幽閉の恐怖

 兎角、必安はもてた。
 パウンドケーキを口に放り込み、リスのように頬を膨らませながら范無咎はそう言った。
 それを飲み込もうとして喉に詰まらせたのか、胸を二三度叩いて無理矢理嚥下すると、通りをよくするため、アイスティーをあおって最後まで飲み下す。
 エミリーは范無咎の言葉に、紅茶を片手に開いていた医学書から顔を上げる。
 謝必安と異なり、所作が荒っぽい范無咎は、大股を開いて一人掛けのソファに腰かけている。ソファの前のテーブルにはもうひとセット、ケーキの用意がされていた。
 フォークを揺らしながら、范無咎は話を続ける。
「だが、振られるのも早かった」
「それは私が聞いてもいい話なのかしら」
「お前が医学書ばかり読んでいるからだ」
 もう一切れ残っていたパウンドケーキにフォークを突き立て、范無咎は大口を開ける。
 興味があるだろうとばかりに范無咎はもくもく口を動かしつつ、パウンドケーキを平らげていく。後から謝必安も食べるのだから、少し食べすぎではないだろうかとエミリーは思いつつも、とうとう手にしていた医学書を閉じ、范無咎へ膝頭を向ける。
 話を聞く姿勢を見せたエミリーに、范無咎は機嫌をよくし、紅茶を片手に持つ。
「一週間もてばいい方だ」
「随分と短いわね」
「しかも振られる際の文句は八割方一緒だった」
 それは壊滅的に短い。
 しかし、エミリーは少々疑問を感じ、首を傾げる。
「なぜ?彼は別に暴力的ではないし、あなたのように粗暴でもないわ。礼儀正しく、彼女にはとても優しかったんじゃないの?」
「今の話の流れで、俺が引合いに出される理由は解せんが、まあいい。医生、確かにお前の言うとおりだ」
 半分ほど残った紅茶をカップを揺らしながらその表面を眺めつつ、范無咎は目を眇める。
「必安は優しかった」
「振られる要素が見当たらないわ」
「まあつまりそう、とどのつまり、優しすぎたんだ」
 必安は。
 范無咎は残っていた紅茶を底が見えるまで飲み干す。ティーカップの底には鮮やかな絵が金を交えて描かれている。それから目線を外し、カップをソーサーに戻した。
 また振られました、と困ったように笑いながら酒を片手に眉尻を下げる必安を思い出す。目を閉じれば、その光景は、表情はなによりも鮮明に思い出せる。
「誰にでも、分け隔てなく優しいその姿勢は、どうにも女共には耐えれんかったようでな」
「特別の一人になりたかった」
「不安になるんだと。何でも我儘を聞いてやって、誠実に対応している姿も、特別ではなかった。誰が言っても、同じようにするんだろうと、そう言われていた。まあ多分、そうなんだろう。おい、食べんのならそいつもよこせ」
「どうぞ」
 エミリーの机に置いていたパウンドケーキをフォークで指し、范無咎は差し出されたそれを受け取り、舌先で唇を舐め上げると、旨そうに続きを頬張っていく。
 俺も多少嫌がらせを受けた。
 范無咎はそう続ける。
「あなたに嫌がらせを?命知らずね」
「女子供に暴力を振るう趣味はない。あいつらから見れば、俺の方が余程必安の特別に見えたそうだ。俺から見れば、充分に特別扱いしているようにも見えたが。上から馬糞をぶちまけられた時なぞは、流石に温厚な必安も烈火の如く怒った」
 べそべそと泣きながら、すみませんと謝り髪を洗うのを手伝うその姿は、本当に申し訳なさそうで、范無咎は気にしていないと繰り返すもあまり耳には入っていないようだった。結局その馬糞をぶちまけた女とは、珍しく必安の方から別れを告げていた。
 かちゃ、とフォークの先が皿と当たって音を立てる。
「必安は分け隔てなく優しい」
「聖人君子のように聞こえるけれど、どうしてかしら。私が知っている彼とは随分かけ離れているように感じるわ」
 エミリーが知る謝必安は、確かに温厚で礼儀正しい。けれども、時に我儘で、意見が通らなければ駄々をこねるようなところがある。
 范無咎が話すような、聖人君子のような、完璧な人間像をどうにもエミリーは描けなかった。
 その言葉を聞きながら、范無咎はティーポットから紅茶を注ぎ足す。
「結局のところ、告白してきた女共はそういう必安を望んでいたんだろうよ。だから、必安もそういう風に振る舞った。悪い癖だ」
「それで、どうしてこの話を」
 察しが悪いとばかりに范無咎は眉間に皺をいくつも寄せ、軽蔑するような視線をエミリーへと送る。その視線に、居心地が悪くなり、エミリーは体を軽く引く。
 范無咎は小さく嘆息し、フォークを加え、ぶらぶらと揺らす。
「てっきり、必安はもうお前に手を出したものだと思っていた」
「とんでもないこと言わないで」
「とんでもないか」
「そうよ」
 はっきりとそう言い切ったエミリーをフォークを咥えたままで范無咎は無言で見据える。
 何も言わずにそのまま時間が過ぎるものだから、エミリーはたじろぎ、向けられた視線から逃げるように顔を背けた。
「とんでもない、か」
 同じ言葉が繰り返される。纏う空気が変わったのを察し、エミリーは唾を飲む。
「だって」
 波だった気持ちを落ち着かせるように、腕をさする。
「分からないのよ」
 視線を床へと落とし、エミリーはぼやく。
「私にだって、彼氏がいたこともあるわ。でも、結局医者としての仕事の方を優先してしまって、相手の期待になんて応えられなかった。恋愛ごとなんてそんなことより、大切なことが、沢山あった」
 君は、俺のことなんて本当はどうでもいいんだ。君はいつでも仕事のことばかりだ。
 そう、付き合った男性からはよくそう言われた。
 そういうわけではなかった。忙しい中時間を割いて、相手と合わせて、それでもどうしても医者として譲れないことはあった。行きつく先は言わずもがな、破局である。或いは自然消滅か。
「分からないのよ」
 同じ言葉を繰り返す。
 気付けば隣にいた人の姿はなく、別れ話の前にウェディングカードが送りつけられていたことも何回かあった。幸せにねと笑って、結婚式を見に行ったこともあった。
「エミリー」
 かけられた声に、エミリーは驚愕して体を大きく震わせる。それは先刻までいたはずのハンターの声ではない。
 顔を上げれば、いつの間に代わったのか、黒い傘から滴を滴らせて、穏やかな笑みを浮かべている白いハンターがいた。
 必要のないことを話してしまったと、エミリーは羞恥で耳まで真っ赤になり、顔に熱がこもるのを感じた。軽く手をかざして視線を遮るように顔を隠し、再度下を向く。
「ごめんなさい、忘れてちょうだい」
「いいえ、忘れてあげません」
「忘れて」
「いいえ」
 エミリー、と謝必安は俯いた顔の横に頬を摺り寄せ、耳に唇が触れるか触れないかの位置に添える。
「余程、男の方が見る目がなかったと見える。あなたはあなたで、いいんですよ。私は、医生としてサバイバーを治療するあなたがいいです」
 柔らかく甘い声が鼓膜を震わせ、吐息が耳朶に絡みつく。
「あなたが、私をハンターでいいと言ってくれたように」
 これは劇薬だ。
 エミリーは咄嗟に息がかかった耳を押さえて背を伸ばす。椅子には、謝必安の両手が傍らに添えられている以上、どこにも逃げようがない。両手で作られた檻は頑強で、ちょっとやそっとでは壊れることはない。さらに距離を詰められ、エミリーは肩を寄せ、身を縮める。
 ここに、ナワーブはおらず、誰一人として先日のように間に入ってくれる人はいない。唇を固く引き結び、目をきつく閉じて、エミリーは身を固くした。
 真っ暗な視界の中で、穏やかな声が耳元で響く。
「無咎があなたに何を話したのか、見当は付きます」
 おずおずと目を薄く開き、エミリーは眼前のハンターの表情を確かめようとする。しかし、見えるのはその絹糸のような美しく、結わえられた毛髪のみであった。
 甘い声はまだ耳元で囁かれる。
「無咎は私をよく知っていますが、私について一つ勘違いをしている」
 握りしめた拳が震える。
 表情は見えないが、少なくとも、その口角がゆるりと持ち上げられたような気がした。エミリーは、引き結んだ唇がおそれで小刻みに震えるのを抑えきれなかった。
 薄い笑みを刷いたまま、謝必安はエミリーの首筋に唇を寄せる。
「周りに群がる蠅が、どうにも鬱陶しくて」
 唇が、頸動脈に、触れる。
「無咎にも色目を使ったりして、とてもとても、気持ちが悪かったんです」
 歯が、当たる。
「あれらは、私たちを知ろうともしない。都合の良い理想ばかり押し付けて。吐き気がした。だから、甘やかしたんです。なんでも言うことを聞いてあげて、有象無象と同じ扱いをして」
 痛みと共に、寒気が背筋を駆け抜けた。
「無咎と同等なんて、烏滸がましい」
 皆、口を揃えて言うんですよ、と謝必安は体を離して微笑んだ。冷たい、冷たいそれだった。
 エミリーは唾を嚥下し、目を開けてその顔をしっかりと見た。
 嗚呼、聖人君子とは程遠い。
「無咎ばかり、と」
 あなたと一緒ですね。
 謝必安は今度は穏やかに微笑んで、そう告げた。つまり、彼が言いたいことは。
 開いた瞳に、死を弔う色を映し込んだ瞳が映り込む。互いの瞳の奥を覗き込むほどの距離で、引き結んでいた唇に薄い血の気のない唇が押し付けられた。
 瞳のもっと奥、何もかもを覗きこまれるような恐怖に、エミリーは目を咄嗟に閉じる。
 それを同意の合図と受け取ったのか、柔らかな丸みのある両頬を挟み込むように手が添えられ、合わせられた唇を舌先がつつき、開けるように求められる。
 どうしたらいいのか、何が正解なのか分からないまま、エミリーは唇を僅かに開けた。そこから舌先が潜り込み、奥へと逃げ込んだ舌を絡め取り吸い上げる。喉奥から前歯の裏までの口蓋をなぞり、呼吸がままならず、互いの唾液が口の中で混ざり合って、嚥下しきれないものが、口端から零れる。
 貪られた舌が痺れ、酸欠でくらくらと眩暈を覚え、体の力が抜けていく。両頬を掴む手に絡みついた手は縋りつくだけのものになっている。
「は、ぁ」
 下唇を軽く噛み、名残惜しげに謝必安はエミリーから離れる。唾液が糸を引き、ぷつりと切れた。
 口端から顎へと滴る飲みきれずに落ちた唾液を親指で拭い取る。困惑しているエミリーに謝必安はただただ、穏やかに、優しげな、他意のない笑みを向ける。
「私、こう見えて実は結構意地悪いんですよ」
 無咎には内緒です。
 そう言って、ハンターは長い爪で赤く、柔らかな唇をなぞりながらひっかいた。

 傘から姿を現して見た光景は、エミリー・ダイアーが机に突っ伏している姿だった。
 何故そうなっているのか、理解できず、范無咎は一度テーブルへと視線をやる。そこには、必安のためにと用意されていたパウンドケーキがなくなった皿が一枚残っている。
「どうした」
 声をかければ、突っ伏していた体は小さく震え、首を小さく横にふるう。
「なん、でもないわ」
「そうか」
「ねえ」
「なんだ」
 ソファから立ち上がったところにかけられた声に、范無咎は動きを止める。机に突っ伏した顔はどんな表情をしているのか覗き見ることはかなわない。
 エミリーは顔を机に押し付けたまま、呻く。そして、ゆっくりと顔を上げた。その表情に、范無咎は息を詰める。
 ぞっとするほど、蕩けている。頬は上気し、瞳は濡れ、誘っているようにすら見える。
 范無咎は反射的に目を逸らし、傘を広げた。
「すまん」
「え、ちょっと」
「すまん」
 傘がくるりと回り、范無咎は自室へと体を飛ばす。
 そして、謝必安は誰もいない部屋で傘を畳み、寝台へと腰を落とした。言葉こそ交わせないが、動揺は伝わってくる。
 嬉しげに眼を細め、謝必安は傘へと頬を寄せる。
「ふふ、無咎。エミリー、とてもよい顔をしていたでしょう。興奮しました?」
 私もです。
 変わらず返事はないものの、それで十分で、謝必安は労わるように傘を掌で撫でた。