反面教師

 それを奇妙だと思い始めたのはいつの頃からだったか。切っ掛けはほんの些細なことだったように思う。
 謝必安は、エミリーが部屋に訪れた際にかけられた名前に、紫煙を燻らせていた煙管を持つ指が僅かに強張った。
「范無咎」
 ひょこりと顔を覗かせた人に、謝必安は先刻の違和感を伏せて微笑んだ。
「エミリー、どうしたんですか」
「范無咎に会いたいのだけれど」
「無咎に、ですか」
 ちり、とどこかが焦げる音がする。
 しかし断る理由も思い至らず、無咎とエミリーが仲が良いのは好ましいことであるし、謝必安は煙管を一時置いて、傘を手に取った。
 無咎を呼ぼうとして動きを止める。
「あの」
「なにかしら」
 開きかけた傘を閉じて寝台に立てかけると、煙管を置いたままに立ち上がる。
 側の棚から箱を取り出し、丸い木目の美しい机に置く。無咎を呼ばねばならぬのに、そうわかっているのに傘には手が伸びない。
「先日、とても美味しい茶菓子をいただいたんです。無咎も気に入っていて、朝起きたら半分なくなっていたんですよ」
「まあ、范無咎のお気に入りなのね」
「え、ええ。ええ、私も、その、私も気に入っています」
 花が綻んだような笑みを向けられ、謝必安は視線を思わず手元に落とす。
 箱を開け、中の菓子を皿に取り分けてエミリーへと差し出す。エミリーは椅子を引いて腰かけた。一言礼を述べて菓子を食べれば、目をキラキラと子供のように輝かせ、美味しいと絶賛した。
「彼、甘いものが苦手という割に、本当に美味しいものは甘くてもお気に入りにしちゃうのね。美味しいものが食べたい時は彼に聞いた方がいいかしら」
 私も、気に入っているんです。
 咄嗟に出かかった言葉を喉元で止め、菓子と一緒に胃へ押し戻す。美味しかったはずの菓子は砂の味がした。
 謝必安は温かな茶を入れ、同じようにエミリーの前へと差し出す。
「これも范無咎のお気に入り?」
 無咎の。
 声が潰れた。口角が奇妙に持ち上がり、不格好な笑みが出来上がる。流石にエミリーもその変化に気付き、茶を机に置き戻した。
「謝必安?」
「いえ。いえ、あなた、無咎に会いに来たんでしたか」
「ちょっと」
 エミリーが待ったをかけるより早く、謝必安は寝台に立てかけていた傘を再度掴み取り、それ以上話を聞くことなく、勢いよく傘を広げた。心配を色濃く滲ませた表情が黒く降る雨越しに覗いたのが変わる寸前に見た光景だった。
 范無咎は雨粒を振り払い、先端で床を突く。
 そして、椅子から立ち上がり、机に両手をついてその身を乗り出しているエミリーに怪訝そうに眉根を寄せる。
「どうした」
「え」
「何かあったか」
 その問いかけにエミリーは言い澱み言葉を濁す。目敏くその機微を察し、范無咎は医生と再度促す。しかし、エミリー自身ことの確信に至っていないため、不確定の事実を口にすることは憚られ、頬に手を添えて何もなかったことを装う。
 范無咎は納得行かないような表情を隠しもしないが、それ以上追及したところでエミリーが口を割らないことを理解し、ひとつ息を吐いて、先程まで謝必安が腰掛けていた椅子に座り、テーブルに残されている菓子に手を伸ばした。
 その光景にエミリーは思わず伸ばされた手を叩き落とす。
「何をする」
「駄目よ。謝必安に聞いたわよ、半分も平らげたんですって?食べすぎよ」
「小煩いやつめ」
 ち、と舌打ちをし、范無咎は叩かれた手をさすりながら引っ込め、代わりに茶で喉を潤した。不服さは表情から見ても十分にわかるほどである。
 エミリーは菓子の入った箱に蓋をして、机の端へと置き、この部屋を訪れた本来の目的を思い出す。
「そういえば、頼んでいたものはどれかしら」
「ああ、少し待て」
 そう言うと、范無咎は席から立ち上がり、寝台横の床板を二枚ほど外す。中には木箱が収められており、それを掌で埃をはたき落とすと机の上へと置いた。まるで子供の宝物の隠し場所のようである。エミリーが外された床板を見ていると、范無咎は小さく笑った。
「普通の場所では必安が気付く」
「だからといって、手が混んでいるわね」
「必安は失せ物探しが得意だからな。俺が何を隠しても失くしても大体翌日には見つけていた」
 笑顔で失くしたはずのものを片手に手を振る謝必安の姿を思い出し、范無咎は懐かしさに頬を緩めながら、箱を開け、エミリーから頼まれていたものをその前へと差し出す。小さな何の変哲もない白い箱である。
 エミリーはそっと蓋を開け、途端広がった香りに目を閉じる。
「とても、いい匂い」
「探すのは苦労した」
「ありがとう。謝必安はいつもあなたの話ばかりで、あなたが好むものを身の回りに置いているけれど、肝心の彼が好きなものが分からなかったのよ」
 この部屋で焚かれている香も、先刻まで謝必安が嗜んでいた煙管も。聞けば、無咎が好きなんですよという答えがいつも返ってくる。部屋の間取りも、布団の柄も、この部屋のものはなにもかも、一切合切が范無咎のために作られている。
 だから、謝必安が好むものは、この部屋にはない。
 もっとも、無咎が好きなものは私も好きですという回答もあるのだろうが、それでも彼自身が好むものをエミリーは知らなかった。
「あなたとの繋がりを否定する訳では決してないのだけれど、一つくらいは、謝必安が、彼自身が好むものを持っていてもいいと思わない」
 袂に忍ばせてもよいように、匂い袋にする予定で、一度開けた箱をそっと中身がこぼれないように閉じる。
「本当にありがとう」
「いや」
「彼が喜んでくれるといいのだけれど」
 慈愛に満ちたその微笑みに范無咎は目を細める。つと、声が無意識に出た。
「俺のはないのか」
 そこまで言い切って、范無咎は一度目を驚いたように目を見開き、慌てて視線を逸らす。
 エミリーは手元に目を落としていたため、その表情の変化に気づくことはなかった。しかし、言葉は聞き取っており、視線を合わせると軽く首を傾げてみせる。
「これは、謝必安の好きな香りでしょう」
「お前は必安の話ばかりだ」 
 突如挟まれた言葉にエミリーは思考が追いつかず、きょとんと間の抜けた顔をして、何度も目を瞬いてしまう。范無咎は茶を注ぎ足し、ず、と少し啜る。
「あなたの話もそうじゃない。それに謝必安のこと、あなたいつも知りたがるくせに」
「俺はいい」
「私は駄目なの?おかしなことを言うのね。喧嘩でもした?というよりも、あなた達が喧嘩することなんてあるの」
 一つの傘に魂を宿してなお二人は仲直がいいとエミリーは思う。
 謝必安も范無咎のことを話す時は兎角楽しそうに話し、その上、彼の話の八割は范無咎のことである。范無咎に至っても同じようなもので、互いに互いの話をし続ける。
 だから、二人が喧嘩をする姿は想像できなかった。
 エミリーの言葉に范無咎は、あると端的に答えた。
「俺も頑固だが、必安はそれ以上だ。拗れると数日口をきかないのは普通だった」
「すぐに謝って仲直りしそうだけれど」
「馬鹿を言え」
 げんなりとした表情になり、范無咎は行儀も悪く机に肘を乗せ頬杖をついた。思い出すだけでもぞっとする。
 ぽつりといつものように范無咎は謝必安の話を始める。
「必安が大切にしていた湯呑みを、酒に酔って壊したことがあった」
「あなたも酒に飲まれることがあるのね」
「ただの自棄酒だ。何故自棄酒になったかは聞くなよ、医生。まあ兎角、酒も抜けた後平謝りしたし、新しいものを渡したがなかなか許してくれなかった。許さなかったどころの話じゃない。口はきかない、目は合わさない、仕事の必要事項は紙に書いて伝えてくる」
 怒髪天を突くとはまさにこのことであったが、謝必安の怒りは静かで、そして長かった。
 范無咎は、茶を一口飲んで乾きを癒しながら話を続ける。
「余程大切な湯呑みだったのかしら」
「俺と揃いで買ったものだ。だが随分と古いものだったし、なんなら買い換えてもいいくらいだった」
「それで」
「だから、新しく買ったのだからなんの不都合がある、そんなに怒るようなことかと言った」
「つまり」
 エミリーの返しはその結果を分かっての発言であり、范無咎もその通りだと肯定した。
「俺は必安の怒りに油を注いだ」
 その後は当初の怒りが児戯だと感じるほどには、その態度は硬化した。路傍の石を見るが如きその視線の冷たさは今考えても身震いが止まらない。
 どうにかこうにかで許してもらったが、その過程は思い出したくもない。
 つまり、と范無咎は話を締め括る。
「必安は怒らせると面倒だ」
「面倒じゃなくて、それはあなたにも問題があったのよ」
「なんだ、必安の肩を持つのか」
「持つ持たないの話じゃないわ」
 不機嫌に顔を顰めた范無咎に、エミリーはころころと笑いながら飲み切った湯呑みに茶を注いだ。
「なあに、あなたまだ分かってないの」
「分かるものか。俺が酔って壊したのを差し引いても、ああまで怒る必要はない」
 双方どうしようもなく頑固である。
 エミリーはなぜたがとても可愛らしいものに思えて、目を細め、堪えきれない笑みを落とす。
 その態度に范無咎は、お前は知らぬから笑えるんだと愚痴を零す。
「必安を一度怒らせてみるといい」
「冗談はよして」
 笑うエミリーを他所に、范無咎は取り出した箱を床に戻し、分からぬように床板をはめる。知らぬものが見れば、そこに何かが隠されているなど想像もつかない。
 范無咎は埃を落とすように手を打ち合わせ、エミリーへと顔を向ける。眉間には軽く皺が寄せられていた。
「必安の分だけか」
 話を最初に戻され、エミリーは口をはくりと開閉する。
 椅子のすぐ横に立たれ、その圧迫感に軽く身を引く。自身の影がかかり、暗くなった顔から二つの金色が鈍く光る。
「医生」
「でも」
「嫌か」
 普段から分かりやすい性格をしているのに、こんな時だけその感情の波を掴ませない。
 返事のため口を開きかけたその瞬間、傘が見ていたかのように開く。見ているはずも、感じれるはずもないのに開いた傘の白い波に范無咎は飲まれた。
 差された傘の下に一人ぽつんと謝必安が佇む。
「どう、したの」
「あなた、最近無咎と仲がいいですね」
 逃げるように目の前から消えたというのに、その声には険がある。
「…やきもち?」
 こそりとエミリーは傘を差したままの謝必安を下から覗きみれば、謝必安はぐ、とその薄い唇をへの字に曲げた。
 分かりやすい反応にエミリーは口元に手を添え、小さく笑う。格好がつかず、謝必安は范無咎のように低く唸るかわりに、咳を二度する。
「だってあなた無咎のはな」
「心配しなくても、范無咎を取ったりしないわ」
 ふふ。
 エミリーは面白くなって、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いとる。そういうことかと納得した。
「お揃いがよかったのね」
「なんの話ですか」
「こちらの話よ。あなた達、本当に仲がいいのねえ」
「何を一人で納得しているんです。私にも分かるように、エミリー」
 笑いながらエミリーは席を立ち、謝必安には分からないように范無咎からもらった箱をポシェットへとしまうと扉へと向かう。
 エミリー、と背中から声が追ってきたが、痴話喧嘩は犬も食わない。足を止めることなく、エミリーは扉を開けて廊下へと出た。
「私、用事があるから失礼するわ。范無咎と仲良くね」
「ちょっと」
 伸ばした手が肩を掴む前に扉が閉まり、部屋には謝必安と、それから范無咎の魂が宿る傘が残される。
 言いたいことは一片たりとも伝わっていない気しかしなかったし、何か勘違いをしたまま立ち去られた気がした。
 謝必安は左手に持った傘を腕に抱え、口を曲げる。
「無咎、あなたエミリーに何を言ったんです?」
 傘から返事があるはずもなかったが、かわりに小さくかたりと震えて音を立つ。
 謝必安は疲れ切ったように寝台に仰向けになって倒れ込み、震えた傘をなでた。視界に広がる木目に深い溜息をつく。そして独り言つ。
「別にあなたが羨ましいわけじゃありませんよ。最近彼女あなたにばかり会いにくるから、少し」
 少し。
 謝必安は傘を撫でる手を止める。
「嘘。とても、羨ましかったです」
 目を閉じ、謝必安は寝返りを打つ。体の上から寝台の上に転がった傘の柄を指先でなぞっていく。
 あなたもでしたが、と謝必安は頬を膨らまし、むすくれる。
「鈍いですよねえ。なんで気付いてくれないんでしょう」
 私ばかり怒っています。
 謝必安はそうしてもう一つ溜息を吐いた。