宴もたけなわ。
そういうには、少しばかり時を失していた。
ナワーブ・サベダーは眼前の燦々たるとまでは言わないまでも、酒にべろんべろんに呑まれた連中が参加者の半分近い状態を見て、肩を落とした。はあ、と溜息を溢し後頭部をしっかりと切った爪先でかく。
嘆息を溢そうとも、いくら嘆いても、酒臭ただよう現状が変わるはずもない。
ナワーブが、飲酒をしていない面子に声をかけようと顔を向ければ、すでに理解を果たした二名が立っていた。
「片付けはまた明日、みんなでしよう」
「ああ、そうだな。ヘレナ、お前一人で部屋まで帰れるか」
「はい。私、フィオナさんがお部屋近いので、一緒に帰ります」
フィオナ、とナワーブはイライに酒を飲まそうと今なお絡んでいる女の姿を横目で見て、一言、やめとけと口を曲げた。そう告げた瞬間、フィオナは糸の切れた人形のように、くったりとイライの腕の中に落ちる。
何が起こったのか、ナワーブは視界の端とは言え一部始終を見ていた。
イライは平然とした様子でフィオナの膝裏と背に手を回し、その柔らかな体を自然な動作で持ち上げ、やあやあと彼自身も少しばかり酔っているとわかる程度の明るさで三人に話しかける。
「ヘレナは僕が送ろう。フィオナも一緒に部屋に放り込んで、いやいや、寝かしつけてくるよ」
「放り込んで」
ひえ、とヘレナが最初の言葉をしっかり聞き取って繰り返したのを見て、イライは口元の笑みだけで返答とする。それ以上突っ込めば、次回の梟は期待できそうにない。
黙り込んだ三人にイライは不穏さすら滲ませた笑みを満足げなものへと変え、さて、と続ける。
「残りの人はどうしよう」
「男はこのまま寝かせといて平気だろ。あとは、トレイシーと先生か。パトリシアとウィラは一足先に帰ってんな」
「ツェレは?」
陽気に酔う踊り子の姿が見当たらない。
ナワーブの素朴な疑問には、マーサが答えを知っていた。
「彼女なら、ああそうだ。外で踊り始めて、そのまま酔いが回って倒れたところを、偶然通りかかったジョーカーが担いで部屋に連れて行っていた」
「誰の」
「いや、ツェレの部屋だ。私も一緒に行ったから間違いない」
残すはとナワーブ達は、広い宴会場で、未だただ一人酒瓶をケタケタと笑いながら仰いでいる女へと視線を集中させる。その腕にはすでに顔面から血の気の引いたホセがぐったりと吊るされている。
アルコール・ハラスメントである。
しかしそれを言って止めようなどとすれば、次の犠牲者になることは間違いないので、皆一様に静かに視線を逸らして、何も見なかったこととする。
「エミリーとトレイシーは私が連れて帰ろうか。往復はするが、ナワーブ、ここで見ていてくれないか」
「いや」
いや、とナワーブは繰り返す。
「俺が先生を連れて行く。マーサはトレイシーを頼む」
そう言うと、ナワーブは気持ち良さげにテーブルに突っ伏しているエミリーの体を軽々と抱え上げる。身長は然程変わらないが、その体重は筋肉量の差だけ軽い。
膝裏に手を通し、肘から手首にかけてその柔らかな尻を置いて、体の正面から預かるような抱え方に、酒も入っているせいか、イライの笑い声が弾ける。服越しとは言え、それはイライがフィオナを抱えている方法よりもずっと密着している部分が多い。
例えば、柔らかな二つの脂肪の塊など。
「ナワッ、ナワーブ、ひっう、ひい、君、その抱え方はないだろう」
「ないもクソもあるか。嘔吐した時に、吐瀉物が気管塞いだら死ぬだろうが」
真っ当な、裏も表もない、単純に効率のみを重視した回答に、笑ったイライは毒気を抜かれたように、へえと一つ笑いをこぼす。
「いやうん、君のそれもわからないでもないけど、邪推していいのかな、ナワーブ」
ふふ、とフィオナを抱えた状態で、口元をからかうように緩めたイライにナワーブは冷たい視線を送る。
「気持ちよく酩酊した先生を抱えた状態で」
その先を、ナワーブはよく知っている。
「白黒無常に会いたい奴はいるか。多分、先生の部屋にいるぞ」
時計を見れば、針はもう間も無く午前0時を指す。
ナワーブの言葉に、イライ含め、酒に酔っていない面子は静かに目を伏せる。わかりゃいいんだ、とナワーブは半眼でイライを睨み付ける。
それ以上話し込む必要はなく、ナワーブは皆がほろ酔いで気持ちが良い間にと会話を切り上げる。
「とりあえず、そいつらは頼んだぞ。俺も先生送ったらもう寝る」
そして、ひらりと手を振るとその場を解散した。
遅い。
謝必安はぐるぐると部屋の中を焦燥と共に歩き回っていた。
時計の針は間も無く午前0時を指す。
だと言うのに、待てど暮らせど部屋の主は帰ってこない。テーブルの上にはすっかり冷め切ってしまった茶と、食べられなかった茶菓子が寂しげに置かれている。この部屋を訪れて、かれこれ五時間は経過した。
夕食を終え、いつものように部屋に雨粒と共に溶け落ちれば、呆れたような顔と声で「また来たの」と言われると思ったのに、部屋は薄暗いばかりで、人の気配がない。
風呂だろうかと足を運んでみたが、そちらにはおらず、キッチン、図書館、倉庫、心当たりのある場所は全て足を伸ばしてみたものの、探し人は見つからなかった。
自分が来たと言うのに、なぜ部屋にいないのかと不貞腐れ、柔らかな羽毛のベッドに倒れ込み、部屋の天井の染みを数えてみたが、五十まで数えたところでやめてしまった。本棚に整然と並べられていた本の順番をめちゃくちゃに入れ替え、決まった場所に置かれている救急箱を、踏み台を使わねば手の届かない棚の上に置き、置き時計の針を二時間先送りにし、洋服ダンスの中を本棚同様にしまい場所を変えて、そこまでして、そこまでしても帰ってこない待ち人に、とうとう謝必安はすることをなくして、部屋を意味もなく歩き回る行為に落ち着いた。
「まさか何かあったのでしょうか」
ふと浮かんだ不吉な予感を、頭から振り払う。
何かあれば、少なくとももっと騒然としているはずである。そのような喧騒は聞こえず、むしろ何かしら明るい雰囲気すら感じられる。窓からジョーカーが踊り子を担いでいる姿を目撃したが、それは悪意のあるような行動には見えず、いっそその白塗りの顔には優しさすら浮かんでいるように見えた。
はてさて、それでは全く待ち人が帰ってこない理由に繋がらない。
謝必安は部屋の中を歩き回った、周回の回数を一回追加したところで、ふと数えるのをやめた。
足音である。
しかし、それは謝必安が聞き慣れたナースシューズのものではない。ゴム製の、地面をしっかりとグリップする、兵士が利用するようなそれであった。そのような靴を履いている心当たりといえば、複数あるものの、人間の歩き方には癖がある。
ぎゅ、と廊下の固い面を食む音。
エミリーでは、ない。
しかし、その足音は部屋の前で止まり、待てど暮らせどうんともすんとも言わなかったドアノブが大きく右に回る。誰かが、入ってくる。
「エミリー?」
そうではないと理解しつつも、あまりにも長時間待ち続けた身としては、そのような期待をせざるを得ない。
謝必安はドアがゆっくりと開いていく隙間を食い入るように眺めた。そうして、開いた戸の下に立つサバイバーを見て、正しくはそのサバイバーが抱えている待ち人を見て、すとんとなにかが落ちた音を聞いた。
吐かれる息は水底のそれよりも澱んでいる。
「返しなさい」
抑えきれない殺意にも似た感情は、皮膚より滲み出し、空気をじとりと侵食していく。
扉を開けたナワーブは、おそらくはと十二分に想定していた気配であったが、それでも肺腑を突き刺すような悍しささえ覚える気配に身震いした。鈍く光り、上から見下ろしてくるその眼光の鋭さに、体の動きが制限される。
「早く」
促せば、その腕に抱えられていた体はゆっくりと傭兵の体から離れ、力の抜けた両足が床へとつく。
謝必安は、力の抜け、ナワーブの両腕の力のみでかろうじて立たされているその体を受け取り、己のものだとばかりに手早く抱え上げた。腕の中にすっぽりとおさめて仕舞えば、安堵と共に、震えるような気配が自然と薄れていく。
先刻とは打って変わった穏やかな表情に、ナワーブは唾を飲む。
お気に入りの人形が帰ってきたかのような、否、実質そうに違いないのだが、満ち足りた、敵意のない微笑みを浮かべる白黒無常を前にして、むしろそちらの笑みの方に、純然たる恐怖を感じた。
くん、と謝必安は鼻をエミリーの首元へと近づけ、その酒臭を嗅ぎ、納得する。
「宴会でしたか。さぞかし楽しいお酒だったんでしょうね」
「ああそうだよ。先生も眠っちまって起きねえから連れてきてやったんだ。感謝されこそすれ、そんなふうに脅されるいわれはねえよ」
その言葉に返答しようとした謝必安の言葉を遮って、ナワーブは言葉を続ける。
「と、言うかだ。あんた誰に対してもそうなのか」
その問いかけに謝必安は長い括った首を傾げる。ただ純粋に、質問の意味が理解できなかった。
謝必安の様子に、ナワーブは質問の意図を理解していないことを察し、言葉を選び直す。
「先生はあんたのおもちゃじゃないんだぞ。たとえ、あんたと先生が親しい間柄であったとしても、だ。独占欲にしたって、度が過ぎてる。先生を孤立させるつもりか」
「はあ」
「はあって、おい白無常」
伝わっているか伝わっていないのか、疑問の残る返答にナワーブは眉間に数本皺を寄せた。例えば、とナワーブは続ける。
「あんたも知ってるだろうが、俺はゲーム中やその後に先生に結構な頻度で世話になってる。だから、先生に感謝もしてるし、それを示すこともある」
「だから」
だからって、とナワーブはその間の抜けた返答に痺れを切らし、声を荒げようとし、そして息を飲んだ。
二つの瞳が、ぽっかりと、ただの一つの感情の揺らぎもなく、そこにある。呼吸を、一瞬忘れる。吸い込んだ息の吐き出し方を、思い出せなくなる。
ぽっかり。ぽっかり、と。
室内は照明があるにも関わらず、あるからこそ、その長身に遮られ、ナワーブの体はすっぽりとその影の中に収まってしまう。
その影の中に、二つの瞳が浮かんでいる。そこには、なにもない。何もかもが抜け落ちた、二つの光しかない。異様な。不気味である。
は、とナワーブは息苦しさを覚え、胸元を押さえた。呼吸の仕方を思い出す。
上下に口が開かれ、言葉が紡がれる。
「ナワーブ・サベダー」
舌が、歯列の隙間から覗く。
「彼女は、我々のものです。私と無咎の。白黒無常の。その魂の一欠片までも、貰い受ける約定を交わしている」
ですから、と薄い唇が動いた。
「あなたが彼女から如何に好意的な感情を向けられようと、その慈愛を受けようとも、それを以てあなたが彼女に近付く理由にはならない。この魂に触れることも、寄り添うことさえ、許しはしない」
他に質問は。
そう問われ、ナワーブは諦めた。
これは別次元の存在であると、諦めた。
いつも皆を助けてくれる彼女だからこそ、白黒無常の、とりわけ白無常の行動は目に余るものがあり、少しでもその助けになればと思ったが、諦めた。
なあ先生。あんた、なんでこれに心を許したんだ。
異質な存在の腕の中で、穏やかな寝息を立てるその存在すらも、ナワーブには十分に理解できないものへと変じた。
「ねえよ」
すっかり酒に呑まれたエミリーを寝巻きに着替えさせてからベッドに寝かせ、その横に当然のように滑り込むと、謝必安は柔らかな、先程退屈に紛れて押し潰した羽毛布団をかける。その穏やかな寝顔は、何に怯えることもなく、何を拒絶するでもなく、枕に沈んでいる。
長い爪先で、ふっくらとした唇を引っ掻くようになぞっていけば、薄く口が開き、酒の臭いがふわりと香る。
「ふふ」
エミリー。
ああと謝必安は掌に収まるその名を口にする。
視界にその姿があることにひどく安堵する。先程までのざわめきが嘘のように穏やかな気持ちでいられる。
「次からは、きちんと教えてくださいね。私、迎えに行きますから」
唇をなぞった指で、頬から顎へと触れ、謝必安は柔らかく微笑んだ。
しかしその笑みは、翌朝、物の配置が全く変えられた状況に、怒り心頭のエミリーから自室への出禁を告げられ、儚くも消えた。