怒り

 顔の前で手が勢いよく合わせられる。診療所代わりの自室には、ゲーム後の利用常習者、見慣れた顔ぶれが揃っていた。
「頼むよ、先生!」
「嫌よ」
「せんせー!」
 ナワーブは懇願を繰り返し、合わせた手のひらの向こうから、上目遣い気味にエミリーへと視線を送る。その隣では、ひょっこりと天眼の持ち主が笑顔を添えていいじゃないですか、などと無責任な発言をする。続いて、ノートンが磁石を手の中で弄びながら、ちらちらと視線を送っている上、所在なさげにというよりもなぜここにいるのか分からないとばかりにイソップが出入り口付近に佇んでいた。
 先生、とナワーブはなおもねだる。それにエミリーは頭を押さえて、深い溜息を吐いた。
「いやと言ったら、いやよ。やらないわ」
「ちょっと!ちょっとでいいから!この間の女子会ではやったんだろ!」
「あの、時はエマにお願いされたから」
「お願いしますなの!」
「口調をまねないで。その口を縫い付けるわよ」
「すみません」
 エマの口調を真似たナワーブに絶対零度の視線が向けられ、一切の容赦無く叩きつけられた言葉にナワーブは背筋を伸ばした。
 あのね、とエミリーは集まっている面々に説くように言葉を続けようとした。しかし、その前にナワーブがそれを遮り、再度手を強めに叩いて依頼のポーズを決める。
「見せてくれたら、次のゲームは全員無傷で帰るから!俺も囮になって飛ばされたりしねーし!四逃げするから!先生!」
 その言葉にエミリーは続けようとした言葉を飲み込む。非常に魅力的な言葉である。
 なにしろ、今目の前でねだっているナワーブ・サベダーは自らを盾にして、犠牲にして皆を逃すので、ゲーム終了後は生傷が絶えないし、梟で耐えられるからとイライ・クラークも引き付け役をよく担当し、こちらも傷が絶えない。ノートン・キャンベルに至っては、磁石で風船に吊られた仲間を救助するため、負傷状態でもハンターに向かっていく上、寡黙なためか治療もこちらが気付かなければ放っておくような悪癖がある。扉前に佇むイソップ・カールは最初こそハンターの目を逃れるために隠れるのは一級品だが、救助にいくとなれば、納棺しているからと傷を負うことを躊躇わない。そして彼もノートン同様、治療に来ない。
 だからこそ、ナワーブの言葉はエミリーにとってこれ以上ないほど魅力的に聞こえた。実際に魅力的であった。怪我をして欲しくはない。
「本当?」
「おっし!マジだって!な」
 同意を求められ、イライは穏やかな表情のまま首を縦に振り、後ろのノートンも二、三度首を縦に振ってみせた。動きのないイソップへと視線をやれば、小さく首を傾け同意を示す。
「もし、怪我をしても治療に来てくれるわね。キャンベルさん、イソップくん」
「いいですよ、先生」
「先生が、そう、言うなら」
 治療をサボる二人の言質を得て、エミリーは少し考え、諦めの溜息を落とした。
「わかったわ。一回だけよ」
「やりい!」
「というより、なんでそんなの見たいのよ…見てもいいことないわよ」
「いやいや、やっぱ見たいじゃん。普段そういうことしねー先生がそういうのしてくれるの興奮する」
「興奮しないで」
 エミリーは靴を脱いでベッドに上がる。本当にするのかと、再度ナワーブへ視線を送れば、期待に満ちた、子供ように目をきらきらと輝かせている。
 見せるだけで彼らが治療を受けるのであれば安いものであるし、怪我をしないで無事に帰ってきてくれるのであれば、それに越したことはない。仕方ない。
 エミリーは柔らかなベッドに横たわる。それだけで恥ずかしく、頬に血が集まる。片足を軽く立たせれば、スカートが腿に向かってさがり、普段見せない白い脚が衆目に晒される。突き刺すような視線に、エミリーは動きを止めたが、やると言った以上は最後までやりとげると意味のわからない決意に押され、人差し指と中指で唇に触れる。恥ずかしい。これ以上するのは、躊躇われるほどに恥ずかしい。
 指先の動きが止まる。視線が集中している。
 ゆっくりと指を離し、唇に添えていた指を男性陣へと投げ、どうしようもない羞恥に襲われながら最後にゆっくりと手を振る動作をした。しようと、した。
 ぎ、とベッドが軋む。
 振ろうとした手は握られている。明るかった視界が傘の影で覆われて、一瞬で暗くなる。
 がらん、と激しい鐘の音が部屋に響き渡る。
「范、う」
 続け様にもう一度。苛立ちを隠しもせず、鐘が鳴る。
 突如姿を現した白黒無常に部屋にいたナワーブたちは慌てて踵を返し、部屋を逃げ出ようとするも、一度目の鐘の音で膝が床をつき、続け様の二度目に立ち上がろうとしたのを止められ、再度立つよりも早く、鋭く傘が突き出され、診療所であるはずの部屋に屍が四体できあがる。
 ゲーム内でないため、攻撃の威力は緩和されず、強烈な一撃にそれぞれが床で呻いていた。梟は窓枠で呑気に羽を繕っている。
「あの」
「黙れ」
 怒っているのは、言葉など聞かずとも、その表情と纏う空気で理解できた。
 エミリーは自身の軽率な行動を恥じる。俯いたその顎が乱暴に捕まれ、力任せに顔があげられる。思わぬ行動に、見開いたエミリーの視界に、金色の、あからさまな怒りを滲ませた瞳が写し込まれた。
 噛み付くように唇が合わせられる。長い舌が口内に潜り込み、怯えて逃げた小さな舌をからめ取り、吸い上げる。呼吸すらも、何もかもが食われるような口付けにエミリーは思わず目を瞑った。鼻から呼吸するもそれでは間に合わず、酸欠で頭がくらくらとし始め、口を開ければ下しきれない唾液が顎を伝う。口付けの、唾液が混ざり合う音が閉ざされた部屋に響く。
 閉じた目をわずかに開き、エミリーはそこで視界の端に床で倒れるナワーブたちを見る。見て、いる。八つの目が向いている。
 ぎょ、と体が強張り、范無咎を突き飛ばそうと手を出すが、容易く手首は絡め取られ、腰に押し付けられて、自由を奪われる。言葉を発そうにも、口腔内は蠢く舌で一杯で、合わせられた唇からは声を出すこともかなわない。
 見られてる背徳感に体が羞恥で震える。肌に突き刺さる視線に、思考が錯乱する。
 なぜか、口内を這う舌の動きひとつ感じ取ってしまい、じりじりと背骨を叩いて上がるような感覚に視界がくらくらと歪んでいく。痺れるほどに舌を吸われ、最後に下唇を軽く噛まれる。金の瞳が、分かったかとばかりに視線を奪い取っていく。
 は、と息をつく頃には、体の力はすっかりと抜けきり、頬は上気し、涙ぐんだ瞳は艶めかしい色香を放っていた。
 スカートがたくしげられ、先程よりももっと際どく、足の付け根が見えそうなほどに露わになる。
 そこで范無咎は手の動きを止め、ベッドから立ち上がると転がるサバイバーの首根っこを引っ掴むと部屋の外へと放り投げる。四人全員部屋の外へと追い出し、戸口に体重を預け、痛みに呻きながら見上げるサバイバーを見下ろす。
 生憎だが、と前振りがなされる。
「ここから先は、必安と俺だけだ」
 扉は激しい音を立てて閉められ、最後に鍵が落とされる音が響いた。
 ナワーブは閉ざされた扉を見、それから同じように殴られた場所を押さえている悪さを共にした仲間へと視線をやる。痛いのは、きっとそこだけではない。

 医生、と幾分柔らかくはなったが未だ苛立ちが込められたままの声音が降り注ぐ。仁王立ちで影を作る范無咎の顔をエミリーはまともに見れなかった。
 エミリーは反省の意も込めてベッドの上で正座をして首を垂れていた。ごめんなさい、と消え入りそうな声で謝罪すれば、なおも燻る感情を押さえ込むような溜息が深く吐き出される。返す言葉もなく、エミリーは小さくなる。少なくとも、三十を超えた大人の取る行動では決してなかったし、淑女とは到底言えぬはしたない振る舞いであった。
「なんだ、あれは」
「その。新しく追加されたモーションで。見せたら、みんな無傷で帰ってきてくれると…治療も、大人しく受けてくれるって、その。言ってくれて」
「馬鹿か。いや、馬鹿だったな」
 再度溜息が溢される。一体何度目になるのか見当もつかない。
 范無咎はそばにあった椅子を引くと乱暴に腰掛け、カルテが置かれた机に肘を乗せ、エミリーを睨みつける。
「医生」
「はい」
 もはや何を言っても言い訳にしかならず、言い訳ではあるのだが、エミリーは大人しくその叱責を受けた。ひとつ、深い息が吐かれ、苦々しく言葉が紡がれる。
「何かあればどうするつもりだった。俺とていつもいるわけではない」
 いいかとエミリーが何かを言う前に、范無咎は言葉を続ける。
「お前が考えているよりずっと男は短絡的だし、お前は、」
 うぐと范無咎は口を噤む。しかし、整えた髪をぐしゃぐしゃにしながら、一度は飲み込んだ言葉を紡ぎ直す。
「魅力的だ」
「え」
「二度とするな」
 いいなとやはり返答を聞く前に范無咎は傘を広げてその中に溶けてしまった。白い波の中から傘を受け取り、謝必安がエミリーの前に姿を現す。ぐしゃぐしゃになってしまった髪を編み直すため、髪紐をほどき、器用に結い直していく。
 そして、目を瞬いているエミリーを見てふふと笑った。
「どうしたんです、そんな顔をして」
「いえ、その。なんでもないの」
「おやおや、妬けてしまいますね。無咎は、あなたになんて言ったんです?教えてくださいな」
 手早く三つ編みを終え、髪を背に流し、謝必安はエミリーの横に腰を下ろして、范無咎が触れた唇の上に自身の唇を重ねた。