1
船員が持っていた望遠鏡をその手から奪い取った。遥かかなた、その用具を使わなければ目にすることもかなわない光景を、ドフラミンゴは望遠鏡のそのガラスに、サングラスを持ち上げて目を押し当てた。ガラスの中の小さいはずの遠い世界は、まるでその場に居るかのような臨場感を持って、その光景をドフラミンゴの角膜を通り過ぎ、水晶体、硝子体、その奥、網膜で焦点を結ぶ。ガラス向こうの眩しい程の世界に、ドフラミンゴは薄く眼を細める。
海賊船が軍艦に踊らされる。
そう、表現するのが最も美しい表現の仕方である。ドフラミンゴはそう思った。踊っているのだ。海軍の旗を掲げた軍艦は、その巨体を波の上に乗せているのではなく、波の上を走って、軽やかなダンスを踊っていた。舞っているのだ。
波とのタップダンスをサングラス越しではない双眸に映しながら、望遠鏡を覗く男は、ざざと波の上で踊る軍艦の甲板に一人の女の影を見た。波風に正義の二文字が叩かれて、靡いている。短いその髪は潮風を横から受けつつざらざらと揺れていた。船が旋回し、まるで生き物のように海賊船のゆく手を遮る。船首を押さえられた海賊船の砲弾など意味がない(何しろ大砲は船の横に付いているわけだろうし)反対に、船の腹で海賊船を押さえた軍艦の方向から一斉に砲弾が飛ぶ。海に柱が立った。どん、と激しい音が響いたように思えた。無論言うまでもなく、ここまで響いて来るはずもないのだが、その音と震動は、船に乗る者だけが知っており、それはドフラミンゴの耳と体に視覚で捉えるだけで、鮮明に、それこそまるで傍で大砲を撃たれたかのような音を響かせた。腹の奥にまでその振動が叩かれる。
波を読んでいるのは航海士か、それとも軍艦の主か。
ドフラミンゴはまじ、と望遠鏡を覗き込み、一寸もそこから目を離すことをしない。まるで虜にでもされたかの如く、男は望遠鏡から手を離すことをしなかった。
潮を含んだ風と上から照りつける日差しが肌を痛めつける。日に焼けておらず美白を気にする女であれば、即座に日傘を手に持ち室内に引っ込むであろう。しかし、男はその日差しの中で望遠鏡を手にしていた。音が、耳まで響いて来るような錯覚に襲われる。
押しつけるようにして見ていると、女が動いた。大砲の合図ではないそれは、まるで一匹の、否、一頭の獣のようだった。
海賊船の船首が軍艦の横にぶち当たる。波が立つ。波が散る。船が揺れる。甲板が斜めになり、武器を持った海の男たちが己の自由を確保せんがために、海で生き続けるために猛々しい咆哮を上げる。そして、船が衝突したその瞬間に、軍艦の甲板へと転がりこむ。甲板には一人女の姿。その後方には、銃を構えた海兵たちが美しいラインを保ったまま、その口を乗り込んできた海賊たちへと向けていた。他に海兵の姿は無い。居ることはいるが、少数であり、その少数名もマストで風を上手く受けるために居る要員であることは、遠目にも明らかであった。しかし、軍艦一隻動かすのであれば、海兵は少なからずいるはずである。船内に居ると踏んで間違いはない。甲板が、きしりとなったように、ドフラミンゴには思えた。
女将校の口が大きく動き、何かを怒鳴る。読唇術ができずとも、状況から鑑みて、それは銃を撃つ号令の言葉であることは間違いない。海兵が持っていた銃が一斉に火を噴く。炎の華が、一列に散った。聞こえぬはずの音が、大気と鼓膜を震わせている。握りしめている望遠鏡が、強い力のせいでみしりと嫌な音を立てた。中に嵌められているガラスに皹でもはいる勢いでドフラミンゴはそれを持っている。
一列に整列していた銃が一斉に跳ね上がり、乗り移ってきた海賊たちが倒れる。主に足を狙ったようで、機動力を奪われた海賊たちは甲板に倒れた。しかし、一度の射撃で終わる程の人数でもなく、乗り移ってきた海賊たちは仲間を乗り越えて武器を振り上げる。刀を携えた女は、白刃を持ち上げた。背後に並んでいた海兵に、また何か怒鳴る。兵たちは持っていた銃に剣を付けた。着剣の指示であった。
突撃。
一枚の絵のような美しい光景がそこに描かれた。ガラス越しの世界であると言うのに、まるで己が戦場に立っているかのような臨場感にドフラミンゴは襲われた。海賊と海兵が、海の男たちが互いの信念と武器を掲げて戦う。完璧と呼べるほどに完璧に練兵された兵士の一人は、武器を振り上げて空になった海賊の腹に銃尻を抉りこませる。鳩尾にきっかり入り、男は体をくの字に曲げた。他の所では、振り下ろされた金棒を銃の腹で軌道を変えて、くるとその銃を回しながら敵の頭を銃身で叩いた。
女が指揮する海兵の練度は非常に高く、甲板に乗り込んできた海賊たちは、武器を取り上げられ、見る見るうちに動ける数を減らしていく。
これが、統率された兵士かとドフラミンゴは口の中で笑いを零した。一人で敵わぬ敵には二人でかかり、二人で敵わぬ敵には三人でかかる。作戦があるのかどうか、おそらくそれは無いのだろうと、その光景を眺めていた男は感じた。作戦ではなく、その場の状況に応じて、訓練されていた型で各々の判断をし行動する。まさに、体に叩きこまれた動きは戦場で持って効力を最大に発揮していた。海に地の利はほぼ存在しないと言っていい。とりわけ、このグランドラインにおいては、海は即時にその表情を変えるため、そんなものは全くもって当てにならない。広すぎる程に広いフィールドで役に立つのは、己の頭とその実力のみである。
ドフラミンゴは、ふっと息をのんだ。どん、と人ごみが弾け飛ぶ。まるで噴水のように人が舞い上がった。中央に居るのは。
ほら見ろ、とドフラミンゴはその口元に三日月の笑みを刷いた。赤く長い舌が欲にかられて自然と唇を舐め上げる。白い海軍支給のコート。背に刻まれた正義の二文字が、布が舞うことでその形を歪める。相手とて丸腰なはずもなく、その手には当然剣やら銃やら金棒やら武器の類を所持している。だが、女はそれを気にしない。ただ、振るう。
海軍本部の大参謀がいつか言っていた言葉をドフラミンゴは頭の引き出しから、引っ張りだした。綺麗な戦い方をするのだ、と。見てみれば分かるとも言われたその光景を、ドフラミンゴは目にして、そして納得した。あれは、戦人ではない。あれは。
そう、あれは。
三日月の口から、感嘆の吐息が零れ落ちた。男はその大きな体を船の縁から乗り出して、背筋から這い上がってくる欲望に身を打ち震わせる。嚥下した唾が、喉元でごきゅりと音を立てる。縁を掴んだその手には筋がくっきりと浮かび、堪えようの無い笑い声が、肩を喉を瞳を、心を、揺らした。堪え難い。今直ぐ、あの場に飛び込み、あの女と戦いたい。一戦を交えたい。
感情を早鐘の様に鳴らす、その願望にドフラミンゴはこれ以上ない程に頬の筋肉を吊り上げた。どうしようもなく、堪らない。あれは一体何なのだろかと、背骨間の緩衝材の軟骨がぶるりと震え、びんと背筋を伸ばした。血液の一滴、細胞の一つから、戦いたい欲望が溢れだす。しかしながら、望遠鏡の光景は遥かかなたであり、ここではその音も、波の揺らめきすら伝わって来ないのである。たまらない感情にドフラミンゴは舌打ちをした。
ケモノであろう。
戦闘に特化した獣である。敵が落とした剣を拾い上げ、脚の腱を撫でる。神経単位で立てなくなった海賊は甲板に倒れる。その背を踏みつけ、男の後ろに居た海賊の顔面に蹴りをめり込ませる。顔を踏み場に高く舞い上がり、さらにそこから月歩なる技で向けられた銃口から放たれた銃弾を回避すると、人ごみの中に落ちて、気付けば男たちが持っていた銃は全て使い物にならなくなっていた。倒れた男の襟首を片手でひっつかみ、団子になっている男たちに向かって投げ飛ばす。遠心力も加えられたその体は、簡単に吹っ飛んで、仲間の体を薙ぎ倒した。
腰に差していた鞘をベルトから抜き、斬れる刀と斬れない鞘であっという間、あ、という言葉すらない程の速度で敵を薙いで行った。海兵共もそんな上官の戦闘能力の高さは心得ているのか、ある程度の人数に分かれ、倒れた海賊を捕縛する者と未だ立っている海賊と戦う者になる。大層手際が良い。
ここは、グランドラインの後半。新世界と呼ばれる場所で、海賊たちのレベルも高い。それこそ、楽園とは比べ物にならない程である。能力者でさえ、迂闊な真似をすれば瞬きする間に海の藻屑となる。まさに、強者だけが物言うことを許される海なのである。
望遠鏡の中の世界はもう終わりを告げていた。女の足が、海賊の船長であると思われる男の武器を蹴り飛ばす。ああ、あの男の船かとドフラミンゴは納得した。億越えの海賊の一人である。名は覚えていないが、顔は知っていた。ど、と最後に船長は顔面を女の手で鷲掴まれ、後頭部から甲板に叩き落された。割れた板が飛ぶ。男の吐き出した血が、女の指の間からこぼれて空中に散った。気付けば、他の乗組員も全て、軍艦の甲板の上にお縄になっている。船が衝突してから、ここまでの間、五分とない。
男はどうやらまだ意識があるようで、顔を鷲掴んでいた女の腕をへし折ろうと、鍛え上げられた腕を持ち上げたが、その腕は刀で一線された。腕こそ落ちてないが、男の腕は指先一つ動かない。女はそれでようやく手を放して男を床に落とした。縄を持った兵士が船長を縛り上げる。
それからはもう手慣れたもので(否、それ以前の戦闘においても文句なしに手慣れていたが)軍艦の砲撃によって酷い損傷を受けていた海賊船はずぶずぶと海に沈んでいった。ただ、掲げていた旗だけは取り払われ、何故だろうか、ドフラミンゴには到底理解できなかったが、その旗は丁寧に折り畳まれて、捕まった海賊の側に置かれていた。
沈むことで発生する渦に巻き込まれぬよう、帆を張り風を受けて軍艦はその場から去った。
そしてドフラミンゴは持っていた望遠鏡を船に乗っていた乗組員に押し付けて、首を傾げる。本部へ、ともう一言命令して、船首を移動させた。詰まらぬビジネスの会談に行くよりかはこちらの方が面白そうだと、それは男の大層興味をそそった。