孵化効果 - 2/2

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 本日から二週間に渡り、白黒無常は全てのゲームについての参加の禁止並びに謹慎。
 通達された事項に激怒した謝将軍は、傘に引きこもってしまった。
 最後に見たのは、胸ぐらに掴み掛かり米神に青筋を立て、あまりの怒りに口もきけなくなっていた姿である。こうも怒り狂った姿を見たのは久く、腹の底が疼いたが、その表情を見た謝将軍はすぐに手を離し、傘に溶け込み今に至る。
「そう腹を立てるようなことだったか。君も加わりたかったのか。しかし協力狩りでは、背中を預けることはできないだろうに」
 寝台に立てかけた梅花を散らす傘はうんともすんとも言わない。
 ここ数日、酒やら肴を出して機嫌を取ろうとしてみたが、返事も反応もなく、当初は飄々としていた范将軍も、次第にわずかな焦りを見せ始めた。
 謹慎ということも相まってか、部屋に訪れるものは誰もおらず、執事が食事のみを運んでくる。
 静寂は嫌いではない。
 椅子に座り本を読み。剣を握ることは許されず、気の置けない朋友も臍を曲げてしまい相手をしてくれない。
「退屈は、人を殺すか」
 いつぞやの会話を思い出し、范将軍は独りごつ。
 長時間同じ姿勢でいたためか、固くなってしまった関節を鳴らしながら立ち上がる。肩を、首を軽く回しながら、いつの間にか随分と高いところに登ってしまった太陽を窓越しに眺めた。
 全体の中に、動くものを見つける。
 鳥でも兎でもない、青の上衣に白の帽子を被った姿に范将軍は窓を外へと押し開けた。
「虎よ」
 空気を揺らした低音に、小さな影が止まり、そして振り返る。
 二つの瞳がこちらを向いた。捉える。
 右手を窓の外へと出し、手招きをする。謹慎を守る従順さについて、元来男は持ち合わせていなかったが、決まりとして通達されたものであったことと、傘に引きこもった相方の機嫌をこれ以上損ねることを考慮し、窓枠を乗り越えて庭先へと出ることはしない。
 小柄な姿は片手にバスケットを持って、手招きをする男へと警戒心を見せずに近付く。
 エミリー・ダイアーは顔を上げて、視線を合わせた。
「こんにちは、范将軍。なにかご用かしら」
 恐れも怯えもない姿からして、傭兵ナワーブ・サベダーから話は聞いていないと范将軍は考えた。
 目を眇め、口元をゆるりと持ち上げる。
 自然な動作で窓枠から手を伸ばして、范将軍はエミリーの脇を掬い、軽々と持ち上げた。悲鳴も抗議も上がらなかったが、瞳は大きく驚愕で見開かれ、瞬きをする。
 いつものように片腕に抱えて、視線を合わせる。
「いやなに、暇を持て余していた。いつぞやだったか、虎よ。お前の話であったろう。退屈は人を殺すと。つまりだ、俺はとても退屈なのだ。退屈は人を殺すとはよく言ったものだと、今重々に理解している」
「謝将軍はどこへ」
「ううん。兄弟は少し臍を曲げてしまっている」
「珍しい。喧嘩でもしたの」
 范将軍の言葉にエミリーは驚きを込めて反応し、そして考え直し、言い換える。
「なにをして怒らせたの」
「喧嘩ではないのか」
 開けていた窓を閉める。
 外から内へと、ゆっくりと歩を進めながら、范将軍は問いかけに対して平然と答えた。
「喧嘩というのは互いに争うことを指すのだけれど、そうねえ。范将軍。あなたは怪我をしていないし、何かに怒っているようには見えない。何より、あなたたちは喧嘩ならすぐに終わりそうだもの」
「成程。よく分かっている」
「仲裁なら他所をあたってちょうだい。謝将軍は私の話に耳は傾けないでしょうし」
 話なら聞けるけれど、とエミリーは最後に付け加える。
 腕に抱えた重みと温もりはちょうど良かったが、近くの椅子に深く腰掛け、膝の上へと乗せ直す。膝の上に乗せられたバスケットが軽く跳ねた。柔らかなクッション性のある背凭れへと体重を預ける。
 范将軍は膝の上に乗せた体が落ちないように、或いは逃がさないかのように、輪を作るようにして腕を手前で組む。
 あまりにも自然な動作で落ち着いてしまった互いの位置に、エミリーはあの、と声を上げる。
「椅子に、座らせていただけるかしら」
「知っているか、虎よ」
 決して脅すような口調ではない。
 いたって穏やかに、范将軍は腕に抱え込んだ獲物へと語りかける。
「俺はな、よく謝将軍と話す」
 告げられた言葉の意味が理解できず、エミリーは怪訝そうに眉根を寄せた。范将軍はその様子を気に求めずにゆるゆると続ける。
「耳とな、口の位置が近いから、よく聞こえるのだ。互いの言うことが。頭ひとつ分くらいであれば、そう問題ないのだが、頭二つ三つだと、声が聞き取りにくい」
「そう、なの」
「そうだ。固い脚で悪いが、我慢してもらえるか」
 謝将軍と話す時と比較すれば聞き取りにくいというのは、嘘ではない。真偽の判断など、当人以外につけようがない。
 虚実を絶妙に混ぜ込み話をするのは、難しいことではない。
 范将軍は肘をついて、軽く頭を傾げて悠然と笑みを浮かべる。
「故に虎よ。お前を抱え上げるものよいのだが」
「あ、いいえ。それは、結構。ここで。ここでいいわ」
「そうか。遠慮はいらんぞ。心配するな、大した重さではない」
「重さのことを口にするのは、デリカシーがないわ」
 テンポの良い会話の応酬を楽しみながら、范将軍は視線を横へと滑らせる。その先にあるものは、やはり微動だにしない。
 遠慮などしていないと、エミリーは首を強く横に振った。
 范将軍は柔らかな膝の上に乗せられたバスケットへと視線を落とす。それに気づいたエミリーは、自然な動作で蓋を開ける。
 バスケットには花を模した細工が施された、色とりどりの練り切りが並ぶ。
「美智子さんから頂いたの。故郷のお菓子だそうで、これは豆でできているのだそう。信じられる?とても驚いたわ」
「月餅も餡の原材料は豆だな」
「ええ、それ。豆といえば、料理に使う印象しかなかったから、お菓子に使うという発想がなくて、本当にびっくりしたの。それによく見てちょうだい。芸術作品のようで、食べるのが勿体無いほど」
 子供のように目を輝かせ、嬉々として話すその姿に、范将軍は喉を鳴らしながら頷いてみせる。その反応にエミリーは冷静になり、耳まで赤くしてバスケットの蓋を閉じ視線を膝頭へと落とした。
 どうした、と范将軍は反応の意味を理解しながら声をかける。
「いやだ。とても美味しくて、珍しかったから、子供のようにはしゃいでしまったわ」
「問題でもあるのか」
「私をいくつだと思っているの」
「いくつでも関係あるまい。愉しいと思うことを分かち合い、愉しいと告げ表すことは、とても良いことだ。そこには年も性別も身分でさえも不問とされる」
 心を軽くする一言に、エミリーは顔を上げる。
 自身の考えを改め、そして同意の言葉を返そうと口を開こうとし、しかし口元は引き攣って止まった。
 視線の先にある男の穏やかな笑みに、安易に同意することは、何故だろうか、漠然とした不安に襲われる。エミリーは同意よりも先にふと、疑問が口をついた。
「先程あなたは私に暇を持て余していると言ったけれど、それは、最近ハンターとして姿を見かけないことと関係があるのかしら」
「聡いお前も嫌いではないが、それは俺に聞いてよかったのか」
 錫色の肌に浮かぶ二つの金が不穏な空気を孕み歪められる。
「言ったろう」
 ああ、言ったとも。
 愉しむことは、憚られることはではない。
「分かち合い、告げ、表すことは、とても良い、と」
 体を支える指先が腹回りを滑らせていく。布が引き連れ、寄れる。革製のベルトの下、下腹部の臍に人差し指の腹がはまった。薬指から下三本は、臓器が収められた下腹部を軽く叩く。
 逃げようとした視線を力を使わずに、絡め取り、歪めた瞳に動揺を孕んだ面が取り込まれた。
 細い首の喉が上下に動き、腹に触れた指先から緊張が如実に伝わる。
 思わず、舌舐めずりをする。
「さて、理由だったか」
「考えなしの行動の結果のせいだろうが」
 ざぶ、と頭の天辺から濡れない雫が大量に溢される。陰陽の傘が金梅を散らしながら回る。
 月の光を溶かした白銀に、宵よりも深い闇が混ざり、絡まることなく滑り落ちた。苛立ちを多分に含んだ視線に、范将軍は頬を滑った水滴を払って、嬉しげに笑う。
「笑うな、不快だ。誰のせいで、二週間の謹慎を受けていると思っている」
「俺のせいか」
「他にあるか」
「ううん、君のせいだという可能性もあるぞ。俺は鬼事を楽しんでいただけだからな」
 謝将軍の目尻が痙攣し、しかし怒鳴ることはなく、伸ばした手はエミリーの襟首を掴み、猫のようにひょいと持ち上げる。
 バスケットは范将軍の膝の上に落ちた。
 反論を待つことなく、エミリーは招かれた窓から同じように、今度は反対に放り出される。両足が地面についてから襟首は離されたために、尻餅をつくことはなかった。
「ちょ、と謝将軍」
「帰れ。これ以上、謹慎の要因を作られてたまるか」
「いえ、その」
「従え」
 有無を言わさぬ威圧に、半歩後ずさる。
 バスケットを返して欲しかっただけだったが、肌にひりつくような感覚を覚え、エミリーは押し黙り、引き下がった。
 エミリーは開かれた窓に背を向け、小走りでその場を後にする。
 足音も気配も消えたころ、范将軍はバスケットの蓋を開け、中に入っていた和菓子を手に取り、大口を開けて口に放り込む。
「可哀想になあ。これだから君は」
「笑いながら人の臓腑を引き摺り出した男の言葉か。それが」
「鬼事の最中の出来事ではないか。そう目くじらを立てんでもよかろう」
「そのせいで、ここで、暇を持て余すことになっているのだろうが。気が狂う」
「あれらも楽しんでいるのだから、俺も楽しんでいいとは君も思わんか。ああそうだ。君も楽しめばいい」
「永遠に謹慎させられたいのか」
 謝将軍の呆れ果てた声と表情に、范将軍は一拍間をもたせ、そして薄く、不敵に笑った。
「退屈など殺してしまえばいい。なあ、兄弟」