目にもの見せて

 面白くない。
 面白いはずもないのだ。
 ドンキホーテ・ドフラミンゴは、長く続く廻廊に等間隔に立つ柱を爪先の剃り上がった靴で蹴り付け、消化しようのない苛立ちを発散しようと試みた。強く蹴った柱は細かな振動と共に手の届かない場所の埃が揺らされ、ひよこのような金色の頭に落ちた。それがなお癪に障り、吐き捨てるように舌を打ち鳴らす。
 再度柱を蹴ると、男は鼻息荒く方向転換をして長く外に大きく曲がった足で一歩踏み出す。ひどい猫背で、顎は前に突き出しがちであったため、見る人が見れば、それは思わず背中に物差しを一本差し入れたくなるようなものである。目の横までをすっかり覆い、最も感情を語る瞳を人に見せず、しかしながらこの男の場合、それ以上に雄弁に語る口元は髪にも服にも隠されることはなく、これ以上ないほどに曝け出されており、そして今現在では彼の不機嫌さを隠すこともせずに広げていた。
 足を鳴らし歩けば、傍を通る海兵達は恐れ戦き体を固くする。それをサングラス越しに見れば、ドンキホーテ・ドフラミンゴの気分も多少は晴れたが、それと同時に腹の底に澱む不愉快さがふつりと泡立った。それを誤魔化すように、強張った海兵を一人二人玩具にして意のままに操る。マリオネットのように自分の意思に従順に動く様は面白いのだが、意外性がないあたりあまり面白くもない。瞬間的な満足感しか残らず、怯えきった表情も時間が経過すれば見飽きる類のものである。
 子犬を蹴り飛ばすように海兵を一人蹴り飛ばし、ドフラミンゴは前方へと進む。小さな体は視界の端に飛んで消えた。気分は一向に晴れない。四角く切り取られた窓から覗く空は憎たらしいほどに晴れているのが、さらにささくれ立った心を荒立てさせる。
「えらく不機嫌じゃネェか」
 フラミンゴ野郎、と続けられた珍しい声にドフラミンゴは視線を移す。ファッションセンスは良いものの、吹かす葉巻がどうにも煙たい男がそこにいた。折角整った顔立ちをしているというのに、切り裂くように入った一本の傷跡がそれを台無しにしている。ははぁ、ドフラミンゴは目新しい玩具を見つけ、口元をニヤつかせた。
「てめぇは随分と機嫌がよさそうじゃネェか。おれにてめぇから声をかけるなんざ、一体どういう風の吹き回しだ?」
「どうもこうも。海兵共がうろうろと目障りなんでな。ちったぁ大人しくするって言葉を学習しネェか、餓鬼が」
 そう変わらない年頃であろうに、完全に子供扱いをされたために、それがドフラミンゴの癪に障る。フフと噛み合わせた歯の間から零れた声を震わせながら、ドフラミンゴはついとクロコダイルへと顔を寄せた。鼻頭がぶつかりそうな距離まで詰める。そうして、てめぇこそと嘲笑うようにして、サングラスの奥でドフラミンゴは目を細めた。
「注意する相手とその機嫌を観察することを覚えたらどうだ?ジジイ。ビジネスマンにゃ必須だぜ」
「皮肉とそれの区別もつかねェ様じゃ、話にナンねぇな。ピヨピヨ喧しく餌強請る前に時と場所を考えろ。ひよっこ、が」
 こりゃうってつけだとクロコダイルは声を立てて笑う。ひよっこ、ひよこ、上手く言葉が合ったのがそんなにも面白いかと、ドフラミンゴは目元を軽く痙攣させる。目の前の男のこのスカした面をどうにかして歪ませてやりたいと、切実にそう思い願う。願う思うだけでは何事も変えられないことを、ドンキホーテ・ドフラミンゴという海賊はよくよく知っていたので、ははぁと吐息を吐き出すようにして笑んだ。この男の切り込み口が一体どこにすればいいのかなど、男にとっては容易に知れていることであった。
 ひらめいたように表情を綻ばせた男にクロコダイルは一寸、顔から笑みを取り払う。葉巻の煙を味わいながら、しかしその場を今すぐにでも離れなければならないと言う程せっぱつまっているわけでもなければ、苛立っているわけでもないので、クロコダイルはドフラミンゴの言葉を珍しくも第一声を聞いた。
「ワニ野郎。てめぇも、アイツに用事か?」
 わざわざ「も」を強調し、その対象者を浮き彫りにする。
 別段会いに行く予定などありはしなかったが、この男の忌々しい面が歪むのならば、会いに行くのもそれまた良しとドフラミンゴは腹の中で頷いた。尤も、本日のこの面白くないという不愉快な感情のもとは、会いに行ったというのに門前払いをその部下に食らったところから始まっている。その追い払い方がまた神経を逆なでするようなもので、そのまま縊り殺してやろうかとも思ったが、これまた口八丁で切り抜けられてしまった。面白いはずがない。あの減らず口ばかりを叩く舌を引き抜いてしまいたい衝動には、今でもなお駆られたままである。腹に渦巻く殺意だけを持て余す。いっそ持て余すのであれば、殺意などよりも性欲の方がましである。
 ドフラミンゴは、んんとクロコダイルの苛立ちを誘うように喉を鳴らしたが、しかし近づけた顔面に吹き付けられたのは、白煙ばかりで、表情が悔しさに歪むことはありはしなかった。優越に浸ったしたり顔がそこにあり、煙たさを手で払い退け、ドフラミンゴは忌々しげに舌打ちをした。クロコダイルはそんなドフラミンゴを、身長差故に下から見上げながら、見下し、嘲笑う。
「この、おれが。いちいちあの野郎の面なんざ確認しに来ているわけがネェだろうが。てめぇと違って、わざわざ出向く必要なんざどこにもねぇんだよ。邪険にされる理由もおれにゃぁ、ない。なぁ、おいお前。ドフラミンゴ。年長者からの忠告だ」
 クハ。人を小馬鹿にした笑みが空気を叩く。
「喧嘩を売るなら相手を見てすることだ」
 葉巻を人差し指と中指の間にはさみ、咥えていた唇からそっと外す。白く吐出された煙はドフラミンゴのサングラスに当たり、拡散した。
「てめぇの言葉なんざ、弱ェ犬ッコロがきゃんきゃん吠えてるようにしか聞こえネェよ」
 とどめを刺すように続けられ、そして最後には鮮やかな笑いを零す。残ったプライドを踏みつけられる。ドフラミンゴは、フフと額に青筋を立てながら、口元を引き攣らせた。
 腹立たしいことこの上ないのは、クロコダイルの言葉が少なからず、否、ほぼ全面的に肯定できるだけの事実だからである。悔し紛れの言葉なぞ、口にすればろくでもないことにしかならないのはよくよく知っているというのに、全く忌々しい限りであった。ドフラミンゴは下でしたり顔を浮かべている男の顔を潰したいと心底思ったが、潰したところで砂になるだけなのは目に見えている。
 ああ。クロコダイルは腹を立てているドフラミンゴに続けて加えた。まるでそれが大した事実ではないかのように、クロコダイルにとってはそれは真実であったが、ドフラミンゴにとっては多少その有用性は変化する。葉巻の煙がドフラミンゴの鼻先でくゆる。
「あいつなら、執務室にいたが?門前払いでも食らったか」
「あの野郎」
 やっぱり中にいるじゃネェかとドフラミンゴは生意気を通り越した海兵の顔を思い出して、強く歯噛みした。大層悔しげにしている男を横目で見ながら、しかしクロコダイルは付け加えた。
「丁度出たところだ。どうせ、今からてめぇが行ったところで海の上だ」
「海、ね」
「追いかけでもするつもりか?女の尻追って」
「…それも、面白れぇかもな」
「クハ」
 そんな無駄なことをドフラミンゴという男がしないことは、僅かな付き合いしかなくとも、クロコダイルも承知の上での言葉であった。
「楽園」
「新世界」
「ふ、ッハ!海兵で新世界に意気揚々と旗揚げすんのは、あいつくらいか?分からねぇ女だぜ」
 だがそこがいい、と続けようとしたところをクロコダイルの言葉で塗り替えられた。
「てめぇにゃ一生理解できネェよ」
 自分は理解しているのだと言わんばかりの態度にドフラミンゴは口元の笑みを一時は取り払ったが、直ぐに添え直して表情を取り繕う。彼女に関連する事柄をいくら並べたところで、腹立たしい思いをするのはこちらであると自覚しつつも、ドフラミンゴは被虐趣味でもあるかの如く、ならとどこ吹く風のクロコダイルに噛みついた。一矢位報いてやらねば、どうにもこの腹の虫がおさまりそうにない。
 ひどい猫背で、骨がその位置で固定してしまったかのような背骨を耳障りな音を立てながら直し、ドフラミンゴはクロコダイルを見下した。見下すことによって発生する優位性は大層一時的なものであるが、それでも多少気分はよくなる。まるで子供みたいな己に嘲笑を交えながら、ドフラミンゴは喉を鳴らした。
「あーそうかよ。なら、理解できるまでベッドの上で語り合うとするか」
「ハ、」
 愚かしいと暗黙の内に示しているクロコダイルの態度にドフラミンゴは牙を剥く。
「ベッドも何も。門前払い食らった野郎の言葉じゃネェな。てめぇの置かれている状況が、その軽い綿の詰まった頭じゃ理解できネェらしい」
「くだらねぇ!許可なんざ一体どこにいるってんだ。閉ざされた扉は壊しゃいい、拒まれれば犯せばいい、金と力で解決できネェことは、この世に一つもありゃしネェ。クロコダイル、てめぇもそういう男だろう?」
 おれと同類だ。てめぇも。同じ貉さ。釜の飯は違えど、本質は言葉にしようもないほどに似通っている。ドフラミンゴは、クロコダイルの顔を横断している溝を指先でなぞり上げた。掌の下で葉巻の先端がちりと熱を持ったが、大して熱くも感じられはしなかった。
 男の指先が右端から左端へと完全に移動し終えた後、クロコダイルは小さく吹き出し、そしてドフラミンゴの腕を肘から払った。葉巻を咥えたまま、歯と歯の隙間から煙が溢れる。
「餓鬼のくせに言うことだけは立派じゃネェか。だがああ、賛同してやる。そいつぁ、全く正しく道理だ。ここで生きていくにはままごと宜しくの綺麗ごとは反吐が出そうになる。欲しけりゃ力尽くで、勿論おれぁ、どこかの馬鹿みてぇに力だけで解決するような真似はしないがな、まあ奪っちまえばいいだけの話だ」
「…どうしたよ、ワニ野郎。急に大人しくなりやがって。薄気味悪ィ」
「そりゃ、ハハ、クッ、は、フラミンゴ野郎。その道理は、全く」
 だがな。そう笑うクロコダイルの瞳が嘲るようにひどく歪んだ。
「てめぇが奪おうとしてる女にも、同じことが言えるってこたぁ。理解してんだろうな?チンケな頭だが答えは出るか?」
 指輪を嵌めた指先が弧を描くように目の前で踊る。
「あの女から、奪えるモンなんざ何もネェよ。特にてめぇは、な。気を引き締めてかからねぇと、扉をぶち壊されてベッドに押し倒されてんのはてめぇの方かもしれねぇぞ」
「…そうなるなら、願ったり叶ったりだぜ。おれの上で悦がって踊るあいつを下から眺めるとするさ」
「女を悦がらせるモノも、奪われなきゃいいがな」
「…ごちゅーこく、ありがとよ。ワニ野郎」
「どういたしまして。ドフラミンゴ君」
 笑い声だけが脊髄にへばりつく。去っていく足音ばかりが、苛立ちを募らせた。面白くない。面白くない。面白いはずなどどこにもない。くそ、と忌々しさを覚えつつ、唾を床に吐き捨てた。それとほぼ同時に、不機嫌な、しかしドフラミンゴにとっては待ち望んだ声が響いた。
「拭け」
「…っと、フッフ!こりゃ奇遇だな。会えて嬉しいぜ」
「黙って拭け。それともお前を蹴り倒して、その顔面で拭かせた方がいいのか?」
 先程までの不愉快さなどとうに消え失せ、ドフラミンゴは目の前に現れた正義のコートを己の陰で覆い尽くすように立った。一度は伸ばした背をぐぐと曲げ、大人と子供程はある身長差を詰める。
「もう、出たんじゃねぇのか」
 一言も答えない女に、ドフラミンゴはああと気付いてしゃがむと、床に先程吐き捨てた唾を裾で拭った。にぃと笑い、褒めろとばかりの視線を女へと向けた。廊下に吐き捨てられた唾が拭き取られたのを見、ミトはそれくらいならばと判断して口を開く。
「まだだ」
「まだ、ってことは今からか?ならおれもおめぇの船に乗せろよ。ああ、生憎おれを送る船が出ちまったばかりでよぉ」
「軍艦は、お前の送迎船じゃない。足を用立ててほしければ、他の人間に頼むことだ」
「お役所仕事はよそうぜ。分かってんだろ?おれは、お前の、船が、いい」
「そうか。だが残念なことに、私は船に部外者を乗せる気はない。特に、お前のような人間は御免被る」
「上に掛け合ってもいいんだぜ?」
 ドフラミンゴはそう、したり顔で権力をちらつかせた。女の顔が瞬時に嫌悪で染まったのを見て取った。そういった表情変化すら楽しみながら、ドフラミンゴは両手を伸ばし、ミトの両腕を挟むようにして掴むと無理矢理背を落とさせた。近づいた分だけ、吐息が触れ合う。
 醜悪な生き物を見るような瞳は、海賊をゴミだとのたまうセンゴクとはまた少し違っていた。
「放してやらネェよ。このまま、おめぇを担いで船に乗ってもいいんだ。別に将校の一人や二人いなくなっても、代わりくらい腐るほどいるだろうしよ」
「それが事実なところで、私が大人しくお前に担がれたまま船に残るとでも思うのか」
「そうですよねぇ、大佐」
 出航時間ですよ、とひょっこり、窓から刈り上げた頭が覗く。人を食ったような、丁度数刻前に自身に門前払いを食わせた海兵の顔をドフラミンゴは忘れてなどはいなかった。
 ギックは窓枠に両肘をかけ、親指で背後に広がる港と、出航準備は既に済んでいる船を指差す。
「いきましょう、あなたの楽園に」
 ふざけたことしか口にしない男の顔には、海兵のそれが覗いた。両腕をドフラミンゴの手で挟まれていたミトは肘から下を曲げ、その押さえている腕を取るや否や、強烈な頭突きを無防備な額に食らわせた。短い声が上がり、腕の力が緩められる。見計らい、掴まれていた腕を逃がすと、部下が立つ窓へと体を放り投げた。
「行くぞ、中佐」
「はい」
「…おい!」
 待て。待て待て待てよ。
 手は伸ばしたものの、窓の幅はドフラミンゴが通るにはいささか狭かった。待て、ともう一度声を荒げたが、女は振り返らない。代わりに、隣に立っていた肩程の男が振り返った。にんまりと憎たらしいほどに愉悦を含んだ瞳が、勝ち誇った彩りを乗せて細められる。構うものか、もういい殺してやる。
 指先に力を籠めれば、甲に筋が立つ。サングラスの奥で標的を定めた。しかし、背にかかった声にそれを一瞬見失う。
「何をしておいでだい、ドフラミンゴ」
「おつるさん」
 振り返った先に居たのは、一人の美しい老兵であった。年老いてもなおその美しさは損なわれていない。綺麗な女である。
 反応した男に、つるはドフラミンゴの指先へと視線を注いだ。そして、やれやれとばかりに溜息を漏らす。
「おいたは他所でやりな。壊すんじゃないよ」
「違ぇよ、おつるさん。このおれがそんなことするように見えるか?」
「違うのかい」
「そりゃ、」
 当たり前だと言い掛け、ドフラミンゴは慌てて窓の外へと視線を走らせた。既に船は港を離れてしまっている。漏らした声はあからさまなほど落胆していた。
「馬鹿だねぇ、お前は」
 隣から聞こえたつるの笑い声に、ただただ返す言葉もなくドフラミンゴは苛立ちまぎれに壁を蹴り付け、そうしてまた怒られた。

 

 ところで大佐、と潮風を肺に一杯吸い込みながら、ミトはそう声をかけた部下へと視線をやった。海軍支給のコートが船の速度によって走る風に流されている。
「おれたちには、あなたが必要ですよ。あなたがいないと困ります。とても」
 その言葉が、先程ドフラミンゴが言っていた言葉への部下なりのささやかなる気遣いだと気づき、ミトはああと目元を緩めた。
「私が居なくとも、お前たちで歩けるようになってもらいたいものだがな」
「楽園は楽園でも、男心と下半身に優しい楽園なら、おれたちも一致団結して行動できますよ。ええそれはもう、立派に!そんなおれたちの成長ぶりを見てみたくはありませんか、大佐?ここから帰ったら、大佐の奢りで」
「そうだな」
「男前!」
 拳を握り、わいと船上の海兵は士気を上げる。しかし、彼らの上官はその後に、全く嬉しくない言葉を続けた。
「奢りで、特別特訓メニューをくれてやる。楽園と言わず、天国を見せてやるよ」
 あんまりです、大佐。
 上官の言葉に部下一同は落胆し、嘆息した。そして、そんな部下に上官は笑い、
「酒場で酒なら、たらふく奢ってやる。今回の航海から、帰ってきたらな」
 そう告げ、船は明るく揺れた。隣の約一名一人不服気である部下の頭を小突き、海の女は手を上げる。帆を張れ。
 船は楽園へと向かう。