うたた寝

 ひょんな仕草に目を引かれる。
 連日の診察で疲労が溜まっているのか、栗色の睫毛を瞬かせて落ちかけた瞼を手の甲で擦り持ち上げる。荒れた手の甲で眠気を覚ますかのように、エミリーは顔を拭い、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干す。苦味が喉を通り抜け、一瞬だけ視界がクリアになる。けれど、蓄積された疲労は瞼を容赦なく落としにかかっていた。
「諦めて休んではいかがです?」
 診察室と私室を分ける間仕切りのカーテンの向こうから声が届く。
 エミリーは向けられた、しかし真っ当な言葉を振り払うかのように眉間のあたりを摘んで天井を見上げた。
「駄目よ。もうすぐ協力狩りが終わるでしょう。ハンターはリッパーとマリー女王だもの。みんな、怪我をして帰ってくるわ。ナワーブ君とウィルなんて満身創痍だろうし、ノートンさんにバルサーさんもいるなら、ハンターも無傷では済まないわ」
 そうだ、とエミリーは空になったコーヒーにインスタントコーヒーをぶちこみ、熱湯を注ぐ。香ばしい香りが部屋中に広がったが、もはや摂取し過ぎたその香りは目を覚ますだけのものにはならない。
 ハンターの負傷は一見して分かりづらい。
 ウィルのタックルは打撲であったり、パトリシアの呪いは一瞬の硬直であるから、一見して分かりづらく、そこまで目立つものではない。もっとも、美智子やマリーなど女性のハンターは、タックルを受ければ青痣が痛々しく残るし、その後に障害物に当たれば、男性ハンターでも鬱血したり、下手なところに当たれば擦過傷など小さな傷を負う。協力狩りで多用される信号銃は、直近で撃たれれば火傷することもあり、その破片が目にでも入れば暫くその目は使い物にならない。
 ここ最近で驚いたことと言えば、バルサーの電流による攻撃は連続して受ければ、火傷のような熱傷痕ができることである。よく考えれば、電流を流して動きを止めているのだから、感電しているということになり、負傷するのは当然のことである。
 おかげで、ここ最近エミリーは試合に出ることよりも、サバイバーに限らず、ハンターの治療にも追われ、ゲームに参加する頻度がかなり減ってきていた。午前午後、一日二回は参加していたゲームだったが、気づけば、二日に一回程度になってしまっている。その代わりに増えたことといえば、怪我をしたハンターとサバイバーの治療である。兎角、多い。負傷者が。
 手が空いている時は、エマが手伝ってくれるものの、それでも追いつかない。
 野戦病院ではないのだけれど、とエミリーは乾いたシーツをベッドのそれと交換し、交換し終わったものを洗濯機で回す。この作業もここ最近は、頻繁に行っている。ベッドを使う負傷者が増えたからだ。ゲームが終われば、全ての負傷が回復するわけではない。エミリーは消毒液と包帯、それらの補充を行い、本日の協力狩りに参加したサバイバーのカルテを確認する。
「ああ」
 溜息が落ちる。
 ナワーブ・サベダーは、先日リッパーの刃に裂かれた背の裂傷が完治していない。
 試合場は湖景村。泥と草木に覆われたそこは、控えめに言っても衛生的ではない。まだ、遊園地であればと独り言ちたが、自室で何をぼやいたところで、始まったゲームが突然終わるはずもなく、試合場が変更されるわけでもない。
 味方の壁になることが多い役職で、特に背中に負傷をもらうことが傾向として見られ、その上負傷する度に回復が遅くなるためダウン放置されがちである。傷の縫合はしているものの、抜糸はまだであり、ガーゼを被せた上で包帯で覆っているが、リッパーの刃からすれば、それは布切れであり、剥き出しになった傷にダウン放置とくれば、感染症の恐れがある。抗生物質と点滴の準備をエミリーは始めた。
「抜糸が終わるまでは、ゲームに出ないように言っておいたのに」
「お望みであれば、私とのゲームで足の甲を貫いて動けなくして差し上げますよ。その程度であれば、ゲーム後に回復はしないでしょう。流石の傭兵も肝心の足が動かなければ、ゲームを棄権しますよ」
「その怪我の治療は誰がすると思っているの。やめて」
「よい案だと思ったのですが」
「…あなたとのゲームは武器が傘で、打撲や擦過程度傷で済んでいるから、治療がまだ楽なのよ」
「力加減はしていますからね。もっと褒めてくださっていいんですよ?」
 先端が鋭利とはいえど、突き刺すことを目的とはしていないため、その先端がめり込むことはあっても突き抜けることはない。傘であるが故の強度と、彼ら自身の魂が宿る物であるという問題もあり、白黒無常は双方ともに、傘が破損するほどの威力での攻撃はしない。
 もっとも、本気でやれば、傘が破損せずとも、先ほど謝必安が提案した程度の攻撃が十分可能であることは、エミリー自身もよく分かっていた。
 彼らはただ、そうしない、それだけである。
 時計を眺め、エミリーは両肩を大きく回して伸びをする。窓を開ければ、心地よい青空が広がり、うとうとと眠気を誘うような日差しに気持ちの良い風が室内を吹き抜ける。
「エミリー」
「え、ええ。何かしら」
 注意力散漫な状態だったせいか、エミリーはいつの間にか目の前に立っていた謝必安に気付くのが遅れ、吃る。その大きな骨ばった手には、コーヒー、ではなく、爽やかな香りを漂わせる中国茶の入った丸い陶磁器が収まっていた。それは、受け取るように差し出されており、思考が鈍くしか働いていないエミリーは差し出されるがままにそれを受け取った。
 すん、と鼻を動かせば、コーヒーとは違う胸の支えがのくような柔らかでよい香が胸いっぱいに広がる。
 温度の伝わりやすい茶器は、疲労から下がってしまっていた指先の温度を温める。
「どうぞ」
「ありがとう」
 向けられる笑みに悪意はなく、エミリーは素直に礼を述べてまずは一口口に含み、ゆっくりと飲み落とす。冷めたコーヒーのような苦さや刺々しい感じはなく、柔らかく、ほっと落ち着くようなスッキリした甘さが口に残った。
 思っていたよりも疲れていたのだとエミリーは反省する。
 茶を味わった口に今度は一口サイズに千切られた月餅が押しつけられる。何を、と反論しようとすると、それは歯の隙間から口内に押し込められる。喉に詰まるサイズではないことから、舌の上に落ち、その甘さが体の疲れを労るように全身に広がる。美味しい甘さについつい眉尻が下がり、文句を言おうとしてもそれを食べることが先行されてしまう。
 謝必安、と詰めようとするも、次の欠けらが間髪入れず口に入れれる。食べ物を口に含んだまま喋るような行儀の悪い真似はできず、エミリーは黙々と口を動かす。しっかり食べ終わり、今度こそと口を開けようとすると、流れるように茶器の底に手が添えられ、あっという間に縁と口が触れ合い、飲まなければ服を濡らす羽目になり、エミリーは茶を飲む。それが終われば、また千切られた月餅が口に捩じ込まれる。
「謝必あ」
「これで、全部食べ終わりましたね」
「ん」
 指先から力が一気に抜け、茶器が落ちる。あ、とエミリーは咄嗟にそれを拾おうと立ち上がるが、今度は膝から力が抜けて崩れ落ちる。大きく長い掌が床に落ちる前の茶器を引っ掛け、崩れたエミリー背骨を支える。
 ナースキャップが床に落ちた。
 謝必安は茶器をカルテが置かれている机の上に置き、気絶、もとい寝落ちて力がすっかり抜けてしまった体を抱き直す。
「医者の薬はよく効くのが通説ですが、定評通り、嘘偽りありませんね」
 ねえ、無咎。
 間仕切りを挟んだ向こうにある薬棚のうち、一つの瓶の蓋が開けられている。溢れた錠剤の隣には、砕けた残骸か、粉末が落ちていた。
 謝必安は柔らかな体を片手で抱えたまま、靴を脱がせて床に揃え、詰めた髪を解き、細い指先でそれを梳く。すっかり隈ができてしまった目の下を親指でなぞると、謝必安は抱きかかえた体を彼女自身が敷き直した洗い立ての清潔なシーツの上に寝かせた。枕は二度ほど叩き、空気を持たせて頭の下に置く。
「本日は休業ですとも。ねえ、そうでしょう」
 そう言うと、謝必安はベッドに立てかけていた傘を開き、その雨粒に溶けた。

 閉じた扉の向こうに丸椅子が一つ置かれている。その隣には木箱が一つ、あった。
 そこに座る人物の前には、片手にサバイバーを一人引っ掛け、もう片方の手で白い仮面を引っ掻いている。
「ダイアー女史に用があって来たんですが」
「生憎と終日留守だ」
 とりつく島も無いほど素っ気なく言い返され、リッパーはチラと片手で引きずってきたサバイバーへと視線を向けた。
「困りましたねえ。囚人に電流を流された箇所が痛むんですよ。で、生きてます?傭兵」
「生きてるから、首根っこ掴むんじゃねえよ。大体、てめえ!わざとこの間の傷狙ったろうが!」
「はーぁあ、ご自分の技量のなさを私のせいにするなんて全く嘆かわしい。霧一つ避けられない体たらくで文句なんて言うもんじゃありません。もう傭兵稼業は廃業して、その可愛らしい肘当てでサーカス始めた方がよろしいんじゃないんですか?痛みでひいひい憐憫を誘いながら泣いたら拍手がもらえるかもしれませんよ」
「はあん?俺に霧当てようとしてガバッたの見てんだからな…てめえこそ切り裂きジャックなんてご大層な名前はやめて、ガバ霧ジャックにしとけ。そんでサーカスにはてめえが入団して、びっくり透明人間ショーでもやってろ」
 子供の言い合いが本格的に始まる前に、范無咎は二人に声をかける。二人分の視線が座ったままのハンターに向けられた。
 范無咎は椅子の隣に置いていた木箱に入れていた瓶を差し出す。中には液体が入っており、動きに合わせてチャポリと揺れる。
「傷口は清潔な水で洗って、それで消毒しろ。飲むなよ」
「これは…?」
 リッパーの質問より早く、ナワーブは差し出された瓶を開け、その鼻を縮めた。とんでもなく強い酒臭が廊下一体に広がる。に、と座った男は口角を吊り上げ、笑ってみせる。
「とっておきだ」
「とっておき」
「ああ。リッパー、お前は患部を氷にでも突っ込んでろ。傭兵は明日以降に来い。次の奴」
 リッパーとナワーブは顔を見合わせた後、その後ろに並ぶ先の負傷者に顔を向けた。本日の負傷は傷口を水で洗う程度の措置しか受けられそうになかった。