引き留める、あり - 2/2

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 ゲームの様子は観戦することができる。
 傘を片手に豪奢なソファに、それはあまりにも柔らかで椅子に沈みこみ二度と立ち上がれないほどの柔らかさであった。
 白黒無常は、そのソファに腰かけて頬杖をつき、ゲームの様子を眺めていた。
 通電後、ジョゼフが弁護士と泥棒を逃がし、写真世界から、開いたゲートに走り込もうとした庭師に恐怖の一撃を加えダウンさせる。這いずって出るには、その距離はいささか遠い。
 庭師がダウンし、失血で喘いでいる場面でレオは席を立ち部屋を出て行った。その後、庭師を放置すれば、放置した庭師を救助に来た医師が引き留めるでダウンさせられる。
 血液の赤と雪の白が、目に痛いほどの対比で、謝必安は思わず目を細めた。
 医師が立ち上がり、ジョゼフの一撃を躱して庭師を手当する。攻撃からの硬直を終え、もう一撃加えるも、想定内だったのか、医師は救助を中断し、その攻撃すらかわすと再度庭師に治癒を施して、共に立ち上がる。
 ゲートまではあと僅か。
 一撃が重く、写真世界という面倒な能力を持っている写真家は、ゲームの勝率が高く、今回のような光景は珍しい。
 医師と庭師が逃げ切って、久々の四逃げで終了を迎えるのかと、他の観戦者は席を立って飽きたように部屋を出て行った。
 しかし、謝必安はロケットチェアにでも縛り付けられているかのように、椅子から立ち上がることができなかった。
 ジョゼフは立ち上がった二人のうち、わざと、狙いを定めて庭師を雪面に沈める。助けに走った医師の細い体に鋭い刃が突き立つ。
 貫通した刃は背から胸へと姿を現す。
 素早い動作でジョゼフは剣を引き抜いた。鮮血が、散る。
 医師と庭師は今度こそ立てなくなった。
 医師は這いずるようにして庭師に近づく。倒れ伏してなお、助けようとする姿は子を守る母のようだった。
 残念ながら観戦は映像のみで音声はついておらず、互いが何を話しているのかまでは分からない。
 半ばこと切れている庭師を横に、ジョゼフと医師は会話を繰り広げる。
 話している間も失血は続き、刻一刻とゲーム終了は近づいている。
 その後、なにやら取引でもあったのか、ジョゼフは失血死寸前の庭師を風船で吊り上げると、ゲート奥に放り投げて逃がした。これでジョゼフの敗北は決まった。
 最後にジョゼフは医師を吊る。
 奇妙な光景だった。
 医師が自ら写真世界に入り、そこで椅子に座らされる。恭しく、丁寧に、いっそ愛おしささえ感じるほど、優しくそれはもう目を奪われるほどに、ジョゼフは優雅に医師を椅子に座らせ、縄で固定した。
 二人はなおも会話を続ける。医師の方はほぼ意識がないのではないかと謝必安は思った。
 ジョゼフが刷いた血の紅だけが、ひとつ血色よく、青白い顔とは対照的にひどく目につく。
 写真世界が間もなく終わる。よくわからないゲームだった。椅子から立ち上がる。観戦画面から視線を外す。
 外そうと、した。
 謝必安は最期の医師の唇の動きを見て、思わず動きを止めた。
 ぞっと、全身の肌が泡立つほどの電撃が足の爪先から頭の天辺まで駆け抜ける。見間違いなどではない。打ち震える。
 椅子から立ち上がれなかった理由は、確かにジョゼフの行動の意味が分からなかったことも起因している。しかし、それ以上に目を奪われていたのだ。
 彼女の。医生の。エミリー・ダイアーのその姿に。
 幾度斬りつけられても治癒を施し、顔を上げ、必死に戦場を駆け抜けていくその姿に。
 満身創痍で駆けるその姿が、一撃で倒れ伏し、雪に埋もれ、這いずる姿はハンター故か、どうしようもない高揚を覚え、嗜虐心が刺激された。
 そして思った。
 そこに立っているハンターが何故自分ではないのか、と。
 謝必安は、その場に佇んだまま、医師が括り付けられた椅子が飛んだのを見届ける。
 彼女が最後に呟いたその言葉の、名前が、脳内を駆け巡り、呼吸が荒くなるのを感じた。何故と自問した。

 エミリー・ダイアーと初めて会ったのは、激しい嵐の夜だった。
 どうしても眠ることができず、一人傘を抱え、荘園の館の回廊を歩いていた。
 回廊は両側に窓が続いており、外の天候がはっきりとわかる。眩しいほどの光が閃めき、一寸遅れて雷鳴が轟いた。叩きつけるような雨が窓を叩く。
 息が止まり、思わずしゃがみこむ。
 眠れるものをと食堂に向かうのではなかったと心の底から後悔する。
 蹲ったところで助けてくれるものなどいるはずもなく、范無咎の魂が宿る傘を抱きしめ、耳を塞ぐ。
 嵐が過ぎるまでもう待つしかない。一晩も待てば、嵐は過ぎ去る。そのはずだ。
 謝必安は呼吸すらも殺して、大きく長い体躯を丸く小さく隠れるように収めた。
「どうしたの」
 小さな明りが回廊の向こうから走る速度で近付いてくる。距離を詰めてくる音に、どくりと止まった心臓が大きく跳ねる。
 滑稽と笑われるだろうか。ハンターとしての矜持を疑われるだろうか。噂話になって、ゲーム中にオフェンスや呪術師に馬鹿にされ、煽られないだろうか。
 ああ、と謝必安は唇を噛み、一瞬でその場に立ちあがった。取り繕った表情は少し強張っているかもしれない。
「ごみが、落ちていたので」
 苦しい言い訳なのは自分自身が一番、痛いほどによくわかっている。
「このような夜分にあなたこそどうしたのですか」
 ネグリジェで髪を下しているため、どのサバイバーなのか、謝必安には判断がつかなかった。しかし、会話に名前を混ぜる必要性は然程感じない。
 窓を叩く雨音を聞かない振りをして、謝必安は口端の引き攣りを笑みという形で誤魔化す。
「サバイバー一人で。襲われても文句は言えませんよ。迂闊にも程がある」
「ゲーム以外であなた方が私たちを襲うことはないと思うのだけれど」
「そうだとしても、で」
 す、と最後を締め括ろうとした瞬間、ほぼ同時に轟音が響く。
 雨が。
 水が。
 范無咎。
 呼吸を忘れた。
 謝必安は自らの体を抱えるように掴んだ。呼吸が整わず、恐怖から体は小刻みに震え、ぐるりぐるりと正常な感覚が薄れていく。
 明りを持った女性のサバイバーは、その小さな手を伸ばし、謝必安の手を掴んだ。
「顔色が悪いわ。こっちへ」
 冷たい、血の通わない己の手を握るその手は暖かく、謝必安は引かれるがままに回廊を抜けた。嵐の音は小さくなり、当初の目的地である食堂にたどり着いた。
 椅子に座らされ、コンロで牛乳が温められる。
 マグカップが三つ分用意され、それぞれに湯気が立つホットミルクが注がれた。
「甘い方が好き?」
「甘い」
「蜂蜜をいれると安眠効果があるの」
「無咎は、甘いのは」
「なら、あなたのだけ」
 とろりと黄金の蜂蜜がホットミルクに混ぜ入れられる。
 白色と黒色、それから緑のカップ。白色と黒色のマグカップが座った椅子の前に置かれる。
 女が自身のカップに口を付けて飲むのを見届けてから、白色のマグカップに口を付ける。毒なんて入っていないわよとサバイバーは穏やかに、ころころと笑った。
「わら、」
「なに?」
 甘く、優しい味のホットミルクにほっと肩の力が抜ける。
「笑わないのですか」
「ごみを、拾っていただけなんでしょう?」
 全て見透かされたようだが、まあ、ともごりと口の中で返答する。
 口ごもった謝必安にサバイバーは両手でマグカップを持ち、ホットミルクを口にして、目を細めた。
「笑わないわ。誰にでも苦手なものはあるものよ。白無常さん」
 嵐の音はひどく遠く、しかしまだ通り過ぎてはいなかった。またあの回廊を通ると考えるとひどく気が滅入る。
 その反応を見て察したのか、サバイバーはトレーを出すと、三つ分のマグカップをそれぞれ乗せ、椅子から立ち上がる。どこへ、と目で訴えると、応接間が隣だからそっちに行きましょうとサバイバーは穏やかに微笑んだ。
 一つ二つ窓のない部屋を通り過ぎ、暖炉のある応接間へ辿り着く。
 サバイバーは謝必安を三人掛けのソファに座らせる。柔らかな皮張りのソファが硬く骨ばった尻を包み込んだ。謝必安の前に再度カップが置かれ、その隣にはどこから拝借したのか、クッキーが乗せられた皿が置かれた。
 暖炉に火が焚べられる。柔らかな炎が揺らめく。
 謝必安の隣を一つ開けて、サバイバーが腰かける。手には毛布が二枚。一枚を謝必安へと差し出した。それを受け取るかどうか迷っていると、包み込むように毛布が掛けられる。
 何故このような状態に陥っているのか、さっぱり理解できないまま、謝必安は淹れてもらったホットミルクをちょびりちょびりと飲み、クッキーを一枚つまむ。さくりと口当たりがよく、ほどよく甘い。
「もう一人のあなたには、どうしたらいいかしら」
「謝必安」
「もう一人の?」
「彼は、范無咎」
 そう言って傘を撫でる。
 自己紹介を始めた理由を考えるいとまもなく、謝必安は高い位置からサバイバーを見下ろした。目線がかち合う。
「私は、謝必安、です」
「こんばんは、謝必安。私はエミリー。エミリー・ダイアー」
「ダイアー女史」
「ファーストネームでいいわ。エミリーと」
 エミリー。
 謝必安はサバイバーの名を口の中で繰り返す。どこの誰とも知らないサバイバーは、エミリー・ダイアーという形を持った。
 炎が揺らめき、木が割れる音だけが響く。互いに口を開くことはない。
 うと、と謝必安は瞼が重くなったのを感じた。外は嵐だというのに、こんな日に眠くなることはなかった。睡魔とは無縁で、水の音に怯える夜ばかりであった。
「おやすみなさい、謝必安」
 冷え切っていた体は、毛布と暖炉の火で心地よく温められ、ホットミルクで内から温もった結果だろうか。エミリーの声は心地よく謝必安の耳に届き、抗う必要すら感じず、そのまま首が落ちた。

 顔をくすぐる感触に目が覚める。栗色の髪が顔の周りにカーテンを作っていた。睫毛が長い。
 違うそうではない。
 謝必安は、頭部の下にある柔らかな肉に目を瞬いた。このまま体を跳ね起こすことも可能だが、ほぼ間違いなく顔面が衝突する。
 体には毛布が、長い脚を覆うために二枚分かけられており、頭は柔らかな膝の上にある状態で、俗にいう膝枕という状況である。
 ちらりと横に目線をずらせば、黒色のカップの中身はなくなってた。ソファに体を預けるようにして眠ったので、少なくともこのような姿勢になるはずもない。
 無咎!范無咎!
 己の半身の名を謝必安は胸中で叫び倒した。
「エミ、リー」
 恐る恐る名を呼べば、睫毛が震え、大きな瞳があらわになる。零れ落ちそうな。
 ああ。
「体の調子はどう?」
 何事もなかったかのように紡がれる言葉は、体を労るそれであった。
 謝必安は、体をすさまじい瞬発力で起こし、大丈夫ですと繰り返した。頭はぶつけないように気をつける。
 その答えに、エミリーは満足げに微笑む。
 そして大きく伸びをして、ぶるりと身を震わせた。すでに暖炉の火は消えており、謝必安はそう言えばと自分にかけられていた毛布の数を思い出す。二枚。エミリー・ダイアーが持ってきていた毛布も二枚。
「あなた」
 謝必安の言葉の意図に気付いたのか、エミリーは笑って、いいのよとぐっと両手で力こぶを作ってみせた。
「こう見えて、体は強い方なの。さあ、朝食の時間ね。部屋に戻らないと。嵐もきっと去っているわ」
「部屋まで、送ります」
「大丈夫。ゲームでは迷子になりがちだけれど、自分の部屋までの道のりは間違ったりしないから」
 あなたこそ大丈夫、と反対に心配をされ、謝必安は首を縦に振った。
 エミリーは毛布を畳むと両手で抱え、元の場所に戻す。空になったマグカップをトレーへ戻し、背筋を伸ばした。
「それじゃ」
「ええ」
 二三歩進み、しかしエミリーはそこで突然足を止めると踵を返し、謝必安の前へと戻ってきた。
 謝必安は傘を胸の前に抱え、肩を寄せる。
 言葉を失っているハンターにエミリーは告げた。
「嵐は、苦手?」
「嵐、いえ、雨の日が」
 ハンターが自ら弱点をさらけ出しているようでは致命的である。
 謝必安は慌てて唇を噤んだものの、すでに遅く、エミリーはその答えをしっかり聞いてしまっていた。しかし、エミリーの反応は謝必安が想像していたものとは違った。
 医師としての顔がそこにあった。
「睡眠はとても大切なものなの。もし、眠れないようなら、そう、またこの部屋に来たらいい。雨の夜は、私はここにいるようにするから。場合によっては薬の処方も考えるわ」
 それじゃ、と立ち去った背中を眺め、謝必安はソファに再度転けるように座った。
 大きな手で自らの顔を覆う。
「無咎」
 話がしたい。そう思った。

 敗北したハンターが荘園に帰ってくる。
 謝必安は、負けたというのに足取りの軽いジョゼフの背を追った。傘に身を溶かし、ジョゼフの前に姿を現す。
「出迎えとは珍しい。何か、僕に言いたいことでも?」
 衝動的な行動の結果のため、言葉が紡げず、謝必安は一寸黙りこくる。
「何故、わざと負けるような真似を」
 咄嗟に出てきた言葉は、自然な質問だった。謝必安はうまく取り繕えたことに胸を撫で下ろす。
「何故?」
 一瞬、殺意を向けられる。すぐにおさめられたものの、謝必安は詰めていた距離を一瞬で離した。
 すまない、くだらない質問だったから、とジョゼフはとぼけて肩をすくめて見せた。
 白く細い指が一枚の写真を弄ぶ。血の海に沈むエミリー・ダイアーの写真である。
「残念ながら今回は失敗だった。写真世界に閉じ込めて椅子に座らせても駄目なことが分かった」
「彼女をどうしたいのですか」
「どうしたいと思う?君は」
 謝必安。
 目が細く細く、糸のように細められ、紡いだ唇の動きは、最後に見たエミリー・ダイアーのそれと一緒だった。
 ああ、動かないはずの心臓が、ひどくうるさい