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長い長い間の後、東眞は相変わらずののんべりとした顔で答えた。
「それは困ります」
あまりにもそれが当たり前のように発言されたので、スクアーロは突っ込む隙を逃した。だが心の中は戦々恐々としている。恐る恐る唾を飲みながらちらりとXANXUSの方に視線を向けた。一体どのような表情でその怒りを表現しているのかというが想像するだに恐ろしい。
しかし、その視界にとらえた表情は怒りのものではなかった。スクアーロはそれにはっと気付き、東眞の肩を隣から軽く揺する。
「う゛お゛ぉおぃ、女ぁ…あ、謝っとけぇ…」
普段から大声のスクアーロにしてはかなり珍しい囁くような声でそっと耳打ちする。しかし東眞は謝るということをしない。
「私には婚約者がいますし、日本には必ず帰ります。ですから困ります。えぇと、XANXUS…君?」
「!ぶっ!!は、はーはははははっ!おい、ボス!XANXUS君だってよぉ!ぶふ…っ」
XANXUSは返答の代わりにスクアーロの頭に空になっている瓶をぶつけた。良い音がしてスクアーロは椅子から転げ落ちる。
「君はやめろ」
「ではXANXUS氏?」
「それもやめろ」
「…XANXUSちゃん?」
「…かっ消すぞ」
「冗談です。XANXUSさん、で構いませんか」
東眞はふと笑って許可を求めた。今まで言われた中では限りなく一番まともだったのでXANXUSはああと答える。椅子から転げたスクアーロがようやく立ち上がって、XANXUSを睨みつけるものの、睨み返されて言葉を詰まらした。
膝の上で組まれていた手を東眞は組み直してXANXUSともう一度視線を合わせる。
「たとえ誰が何と言おうとも、それが私が取った決断です。私は日本に帰って、結婚します」
「とんだ気違いだな」
「一度ならず二度までも助けてもらった方に、これ以上は…」
「一度ならず二度までも助けてやったんだ。三度目も付き合え」
笑っている瞳に東眞はうん、と唸る。
「ここに暫く居ることはできますが、女になるのは無理です」
「黙って俺の言うことを聞け」
「無理なものは無理です」
「テメェに拒否権なんぞあると思ってんのか?」
うっすらと笑ったXANXUSに東眞は目を丸くした後に、はいと答えた。顔には大きな黒縁眼鏡がずり落ち掛けて、それをのんびりとした様子で直す。
スクアーロは一人そのやり取りを見ながらあたふたとしていた。女が死ぬのが先か、XANXUSが切れるのが先か(そうは言ってもそれは同義である)はらはらとその様子を見守る。
「無理強いをされれば私は自害します」
あっさりとそう言いきった東眞にXANXUSは冷たい視線を向けた。
「テメェは死なねぇ」
「どうして…そう、言いきれるんですか」
「勘だ」
さも当然とばかりに言い放ったXANXUSに今度は東眞が言葉を失う。次の言葉を探している東眞にXANXUSは追い打ちをかけるようにして言った。
「大体テメェの意見が通るとでも思ってんのか。ここから逃げられるとは思うな」
「逃げるのではなく、帰るだけです」
「できるもんならやってみろ」
「では、やってみることにします」
すっく、と女は立ち上がって二人に背を向けた。そして徐に傍にあった椅子を手に取り窓ガラスに叩きつけた。ガラスが凄まじい音を立てて飛び散る。飛び散るガラスの破片を見ながら、XANXUSは目を細めた。
東眞は手が切れるのも気にせずに窓枠に手をかけてよいしょと登り、そして落ちるようにして下りた。黒髪が窓から消えた。その何とも言えないほどののんびりとした行動にスクアーロは拍子を完全に抜かれていた。それなりに腕の立つ者しか相手をしてこなかったせいか、その行動がまるで映画か何かのように感じる。
しかし数分後、開かれた扉から両脇を固められて東眞は引きずられる様にして帰って来た。否、連れて来られた。
XANXUSは試すように東眞に問うた。
「どうだ?」
「…やってみました。が、試みは失敗しました。それでも貴方の女にはなれませんし、いつかはここから出ていきます」
「言ってろ」
突き離すように言葉を投げたXANXUSと困ったように眉尻を下げた東眞を見ながら、スクアーロは一人状況から取り残されていた。
「姉貴…」
修矢は少し遠いところから、東眞が連れていかれた屋敷を睨みつけるようにして見ていた。
必ず帰る、とそう言った義姉だが、そう簡単に帰してもらえるような雰囲気ではなかった。このままでは彼女の不在が明るみに出てしまう。そうなれば相手方の怒りを買うことは必至。それだけはどうしても避けたい。先に怒りを買って組を潰されては何もかもが駄目になる。
俺が。
ぐっと修矢はきつく拳を握りしめる。
大切な姉なのだ。他の何物にも代え難い。唯傲慢に不遜に、人としての何かを忘れかけていた己に優しさを教えてくれたのは他ならぬ彼女なのだ。痛めつけられるのも苦しめられるのも見たくはない。
だからこそ今は日本に帰ってもらいたい。父にばれれば本当に折檻などでは済まない。当初の約束、大学卒業という願いすら破棄される恐れだってある。結婚するその日まで薄暗い地下に閉じ込められる可能性も十分に考えられる。
姉はそれを全て受け止めるつもりだろうが、そんなことはして欲しくない。
何故姉がここイタリアに来たのか、その理由はなんとなく分かっている。<確かにそんな理由では父が義姉をイタリアに来ることを許すわけもない。
姉は父を勘違いしている。父が義姉を育てたのは哀れに思ったからでも、優しさからでも何でもないのだ。
全ては俺という存在のために。
「姉貴――――必ず」
目を伏せて修矢は項垂れた。