閉鎖空間

 穏やかな笑みをハンターはその顔に浮かべていた。
 一見菩薩のようなその笑みの下には、持てる術をすべてを使い切ったサバイバーが転がっている。
「すみません、エミリー」
 謝必安は、失血に喘ぐ医師にそう微笑みかけた。

 壁の影からナワーブが救助に走る。椅子に縛り付けたエミリーは、少し離れたところで待機していた謝必安の影に気づいており、その顔が一瞬でこちらに振り返ったことに気づく。
「ハンターが近くにいる!」
 咄嗟に叫ぶも、すでにナワーブの体は壁から姿を現していた。
 ナワーブはエミリーの叫びに、他のサバイバーを狩りに向かったはずの白黒無常の顔がこちらを向いていることを感知した。しかし、遅い。
 白無常か。
「くそ!」
 咄嗟に足を止めるが、ハンターの手が空にあげられる方が早い。どのハンターより早く、その長い体が近接する。間に合うかとナワーブは一度止めた足を、無理矢理前に放り投げ、体重を前方にやる。しかし、エミリーに手が届くよりも早く、脱力感が全身を襲う。救助ができない。吸魂。
「私のことはいい!行って!」
「ちっくしょぉ、すまん!」
 ナワーブはきりきりと痛む心臓を押さえ、救助失敗を悟り、すぐに逃げに転じる。肘当を使い、一気に距離を取る。たとえ白無常の足がいかに速かろうが、この距離は詰めることができない。
 救助失敗にナワーブは自身の実力不足に歯噛みした。
 ぞわ。
 寒気が、瞬時に全身を支配する。逃げる方向を、読まれていた。
「くたばってろ」
 黒く長い三つ編みが視界の端で揺れる。黒い傘がくるくると回り、雨が滴り落ちる中現れた黒無常に、しまったと後悔するころには、大きく鐘が鳴り響く。
「あっ、が」
 動きが制約される。足がもつれる。眩暈とともに方向が分からなくなる。
 顔面に傘が突き出される。鼻の骨が折れる。体は跳ね飛ばされ、地面に転がった。
 まだだ。
 ナワーブは立ち上がろうとするが、まだ体は思うように動かない。犬のように這いつくばったその姿勢で、上から傘が打ち下ろされ、背骨が軋む。
 あまりの痛みに、視界に火花が散った。
 救助こそ失敗したが、こちらを追いかけている間に、エミリーが救助されたことに気づき、ナワーブは小さく口角を持ち上げる。
 体は風船に吊り上げられ、椅子に縛り付けられる。ご丁寧に、救助者が入ってくる通路に監視者を各一体ずつ設置して、白黒無常はゆっくりと傘を構える。揺れている暗号機を探している。
 は、とナワーブは脳天を突き抜けるような痛みをこらえながら、嘲りを込めて鼻で笑う。
「今回は、俺達の勝ちだ」
「ほざけ」
 まだ、探している。その姿が傘に溶けて消える。
 暗号機はまだ二つ残っている。
 初回の椅子なので、今回は九割救助になるかもしれないと、ナワーブは息を大きく吐き出し、痛みを殺していく。この程度の痛みは、大したことはない。
 痛みに慣れておかねばと、浅い呼吸を繰り返し、ナワーブは目を閉じて最後の救助のために体力を温存する。
 しかしその直後、砂利をはねた音に顔を上げた。
「ダイアー先生」
「今助けるから、じっとしていて」
 乱れた髪に、受けた傷を治すことなく、自身の救助に来たエミリーにナワーブは焦りを滲ませる。おそらく、彼女はカートに救助され、まっすぐにこちらにかけてきたに違いなかった。
 ナワーブは縄を解くその指に血が滲むのに、顔を顰めた。
「先生、先に自分の怪我を」
「大丈夫よ。イソップくんが私をゲート付近で納棺してくれている。吊られても、戻ってこられるわ。さあ、治療を」
「先生!」
 ナワーブは咄嗟に、それは本当に咄嗟に、エミリーの体を突き飛ばした。
 そんなはずはないと、傘から現れたその姿に愕然とする。さっき、こいつは反対の端にある暗号機へととんだ。証拠にカートがダウン状態になっている。無傷であったカートがダウンになるとすれば、窓や板を乗り越えるときに、恐怖の一撃を喰らったに違いない。
 この短時間で、もう一度こちらに戻ってこられるはずがない。
「このバグ野郎…ッ」
 黒無常から円を描くように、調整が発生する。突き飛ばした衝撃でうまく調整ができず失敗する。それでもナワーブは黒無常の一撃からエミリーを庇う。
「逃げろ!」
 肺に溜まっていた空気を全部吐き出すかのように喉を震わせる。続けて突き出された一撃に体は宙を舞い、直近にすえられていた椅子に頭からぶつかった。
 椅子に座らされるのかと、ナワーブは覚悟したが、范無咎はダウンしたナワーブを無視し、負傷箇所を押さえて逃げるエミリーを追った。
「待て!くそ!待てよ!」
 這うことしかできず、ナワーブは地面に拳を叩きつける。
 起死回生はすでにダウン放置された際に使ってしまった。立ち上がれる方法は中治りのみである。しかし、暗号機を回しているのは現時点においてイソップのみ。
 暗号機は、まだ、一台、残っている。
 額を地面に擦り付けるようにして、這いずって前へと進む。壁の隙間から、逃げたエミリーの体が血を飛ばして地面に伏したのが見えた。
「先生!」
 いや、とナワーブは考え直す。
 エミリーはイソップが納棺している。ならば、ハンターが彼女を椅子に座らせた瞬間、その体は溶けてゲート前である。あとは、イソップの解読が間に合えばいい。それだけの時間は、充分に経過している。
 今、解読が終了したとしても、それからゲートに追いつくには時間がかかる。
 間に合う。
 ナワーブは一縷の望みを託す。しかし、その思いは非情に打ち砕かれた。地面に転がしたエミリーを黒無常は拾わなかった。
 そのかわり、足をこちらへ向け、ゆっくりと歩き、ナワーブの体を風船で吊り上げ、傍に在った椅子に括り付ける。半分。
「くそ、くそ!この!」
「せいぜい足掻け、虫けらめ」
「てめ…ッ、」
 足をばたつかせるが、括り付けられた椅子から逃れるには、他者の手を借りる以外の方法はない。
 エミリーとカートはダウン、イソップは暗号機を回している。せめてこちらに救助に来てくれれば、解決策も考えられた。まだ、イソップ・カールは一撃も攻撃を受けていない。
 ナワーブ自身も、椅子から救助されれば、まだ動ける。少なくとも、ダウンの一撃を喰らったところで、痛みをこらえて逃げる選択肢ができた。
 がん、と通電の音がゲーム場に鳴り響いた。
 瞬間、エミリーが立ち上がる。中治りの人格を付与していた。
 九割。
 壁の隙間から、エミリーが姿を現す。イソップはゲートへ向かったか、カートの治療に向かったかは分からないが、ナワーブは黒無常の長い腕の隙間をかいくぐり、椅子に伸びたエミリーの指先が椅子に触れるのを確認した。
 早く。
 はやく。
「想定済みだ、医生」
 中治りがあろうがなかろうが、范無咎には関係なかった。その瞳に紅い地獄の炎が揺らめいている。
 引き留める。
 縄を引き千切る。その瞬間だった。傘がエミリーの背中を抉った。
 ナワーブは眼前で、その体が大きく曲がり、椅子の横に叩きつけられたのをまざまざと見せつけられる。
「先生!」
「ご、めんなさい」
 医師は痛みに強くはできていない。血反吐を吐いて、その場に蹲るエミリーにナワーブは歯噛みする。
 くそ。
 椅子が発射される。カートが立ち上がったのは、最後に確認した。
 救助活動において一番面倒くさい傭兵を飛ばし、くるりと范無咎は周囲を見渡す。エミリーは納棺されているため、椅子に座らせても意味がない。むしろ、勝利への障害となる。
 す、と傘を構える。方向は、先程治癒の通知があった付近のゲート。そして、謝必安が見た、「あれ」のそば。
 ゲートの鍵に触れていた男の姿を確認する。足が地面に着いた瞬間に、直近の二名の行動を阻害する。まずは、冒険家へ一撃。傘をすりあげ、逃げようとした納棺師の背中をなぐように一撃。
 オールダウン。
 謝必安は、先に冒険家を椅子へと座らせる。乱暴にではなく、しごく丁寧に。
 そして、ゲート前まで歩いて戻り、失血の苦痛に喘ぐ納棺師と、その視線の先にある棺へと顔を向ける。薄く、細く、長く、息が吐き出される。その呼吸は冷たく、氷の粒が落ちるようだった。
 イソップ・カールはただ自身の前に佇む、恐怖の塊に歯の根がかみ合わず、身を震わせる。
 威圧感と、それから、自身を見下ろす視線の冷たさのなんたることか。
 ちらりと前髪の隙間から、暗がりの中で自身を見下ろすその瞳を見たのが間違いだった。呼吸が一瞬にして止まり、恐怖で心臓が、何もかもが押し潰される。喘ぐ声すら忘れ、恐慌状態に陥った体は機能不全へと陥る。吐き気がこみ上げ、消化しかけの朝食がマスクから零れ、地面を汚す。
 怖い。
 それは、本能的な恐怖だった。
 イソップは身を守る術を持たず、ただ無言で佇むハンターに過呼吸を起こす。ひゅ、ひゅ、と呼吸がままならず、息をただ吸い込み続け、吐き出すことができない。
 数秒、しかしそれは永遠の時のように思えた。手足が痺れ、もはや這いずることもできない体が風船に括られ、少し離れた椅子にくくられる。ゲートが遠ざかる。
 きつめに、椅子に縛り付けられる。
 ぼんやりとした頭で、イソップは椅子の前に立つ、白黒無常を見た。それは、きっと今日の悪夢となろう、そんなものだった。
 謝必安はあと僅かで失血死するエミリーの前に戻る。
 エミリーはぼやけた視界の中で、ハンターが穏やかな顔をしているのを知った。
「すみません、エミリー」
 だって、あなた棺に納められている。
 謝必安としては我慢ならなかった。
 まだ納棺師は飛んでいない。故に椅子に座らせれば、その瞬間、彼女はあの棺から意識を取り戻す。つまり、あの男の手によって作られた、エミリーが息を吹き返す。
 しゃがみ、今確かに目の前で倒れ伏すエミリーの頬を愛おしげになぞる。このエミリーは、謝必安の知るエミリーであり、その体である。ささくれ立っていた心が、ゆっくりと穏やかなものへと落ち着いていく。
「また後ほど」
 エミリー・ダイアーは死んだ。

 深く、深くイソップ・カールは息を吐いた。
 傭兵が先ほどの試合の後、実力足らずだったと頭を下げていたが、イソップにとってそれは至極どうでもよいことであったし、極力人とは関わり合いになりたくなかった。
 庭のベンチに腰かけ、木陰の隙間を縫うように吹く柔らかな風に目を閉じれば、木々のささめく音が心を落ち着ける。
「イソップくん」
 何の予告もなくかけられた声にイソップは椅子から飛び上がりそうなほどに驚いた。咄嗟に体はベンチの隅まで逃げるように移動した。
 目を開けば、そこには先程のゲームで納棺した人物が佇んでいる。
「ダイ、アー先生」
「折角納棺してもらったのに、ごめんなさい」
「いえ。あれは、」
 言葉がうまく出てこず、イソップは目をさまよわせ、膝の上で握りしめられた手へと視線は落ちる。もごりと言葉にならない言葉を呟く。
「ここ、いいかしら」
「…どうぞ」
 イソップが座った反対側のベンチにエミリーは腰を落ち着ける。
 いったい何の用だろうか、できるならば今すぐにでも立ち去ってほしいあるいは立ち去りたい衝動に駆られながら、イソップは目を白黒させる。人と空間を共有するのはひどく苦手である。
 小さく呻きつつ、イソップは身を守るように二の腕に爪を立てた。
「気持ちがいいわね」
「そう、でしょうか」
「ええ。ピクニックにはぴったりよ」
 何の脈絡もない会話が続けられる。ぼそぼそと返答にもなっていない返答をイソップは繰り返し、ちらりと視線をベンチの端に座るエミリーへと向けた。
 朗らかな笑顔が向けられている。気分を害してはいないようだった。
「そういえば、あなたの納棺の技術はすごいわね。以前他のゲームで納棺されていたマーサを見たけれど、生き写しで驚いたわ。今にも、動きだしそうなほどだった。素晴らしい技術だわ」
 エミリーの言葉に、ぱっとイソップは顔を上げる。
「そう、なんです。分かってもらえることは、少ないけれど、あれはとても難しい技術で誰にでもできるわけじゃ」
 イソップは堰を切ったように言葉を溢れさせる。納棺師としての技術を嬉々として語りつくす。いかに繊細な技巧で、技術の粋を凝らしているのか。
 五分ほど休むことなく語り続け、イソップはふと我に返り、口を噤む。慌てて視線を床に戻し、付けているマスクを上に引き上げた。余りに恥ずかしく、耳まで赤く染まる。
「すみません」
「いいえ、勉強になるわ。あなたのおかげで、私は憂いなくナワーブくんを助けに行けた。ありがとう。それを言いに来たのよ」
「僕の、これが、その」
「ここ、よろしいですか」
 どくん、と一際高く心臓が跳ね上がり、イソップは恐怖に全身を硬直させる。
 この気配を覚えている。先のゲームでの、あの、恐ろしいほどに冷たい視線もなにもかも、一目見れば納棺する対象を描けるだけの眼を持っているイソップは、その光景をいやというほど鮮明に思い出した。
 断りはしたが、声の主は、返答を待つことなく、エミリーとイソップの空いている間に腰かける。
 木陰の中に一つ、大きな傘がくるりと回った。イソップは顔を上げることができない。
「先程のゲームでは、お世話になりました。あなたの納棺の技術、拝見しました」
 怖い。
 こわい。
 恐ろしい。
 柔らかい言葉とは裏腹に、向けられている視線は例えようがないほどに冷たい。声音が、すべてを物語っていた。イソップは腕をつかむ力を一層強くする。体が震えるのを止められない。
「素晴らしい技術ですね。感嘆しました」
「あら、あなたもそう思う」
「ええ。納棺されたあなたを、見ましたから」
「私も見たかったわ」
「今にも動き出しそうでしたよ」
 呑気な会話の中に混ざる鋭い殺意にイソップは唾を飲み込む。冷や汗が背中を伝い、ズボンを湿らせる。
「次回は、ご自分を納棺された方がよいかもしれませんね」
 ひやり。
 イソップは前髪の隙間から、ゆっくりと隣に座るハンターの顔を見る。穏やかな笑顔が浮かべられている。笑顔であるというのに、その目は、ひとかけらも笑っていなかった。
 ゲームの時と同じ顔である。
 彼女はその表情に気づいていない。ハンターの背中しか、彼女は見えない。それともあるいは。
「あら。でも、納棺してくれたから救助に迎えたのよ」
「でもあなた、無咎に殴られていたでしょう。流石は無咎です」
「救助のタイミングを合わされたのは痛かったわ…あれで救助が成功していたら、ナワーブくんが逃げて勝算も生まれたのよ」
「私の方が一枚も二枚も上手、ということですよ。エミリー」
「そういえば、あなた、どうやって諸行無常をあんな短時間でだしたの?」
「ズルをしたわけではないですが、企業秘密です」
 和やかに先程のゲームの話がなされている。
 気持ちの悪い空間だとイソップは、体の震えを押さえられない。
 あまりにも奇妙な。
 それは、なんと講評すべきか分からない。おそろしい獣が前に座っているのに、一つ向こうに座っている彼女はそれに気づかず笑顔で会話を続けている。
 爪を、心臓につきたてられている感覚にイソップは呼吸すらままならない。
「ねえ、イソップくん」
 唐突に振られた会話にイソップは顔を上げた。ひどい顔をしている自覚はあった。
 顔からは血の気が引き、呼吸は乱れ、冷や汗が噴出し、指先はどうしようもないくらいに震えている。そんなイソップを見て、エミリーは慌ててベンチから立ち上がった。
「大変。顔色が悪いわ」
「いえ、いえ!」
 近寄らないで。
 化け物が、そこに。
「エミリー」
 す、とエミリーとイソップの間に手が差し込まれ、それ以上の接近を妨害する。
「彼の様子は私が見ています。あなたは、白湯と治療道具を持ってきてください」
「でも」
「彼が倒れたら、私が運びますから。あなたでは運べないでしょう」
「そう、そうね。イソップくん、少し待っていて。すぐに戻ってくるわ」
 待って。この化け物と二人きりにしないで。
 イソップはエミリーに手を伸ばした。伸ばしかけた。その手は、ゆっくりと長く骨ばった手に絡め取られる。何かに引きずり込まれるような感覚に、イソップは息を詰めた。
 医師の背中は建物の中に消えた。
 さて。
 穏やかな声の中に差し込まれた殺意に近い感情が溢れだし、足元から全身に駆け上がっていく。
 白黒無常はハンター然として、イソップの前に座っている。
 指に痛みが鋭い痛みが走る。絡み取られた指が、ゆっくりと曲がるべき方向とは逆に力が込められていく。
 指はイソップにとって商売道具であり、納棺するにあたって必要不可欠なものである。
 ゆっくり、ゆっくりと、軋ませるように指へと負荷がかかる。
「イソップ・カール」
 目が、かち合う。
 細められた瞳から、目が離せなくなる。
「覚えました」
 指が離れる。
 一瞬にして隠された殺意と、救急箱と白湯を片手にエミリーが戻ってくるのをイソップは視界の隅で捉えた。