけでもない。同情でもない。しかし、つるは次の言葉を発した。
「いいだろう。だが、弱音を一つでも吐けば、ただじゃ済まさないよ」
 それに少女は言葉を返した。

 

 お前らなぞ海の上から消えてなくなれ。
 振るった白刃の重さを青年は自覚していた。場所は海賊船。掲げる旗は記憶に生々しいあの旗。上空のカヤアンバルは甲板の敵をその嘴と爪で引き千切っている。目指すは船長室。
 青年は逸る心を必死に押さえつけつつ、道のりに現れる海賊を一切の躊躇なく薙ぎ払っていた。首を胴体を足を。死を与えていった。海兵としている間、今の今まで一度たりとも海賊に与えなかった命を奪うという行為を行っていた。
 ただ青年はそんなことはどうでもよかった。今は、今この一瞬、この海賊船にいるこの瞬間のみ海兵ではない。あの時、過ぎ去りし時に置いておかれた小さな少女へと立ち戻っていた。憎しみが指先から滲み出て心臓へと染みわたる。心地良ささえ覚えた。
 船長室の扉を蹴破る。その男は部屋の隅で震える腕で剣を自身を守るようにして座り込んでいた。全身血塗れで頭の天辺からどす黒い赤に染まっている青年はまるで怪物のように男の瞳には映っていた。
 べちゃり。
 質の悪い糊のように靴底に張りついた血液が床との接地面で音を立てる。
「待っていた」
 地獄があるなら、それはそこから響く声である。
「この時を、待っていたぞ」
 白い海楼石でできた刀の切っ先が床を擦り、耳障りな音を立てる。最早生存者はいないのか、悲鳴はとうに聞こえなくなっていた。
 肥え太った体が青年の眼前に晒される。その左目は、ない。誰がそれを刳り貫いたのかを青年はよく知っていた。知りすぎるほどに知っていた。真っ赤になりながら海中へと消えた家族の姿は鮮明に思い出せる。
 能力を使用される前にその体に刀を突き立てる。力の抜けた身体ではそれを引き抜くことは叶わない。
「無様だな」
 だが、どうせこいつらは私のことなど覚えていないに違いない。
 青年は豚のように私腹を肥やした海賊へと視線を落とし、穏やかに笑んだ。覚えている必要などどこにもない。覚えていてほしくなどない。ただ無様に、無感動に、絶望だけ覚えて死ねばいい。
 それこそが、あの時のあの瞬間の復讐となる。
「塵のように、死ね」
 突き立てた刀の刃を返し、そのまま首を薙ぎ払った。
 ごとん、と無機質な音を立てて首が床へと落ちる。血液が噴水のように切断面から溢れだし、海軍支給の真白な帽子をさらに深い赤色へと変える。海軍支給の物資は基本色が白である。しかし、青年が纏うその衣服にはすでに白い部分は残っていなかった。鉄錆の色が服に滲み、不気味な様相をかもし出している。
 青年は落ちた海賊の首を拾い上げ、怯えきったその表情を見て小さく笑うと袋に詰めた。