狗に厭く

 先日の一件以来、心なしか謝必安に乱暴に抱かれるようになった。乱暴に、というよりは執拗に、というべきか。今までが執拗でなかったかと言われれば答えに詰まるところだが、明確な意図を持って抱き潰されている。
 エミリーは腰の痛みを和らげるように摩りながら、仕事道具が詰められたバッグを取ると中身を片手で確認していく。
「大丈夫ですか」
「誰のせいだと思っているの」
 雨傘から水の臭いを滴らせて現れたハンターにエミリーは反射的に毒吐いた。毒吐くだけの権利はある、と昨晩から空が白むまでねちっこく抱かれたことを思い出し、肩をいからせる。
 そんなエミリーの横を抜けて、謝必安は椅子を引くと腰を優雅に下ろす。サバイバーの体のサイズに合わせた椅子はハンターには当然低く、長い足が窮屈そうにしていた。
 謝必安は穏やかに微笑む。
「勿論あなたのせいですよ」
「私の?今日、私がゲームに出られないはあなたのせいよ」
「何故です。最後まで私の上で淫らに腰を振っていたのはあなたではありませんか。こう、前後に揺らして、奥に擦り付けながら」
「なッや、めなさいッ」
 細腰を小さな椅子の上で艶かしく動かす様子に、エミリーは顔を真っ赤にして怒鳴る。その動揺に味をしめたかのように笑みを深めつつ、謝必安は己の腹を指先で臍下へとなぞり下ろしていく。
 指が止まる。
 そこには男には腸が詰まっているだけの位置である。女には、子宮がある。
 小首を傾げて、指先で下腹部を往復するハンターの姿にエミリーは羞恥から全身をわななかせて、拳を握りしめた。
「謝、将軍だって、そんな失礼なことはしないわ」
 いや、するかもしれない。
 謝必安の反応などはストンと頭から抜けて、エミリーは自身の発言を振り返る。あまりにも聞き捨てならない発言に、つい引き合いに出したが、彼も大概な男である。
 しかしよく考えれば、言葉で嬲られる前に手を出される方が先なのかと思い至り、あながち間違いでもないと結論を出す。ひどい結論であることを論議するまでには思考が回らない。
「は?」
 エミリーが自身の失言に気づいたのは、普段よりもワントーン低い声と、嘘でも張り付いていた笑みが落ち、静かな怒りを湛え、横一文字に引かれた唇を見た時だった。それとは対照的に、エミリーの口元には引き攣りぎこちない愛想笑いとでも表現すべきものが浮かぶ。
 失言どころの話ではない。
 しかし、思い出したくもない痴態を揶揄ったのは目の前のハンターであり、その子供じみた嫌がらせをしたのは紛れもない事実である。少しばかりの反撃をしても、自業自得と言うものではないかと、考えを一瞬改めかけるが、冗談抜きで、骨の髄から凍らせるような苛立ちを隠そうともしない謝必安に、その考えを捨てる。
「ごめんなさい。失言ね」
 素直に謝罪するのが一番の解決策とばかりにエミリーは頭を下げた。
 それに、謝必安は傘の持ち手を緩く撫で摩りながら、エミリーをひたと魂の奥まで覗き込むように見つめる。
 突き刺すような視線にエミリーは居心地の悪さを感じる。しかし、足は床に縫いとめられたかのように一歩たりとも動かすことができない。動くことは許されなかった。二つの紫紺が引き留めるかのように爛々とある。
 ごく、と唾を嚥下する。
「何が、失言なのです」
「将軍の名前を出したことよ。比較するのは、あなたにも将軍にも失礼だったから」
「東風遙がそんなにいいので?」
 立ち上がった拍子に、謝必安が座っていた椅子が倒れて大きな音を立てた。エミリーは音に反応し、全身を震わせる。
 何か反論をしようと口を開きかけたが、それは先に揺れた長い影に頭から食われる。
「あの男の後にあなたを抱くと、形が変えられていて嫌なんですよね。奥まで、覚えさせるように揺すっているのだと思うと非常に不愉快でして」
 何を言っているのか、何を意味しているのかは容易く理解でき、普段であれば羞恥に顔を赤らめて反論するが、しかしエミリーはそれができなかった。
 白い三つ編みが左右に揺れる。向けられた瞳には、嫉妬と呼んでも良いのかどうか躊躇われる感情の渦が、ただただ汚泥のように溶け込んでいる。
「無咎であれば分かりますが、どうしてあの男を覚えるんですか。その上先日は、あの男に魂を触れることさえも許している。あなたの魂は私と無咎だけのものだと言うのに、そのように梅香を染み付かせて受け入れてどういうつもりなんです」
 全身が総毛立つような感覚に囚われ、足元が覚束なくなる。
 エミリーは唇を上下に動かすが、言葉はうまく出てこず、からからに乾涸びた喉からようやっと出てきた声は情けなく引き攣れていた。
「謝必安、あなた怖いわ」
 拒絶の意思を薄く引いたその言葉に、張り詰めていた空気が端から凍りついていく。
 一歩、距離を詰められる。詰められただけの距離をエミリーは下がろうとしたが、ハンターの一歩は大きく、エミリーの下がった一歩はその三分の一に過ぎない。後わずかにでも動けば、体が触れ合う距離まで詰められる。
「私が?怖い?」
「詰めないで」
「詰めてなどいませんよ。そう思うのであれば、それはどこか後ろめたいことがあるからなのでは。詰められるようなことをした覚えが?例えば、私たちに言えないような」
「言いがかりはよしてちょうだい」
 息継ぎもなく淡々と続ける謝必安をエミリーは眉間に皺を寄せ、少し声を荒げて遮るも、長い舌は口腔内で動き言葉を紡ぎ続ける。
「それともなんですか。私には教えられなかったことを、まさかあの男には教えたとでも言うんですか」
「ちょっと」
「どうなんです」
 矢継ぎ早に問い詰められ、エミリーは答えに窮する。そして、答えを伝える前に覚えた頭痛で、米神に手を添える羽目になりながら眉尻を下げて唸る。
 失言をしたのは間違いないが、要らぬところに火が点いた。延焼する前に、火元を叩くか、周りを囲ってしまう必要がある。
 エミリーは言葉を慎重に選ぶ。
 口を開くと同時に、黒に散らされた金梅が脳裏を過ぎった。喉が乾く。
「何も、教えていない」
「ああ、エミ」
「今は」
「どう言う意味です。私に教えないと言ったことを、連中には教えると言う意味ですか。私と無咎に教えないことをどうして」
 格好をつけたことをエミリーは認めた。
 垣間見せた安堵の表情から、一瞬で焦燥と苛立ちが滲んだそれに切り替わったハンターから視線を逸らす。
 自分の罪は自分のものだなど、根本はもっと浅ましい。単純に、知られたくないだけである。目の前の、互いのためならば命を捨てられる儚く誠実な存在に、ただただ知られたくないだけである。
 知られたくないという感情と向き合えば、それは彼らを受け入れて以来、胸に抱えてきたものに名前をつけることになる。この荘園という異常な閉鎖空間で芽生えた、根底すら怪しい感情ものに、である。
 頭の中で、追い立てるように繰り返し響く犬の遠吠えがうるさい。
「エミリー」
 肩に伸ばされた手に、エミリーは全身を強張らせた。
 しかし、その指先は泥のように溶け落ちる。
「無咎、今は」
 梅香が漂う。
「この」
 芳しいそれは、片割れに替わる合図ではなく、謝必安は視線を落とし、持っていた傘が自身の傘ではなくなっていることに気付くと、忌々しげに端正な顔を歪めたが、床の波紋に引き摺り込まれるようにして姿を変えた。
 黒絹が露を払う。
「難儀な」
 嘲笑うかと思っていた男は、普段のように揶揄うことはせずに、ただそう告げた。
 笑わないのかと反論する気力もなく、エミリーは以前に范将軍が口にした言葉を思い出す。
 あれは随分と優しい男だ。
 エミリーは眼前に立つ、決して好ましくは思っていない男へと視線を上げた。
 いつ見ても変わらず端正な面立ちがそこにある。切長の瞳、まなじりに朱色が化粧されており、金の瞳の下には光の加減で花が散らされているのが分かる。絹のように美しい射干玉は金冠で一つに纏められている。戦場で剣を振っていたためか、厚みのある体躯ではあるものの、極端な筋肉質という訳ではなく、しなやかで美しいラインである。
 端的に言えば、やはり美しい男なのである。その性格について言及さえしなければ。
「なんだ」
「なんでもないわ」
「礼の一つも言えんのか。私の度量が海のように広くとも、礼を失するのは如何なものかと思うがな」
 前言撤回である。
 エミリーは上げた好感度を一気に下げた。美しければ何を言ってもいいというわけではないし、変わらない横柄な態度には辟易するしかない。
 しかし助けられたのは悲しきかな事実である。
「ありがとう、謝将軍」
「それだけか」
 そういうところである。
 先程までの雰囲気はどこへ行ったのか、エミリーがよく知る傲慢で自尊心に満ち満ちた高慢な笑みがそこにあった。
 最初見たものは幻だったのか、しかしエミリーは小さく笑った。
「あなたは聞かないの」
「くだらん、聞いてどうなるものでもあるまい。そう悩むならば、あれは止めておけ。あれはお前の一挙一動を縛るぞ」
 傘の先端でコツと床を叩き音を立て、謝将軍は呆れたような薄笑いを浮かべて、肩を揺らす。
「そう」
「聞いて欲しいならば聞いてやろうか。褥で」
 謝将軍は軽く首を傾けて、口角を上げると鼻を鳴らした。質の良い白絹に黒が滑る。分かってやっているのだから、性質が悪いとしか言いようがない。エミリーは、目を細めて、苦言を呈す。
「下品よ」
「は、どちらが。私のを覚えていたのはお前だろう、虎。あれが怒り狂う程度には、しっかりと覚えていたようだな」
「あなたのそういうところ、本当に嫌い」
「あれにもそう言ってやればよかろう。甘やかすからつけ上がる」
 そう告げながら、謝将軍は傘を開いた。傘の内側から黒い雨粒が落ち、その体が目の前で溶けていく。どこかへ移動するのであろう、他の誰かに替わる様子はなかった。
 傘の下、雫が落ちる合間にエミリーは嘲りではない声を聞く。
「虎」
 あまり嫌を示すな。
 その言葉は水滴に吸われたが、確かにエミリーの耳に届いた。しかし、その言葉の真意を聞こうとした時にはすでにエミリーただ一人しか室内に残されてはいなかった。
 あれほど喧しかった狗の遠吠えは消えていた。