記念日

 記念日は通知される。
 故に、エミリーは本日である九月二日が白黒無常の記念日であることを知っていた。
 会う面々に、今日は白黒無常の記念日であることを告げられ、やはり皆知っているのだとそんなことを思いながら、ゲームに及んだ。記念日というくらいなのだから、ハンターは彼らなのだろうとエミリーは、そして他の面々も思っていたが、本日九月二日のハンターに白黒無常は一度たりとも参加しなかった。通常のゲームも、協力狩りでさえも。
 ハンターとして出会ったら、今日くらいは祝ってやろうと思ったのに、と試合終了後、サバイバー内でそんな会話がなされる。
 けれど、サバイバーの誕生日と異なり、記念日と称されることから、一体なんの記念日なのかとエミリーは視線を外へと向けながら一人静かに息を吐く。
 窓の外を眺めれば、しとりと雨が降り始めた。
 そのせいだろうかとエミリーは思う。
 白黒無常は、というよりも謝必安が雨の日のゲームを避ける。それは彼にとって仕方のないことではある。
 そう考えた時、雨滴の合間に細い影を見つける。景色が灰色に近く、同系色の上、白く細い影を見つけるのは至難の技であるが、見慣れたその三つ編みと、今にも折れそうな細い体を見間違えることはない。
 エミリーは試合終了後の会話を楽しんでいる部屋で、慌てて立ち上がる。あまりにも突然立ち上がってしまったがために、椅子が背中から倒れて大きな音を立てる。
「ダイアー先生?」
「あ、ええ、ごめんなさい。急用が。先に失礼するわね」
 そう言うと、倒してしまった椅子を戻して、エミリーはドアを押し開けると、長い回廊を強くなっていく雨音を聞きながら走り抜ける。玄関の大扉を開ければ、雨の勢いはそこそこに強くなり、傘も持たずに走り抜ければ、ものの十秒と経たず、肩口どころか全身が濡れてしまうことは目に見えていた。
 傘をと思ったが、それよりは優先させるべきかとエミリーは雨の中を傘も持たずに駆け抜ける。
 白く細い影が、鬱々と佇むその姿が、はっきり確認できる距離までエミリーは足を止めずに走る。は、と息を吐き出した頃には、肺の中の空気は空っぽになっており、体力のなさを恨みつつ、エミリーは肩で呼吸を繰り返す。雨粒で体は冷やされ、汗をかくことはなかったが、そのかわりに雨粒が肌の上を次々と伝って落ちる。
 く、とエミリーはその袖を引く。
 普段であれば、エミリーと名前を呼んで振り返ることをするハンターはそれをせず、ただ雨に打たれ、項垂れて佇み、微動だにしない。
「風邪を、引くわ」
 深く息を吐き出すことで、エミリーは呼吸を整える。
 その細い体は、いつから立っていたのかずぶ濡れで、白い服はその細い体にへばりつき、水をたっぷりと含んだ服自体から雨粒が滴っている始末であった。
 反応がないハンターの袖を再度強めに引いて、謝必安と声をかける。
「記念日ですか」
 はは、と自嘲と侮蔑の滲んだ声が薄く色の抜けた唇から、泥のように溢れる。瞳は淀み、それは足元の水溜まりへと注がれていた。
「成程。首を括ってなお、無咎に会えなかった日だ」
 痛ましい。
「私の迂闊さが無咎を殺し、殺しただけでは飽き足らず、縊死程度でその愚かな罪を贖えると思っている。浅ましく、なんと汚い」
 透き通るような紫は凝る。く、とエミリーは再度その袖を引いた。
 知っていますか、と謝必安は鬱屈とした表情を雨に中に落としながら、目尻を細めて顔を歪める。
「私は、無咎が残す意思を、ほとんど解することができないのです」
 ふふ。
 自嘲の笑みがその口端から溢れて雨粒に溶けていく。
「最たるもので言えば、手紙でしょうか。彼は書を得意としました。あの強く、美しい字。目を閉じれば思い出すことができる。ですが、彼の文字が、私、読めないんです」
「それは」
 そう言いかけ、エミリーはあらゆる病状を考え、いくつかは謝必安の症状に合致するにせよ、少なくとも病気が原因だと断ずることはできず、言葉を失う。
 エミリーの反応を気にすることなく、謝必安はぽつりと続ける。
「彼の文字なのは理解できる。ですが、彼が伝えたいものが分からない。言葉として文字として、理解できない。認識が、できません。そして、無咎である時、彼が見ているものを見ることもできるのですが、彼の声は聞こえず、彼の姿は見えない。鏡に写っても。その姿だけは、見えない」
 言葉を失うエミリーに、謝必安はその歪んだ口元をひくつかせ、沈む思考を狂わせていく。言葉だけが、まるで濁流のように流れた。
「彼がいるのは分かるのに、私に何かを伝えようとしてくれるのは分かるのに、それがなんであるのか、私には分からない。私にその言葉を聞く資格などないと。彼を殺した、私に。浅ましく、汚く、存在などしなければいい私に、彼は、無咎は、到底相応しくないのだと。彼の声も姿も、何もかもが、霞のように消えていく」
 はあ、と謝必安は深く息を吐く。
 ようやっと合った瞳は何も見てはいなかった。
「無咎を、あのように、正しく優しい人を殺した私に、なんとふさわしい罰」
 壊れてしまう。
 エミリーは咄嗟に謝必安のその三つ編みを引き抜くくらいに力強く引っ張った。
 治療という名のメンタルケアは、今の彼にはなんの意味も持たないことを理解した。慰めも共感も、ひび割れたグラスを壊すには十分である。否、もうすでに、壊れているのだ。
「風邪を、引くわ」
 そうとしか、言えない。
 一度その紫が大きく開かれ、そして細く歪む。
「ええ、風邪を、引きますね」
 細い影は今にも消えそうだった。

 自室の寝台で、まるで息絶えたかのように、無気力な、細い体が横たわっている。
 軽く絞っただけでバケツいっぱい分くらいは水を含んだ服を脱がせる。温かいシャワーを浴びせ、乾いた服と人肌のホットミルクを飲ませて寝台に座らせれば、今に至る。エミリーは丸められたその背を眺めながら、言葉をかけることはせず、ただ寝台の端に座っていた。
 かけることはせず、というよりもかける言葉などない。
 あまり見てもと視線を外した瞬間、ドロ、と水の落ちる音が耳を掠める。
「悪かったな。付き合わせた」
「范無咎」
 そのエミリーの表情で全てを察したのか、范無咎はあぐらをかいて傘に手を置く。
「俺は、必安のことが見える。あいつが残したものも、声も、知ることができる。まあ、傘の中からでは、少し疲れるが」
 范無咎は動かない傘を撫でながら、視線を落とした。
「君も、そうであれば救われたのか」
 傘を撫でる手はひどく優しく、しかしその優しさも何も謝必安には伝わらない事実に、エミリーは眉を下げる。それを見て、范無咎は眉尻を少し下げる。
「そんな顔をするな」
「そんな顔をしていた?」
「ああ。だが医生。俺は、お前に感謝している」
 その言葉の意味が分からず、エミリーは小さく首を傾げて見せた。それに、范無咎は傘を撫でながら、必安はと呟く。
「以前ほどは、雨を怖がらなくなった。お前を通して、俺の感情が見えるのもいいんだろうよ」
「それは」
 それ以上の言葉をエミリーが紡ぐ前に、范無咎は傘を抱えたままベッドに転がり、布団を被ってしまう。エミリーは開きかけた、口を閉じ、ゆっくりと寝台から立ち上がる。
「おやすみなさい」
 そう一言だけ残し、遠ざかる足音と共に気配が消える。
 記念日か、と范無咎は口の中で繰り返す。傘から何か返答があるわけではない。
「いつか」
 その呟きは、願いよりも懇願に近かった。
 当然、その声が傘の内にある魂に届くことはなかった。