掃除屋

 多分それはただの気まぐれだったのだと、誰かが言った。
 兎角、二つの魂を一つの傘に宿らせているハンターは面白くなかった。面白くないという表現は些か寛容に過ぎず、正直に言えば不愉快だった。本日の試合戦績に、完全勝利、それも四吊りを五連続ベスト演繹という輝かしい記録を残してなお、不愉快であった。
 不愉快の原因はすでに知れている。深い溜息を謝必安は肩を落として吐き、その長い体を寝台に預けた。西洋風の天井が視界に広がる。窓からは暖かい陽射しが差し込み、鳥の歌声が響いている。その柔らかくあたたかなそれとは裏腹に、心中は決して穏やかではない。
 私は温厚な方なのですが、と謝必安は独りごちた。寝台に同じように寝かせている傘を撫でさする。
「無咎」
 傘に宿る魂を呼ぶ。当然のごとく返事などあるはずもない。それはいつものことなのだが、やはりそのように習慣づいて声をかける。
 ごろりと寝台の上で寝返りを打ち、そしてまた反対側に転がった。綺麗に結わえた三つ編みが動きに合わせて、寝台の上を這って回る。何度転がれども、気が晴れることはなく、ただ暗澹たる陰鬱な気持ちが泥のように広がるばかりである。
 エミリーが参戦している試合を、丁度他の試合も入っていなかったので観戦していた。
 ハンターは写真家ジョゼフ。隠れてはいたものの、目敏く見つけられ、開始早々椅子に座らされていた。写真世界が終わると同時にダウンし、起死回生を使って立ち上がる。暗号機三台分までは、普通の試合だった。三台分までは。
 二人飛ばされ、次にオフェンスを追いかけ始めたジョゼフが剣を振るう。一撃入れ、もう一撃。それもまあ普通であった。ただそこからだった。当然通電していないのだから、引き留めるも発動しておらず、エミリーが救助に来た。恐怖の一撃を失敗し、危機一髪をつけた二人がそれぞれに蜘蛛の子を散らしたように逃げる。先にオフェンスに一撃。トンネル成功。
 次にエミリーを追う。追い詰め、剣を大きく振りかぶる。大きく振りかぶったのがよくなかったのかも知れない。その一瞬の隙を狙ってオフェンスがタックルに走る。突き飛ばされた体はそばに置かれていた木材に当たり、そのままバランスの崩れた木材が逃げ惑うエミリーに襲い掛かった。さながら、さながらそれはまるで窮地に陥った姫を助けるかのように、それを剣を持つ手で振り払う。
 姫を助ける王子のようである。
 観戦でそれを眺めながら、胸がぎうと締め付けられるような感覚を覚え、思わず手で押さえる。結局、ジョゼフは痛みのため剣を持つことができず、その試合はハンターの投降で幕を下ろした。
 エミリーの様子を見に伺えば、部屋にはおらず、さてはてどこだろうと考えて、彼女の行動を予測すると、自身を庇ったがために負傷した写真家のところではないかという結論に至る。そしてその予想は当たる。
「かっこよかったわ」
 透き通るようなその声は、敵意もなく悪意もない。まるで春の日差しのようなあたたかな囀り。恋する乙女のような響きである。ころころと、耳に届く。そう言った彼女の横顔を垣間見れば、ああなんということだろう。そんな気を許した顔をして。
 なんて。ああ、なんて。
 ぐるりとどろどろしたものが、腹に溜まる。
 こちらに気付くことなく、救急箱を抱えて部屋を出て行ったその背中を、右手に包帯を巻いた、彼女が巻いた包帯を右手にした写真家が追いかけていく。そして、再度先程の言葉を求める。そこから先の会話は頭に入ってはこなかった。
 そうして腹に一物を抱えたまま、謝必安は寝台に転がっていた。
「私だってかっこいいでしょう」
 ねえ、無咎。
 傘を撫でながら同意を求める。
「今日は、四吊りですよ。暗号機だって三つも残っていたんです。読み合いだって勝ちました。ベスト演繹です」
 すごくかっこいい。
 サバイバーに慈悲をかけたことなどなく、膝をつかせたサバイバーが目の前を独楽のようにくるくると回転しても、暗号機の前に落としたり、見逃したことなど未だかつて一度もない。試合開始早々、遊園地でジェットコースターに乗って遊び始めたサバイバーなど、コースターが到着した瞬間に殴り飛ばし、恐怖の一撃を入れた。なお、滑り台も滑っている最中に殴れば恐怖の一撃が入る。
 初手が傭兵でもなんの問題もなく、自慢の射程距離で地面を舐めさせることだって容易い。無咎と協力すれば、サバイバー泣かせの救助狩りなどお手の物である。
 四逃げなど未だかつて、一回以外はさせたことがなく、勝率は九割以上である。
 かっこいいではないか。
 ただし、肝心の彼女からそれについて褒められたこともその姿を賛美してもらったことは一度もない。すごい、と言ってもらえたことはあるが、かっこいいはない。
 それをなんということか、あの写真家にはああも容易くいうのだから。腑に落ちない。写真家といえば、あの写真機で集合写真を試合中に撮ったり、たまにというよりよく優鬼をすることで有名で、月下の紳士など姿を見ればサバイバーが一応優鬼かどうか確認に行くくらいである。もっとも、彼らの基礎となるジョゼフが優鬼をするのはあまり見たことはない。
 フランス男の、彫刻のような顔のことを言っていたわけではなさそうなので、顔の造作の話をしていることはない。
「私だって、かっこいいですよ」
 とん、と謝必安は傘をそっと叩き、不貞寝を決め込もうとした。
「なんの話」
 かけられた声に頭の天辺から足の爪先まで衝撃が走り、謝必安は無咎を抱きかかえて寝台から跳ね起きた。
 そこに立っていたのは、エミリー・ダイアーその人である。
 どこか、気分が良さそうである。驚きで一瞬頭が真っ白になるも、すぐに不満が頭をもたげた。自分に向けられるのは、いつもの顔である。
「私、今日五連勝したんです」
「そうなの」
「ええ。通電もさせませんでした」
「あなたがゲームに出ると、通電しても気が抜けないものね」
 いつもの話し方。いつも表情。いつもの声。
「読み合いにも勝ちましたし、救助狩りも完璧でした。ベスト演繹も取ったんです」
「あなたと読み合いで勝つのは難しいわ。あなたの救助狩りにはいつもナワーブくんが泣かされているもの。その調子だと范無咎も大活躍だったのかしら」
「エミリー」
 普段となんら変わらぬ。特別でない。話を聞いているだけ。
 ふつり、と感情がざわつく。
「なに」
 穏やかな顔に、先程の色は含まれていない。ずるい。ずるい。ずるい。
 ずるい。
 エミリーは自身の手が大きく骨張った手に包まれるのを見る。なんらおかしいことはない。謝必安は手が触れ合うのを好む。するすると指先を、指の間を、付け根を余すことなく撫でさするように指の腹が擦っていく。美しい絹糸を三つ編みに形づくる紐が片手で解かれ、重力に従って手の中に収まる。
 甘えるように頭が肩口に乗せられ、額が何かをねだるように押し付けられた。まるで猫のようである。だから、エミリーは気付かなかった。気付いたのは、包まれていた手が後ろ手にその長い布で拘束された時である。
 きゅ、ときつめに括られ、エミリーはそこでようやっと手が縛られたことに気づく。
「謝必安?解いて、もらっていいかしら。ちょっと、よく、分からないのだけれど」
「分からなくて結構です」
 すげなく、間髪入れず言い返し、謝必安はぐりぐりとその肩口に額を押し付ける。深い溜息をこぼして、寝台にエミリーをうつ伏せに倒し、抵抗しようともがくも後ろ手に縛られているため、芋虫のように蠢くしかできない様を上から眺め下ろす。
 細い足がスカートから二本のぞき、それが音を立てて暴れる。ずり上がったスカートは割と際どいところまでずり上がり、数日前につけた内腿の鬱血痕が見えた。その痕を爪先でなぞり、ぐいと押せば、慌てて両脚は閉じられ、人魚のように横たわる。
「あの」
「なんです」
「怒っている、のかしら」
「怒って」
 怒っては、いない。
 謝必安は口先を尖らせ、范無咎のように呻いた。
「私は、あなたになにかした?」
「ええ」
 髪をかき揚げ、その白い頸に吸い付くと真新しい痕を残す。そして、丁度耳の下あたりにも同じように唇を這わせ、先程よりもきつく吸い付いた。痛みにエミリーの体が小さく跳ねる。濃い、虫刺されなどではない、一見して所有痕とわかる鬱血がくっきりと残る。頸に残した痕とは異なり、髪をかきあげずともそれはすぐに目につき、長めのタートルネックでも隠せない。
 流石のエミリーもそれに気付いたのか、非難めいた声を上げる。
「なにをするの」
「別に、いいでしょう。何か問題でもあるんですか」
「問題は、」
「問題はありませんね」
「ある、わ。あるのよ。私そんな、だって」
「いいじゃありませんか。誰につけられたか聞かれたら素直に答えたらよろしいでしょう」
 あなたの。
 謝必安は僅かに言い澱むが、はっきりと口にした。
「あなたの、謝必安が付けた、と」
「言えるわけ、」
「言ってください」
 服では到底隠せない場所に吸い付き、痕を残していく。逃げ惑う時に見える柔らかな脹脛に。転げた際に覗くケープから覗く内肘に。治療を施す際に見える手首の内側に。
「言って、ください」
 体を半身起こしたエミリーの頭の両側に手をつき、謝必安は圧迫するようにそう繰り返した。
 エミリーは唾を一つ飲み、少し前にした質問をもう一度尋ねる。
「怒っている?」
「怒ってません」
 そう言うわりには、視線は合わず、まるで悪戯がばれて叱られているような子供の態度に、エミリーは口を曲げ、肩を落とす。
 普段息をするように嘘を吐くくせに、何故かこういう時の嘘はどうにも下手で、すぐにばれてしまうようなものを吐くのだから、なんとも憎めないところではある。
 エミリーは頭を軽く回して、覗き込むように謝必安と視線を合わせる。
「嘘よ。怒っているわ」
「怒ってません」
「怒っているわ。なんなら范無咎に聞いたっていいのよ」
「無咎を引き合いに出すのは卑怯ですよ」
 かっとなった謝必安は声を荒げ、眦を吊り上げる。その剣幕にエミリーは一瞬怯むものの、視線を逃すことなく、まっすぐに謝必安を見つめた。視界に写った顔がだんだんと情けないものになっていく。尖った耳が、その感情を表すかのように下がり始めた。
 しょんぼりとしたその表情に、エミリーは後ろ手に縛られた手を揺らす。
「解いてちょうだい」
「いやです」
「謝必安」
「いやです」
「ねえ、私はどうしてあなたに縛られなければならないの」
 完全に眉尻が下がり切り、ぐすりと鼻を啜ったハンターにエミリーは溜息まじりにそう告げた。口先を尖らせた謝必安にエミリーはもう一度その名前を呼ぶ。
「ねえ、謝必安」
「だって」
 怒っている、というよりは拗ねているという表現の方が近いのだろうかとエミリーは思う。
「あなた、かっこいいって」
「え」
「ほら、そういう反応をする。だから言いたくなかったんです」
「ちょっと待って。待ってちょうだい」
「いやです」
「待ちなさい」
 少しきつめの言葉を選び、エミリーは険を含めて声を発する。解いて、と求めれば、渋々と言った様子で手首を戒めていた髪の結わえ紐が外された。
 手首をさすりながら、エミリーはその内側についた痕から視線を逸らし、傘を抱えて壁の方を向き膝を抱えてしまった謝必安の背に声をかける。
「さっきの、ジョゼフとのことを言っているので、合っているかしら」
「はい。お世辞ではなかったでしょう」
「お世辞じゃないけれど」
「お世辞じゃないんですね」
「もう」
 私だって、と謝必安は口先を尖らせ、傘を抱きしめる。
「頑張ったんです。なのにあなたときたら、全然褒めてくれない」
「褒めてもらうためにハンターをしているわけじゃないでしょう。大体あなたに狩られる側なのに、どうしてかっこいいなんて発言に繋がるの。私はいつも怯えながらあなたから逃げているわ」
 まったくの正論を広げるが、謝必安は背中を向けたまま、変わらず拗ねている。
「この間鬼没が決まった時だってありました」
「鬼没が決まってダウンさせられたのは私よ」
 かっこいいも何もない。
「鬼没は難しいんですよ」
「難しいのはわかったけれど、どうして問答無用で殴られる私がかっこいいと思うの」
「強い男はかっこいいと傭兵が以前言っていました。空軍も」
「少なくとも、今私の前で膝を抱えて拗ねているあなたはかっこよくないわ」
「ほら!そういうことを言う!聞きました?聞きましたか、無咎。今の心ない一言!」
「ならなんて言うのよ!」
 子供のように言い返す謝必安にエミリーは思わず反論し、そして額に手を添え、息を吐いた。落ち着かねばならない。
 解かれた髪は水のように寝台に湖面を広げ、その長身が動くたびに波立つ。一度はこちらをみた顔も、再度傘を抱えて壁の方へと向かってしまった。素直な意見を述べるならば、面倒臭い、である。しかしエミリーはねえ、とそのいじけて拗ねて丸まった背中を叩く。ぐす、と鼻を啜る音。
「私は、あなたが、かっこよくても、かっこよくなくても、いいのよ」
 とん、とその背中に体を預ける。
 鼻を啜る音が小さくなっていく。ちらりと肩越しに顔が覗いたのをみた。エミリーは困ったようにはにかむ。
「それは、そんなに大事なことかしら」
 背に添えた手首の内側につけられた鬱血痕に、エミリーは唇を乗せ、綻んだ笑みをその顔に浮かべた。ああと謝必安は口の中で言葉を転がす。
 なんてずるい。
 そうして、その細い手首をとって、それに重ねるように口付けた。